2019年9月16日月曜日

内面がほとばしり出る


 先週金曜日(9/13)、神田で映画を見たついでに上野の東京都美術館へ足を運び、秋の院展を覗いた。招待券を頂戴したからで、お目当ては高橋俊子の作品だけ。どんなものを書いているのだろう今回は、と興味津々ではあった。去年の春と秋の作品を観た思いを振り返ってみる。


 2018年春の作品。
 《第三会場に飾られていた高橋俊子さんの作品は、ちょっと際立っていました。見た瞬間、「おっ」と声が出たものです。院展の作品は全般に、輪郭をほんのりとぼやかし画面全体が靄に包まれたような、印象系の表現が多くなっていました。ですが高橋さんの母子像の、力強い母親の輪郭と深く秘めた決意を感じさせる視線は、抱かれる子どもたちの未来の確かさを保障するもののように思えました。
 全般の「印象系の表現」というのは、(日本だけの傾向かどうかはわかりませんが)自分の意思を明快に突き出すことを控えて、周囲の雰囲気を探るような気配を湛えています。(いまさらながらですが)大衆社会の「他人指向」を思わせます。それに対して高橋俊子さんの作品は、単にしっかりした輪郭というのではなく、内面にひそめる母親の力強さが見事に表現されていて、そうだこういう心もちこそ私たち戦後世代が身体感覚の根柢に持っていた人間観ではないかと思えて、うれしくなりました。葉書にしたものがあれば買い求めようとショップをのぞきましたが見つけることが出来なくて、残念な思いを抱えて帰ってきました。》

 2018年秋の作品。
 《秋の院展の作品も、同じモチーフだが、画面ははるかに大きい。祖父母と嫁の大人三人と子ども四人。『生きる・雨季がはじまる』と題されている。縦1メートル半余、横2メートル半はあろうか、屏風絵のような割方。左側にまだ幼い子を負ぶった二十代の嫁が雨の中に立ち、中央に二倍の面積を占めて、蝙蝠傘の下に祖母が眠りこける3歳くらいの男の子を抱いてしゃがむ。その祖母の衣服の端をつかむようにやはりしゃがんだ5歳くらいの女の子が何かを見つめるようなまなざしを向けている。そして右側の屏風には、祖父と7歳くらいの女の子が雨に濡れたまま佇む。雨が降りしきる。だが不思議に、雨が亜熱帯のそれのように温かい。濡れることがいやな感触をもたらしていない。慈雨の季節が来たという喜びさえ醸し出されてきそうな、柔らかな雨だ。細かい表現だが、雨が地面に落ちて跳ね返るときの小さな雨粒が、歌い出しそうに思われるほど、蕭蕭と降り落ちて世界に溶け込んでいる。》

 都立美術館の院展会場はいくつかに割り分けられ、展示室ナンバーが降ってある。その「第9室」の10点のなかに、文字通り異彩を放っていたのが、高橋俊子の作品であった。タイトルは相変わらず「生きる」。ほかの展示作品が、いかにも「院展」らしく、上品な気配を湛えて着飾った美術品という雰囲気なのに対して、彼女の作品だけが叫び声をあげるように「にんげん」を描き出している。作品の全体のつくりは去年の秋と同じ三分割。いま去年の文章を読み返して、あるいは少し大きくなっているのかと思った。縦2メートル×横3メートルの三分割か。中央にいま踊っているダンサーの全身像、左側の楽屋にその亭主と思われるピエロと2歳くらいの小さな子ども、右側にやはり楽屋でそのダンサーを見ている(と思われる)1歳ほどの子どもを抱いた同業の女性と3歳くらいの子犬を抱いた水着の女の子。

 昨年までの静かなたたずまいとうってかわって、烈しく内面が噴き出している。中央のダンサーは、己の裡に抱えた憤怒をほとばしらせるように踊っている。憤りがオーラになって飛び散るように身体の輪郭を縁取り、さらにそれが周りに訴えかけるように花びらになって降り注ぐ。身の裡側をこれほど激しく外へ向けて描き出している作品は、ほかには、ない。その激しさを冷めて見つめるピエロの目、その後ろには操り人形と傀儡子の姿が描かれたポスターが貼られ、隅に「CiTy Museum」と記している。この催し物が行われている会場なのであろうか。

 右側の楽屋の同僚(と思われる)女性は、ダンサーの憤怒に対して不可解とも共感とも言い得ぬ表情を湛えて、じっとその演技を見ている。ただその表現の仕方に、畏敬の念も含まれているように思えるから、先輩の演技を盗もうとしているのかもしれない。

 今年の作品は、明らかに昨年の作品の領域から離陸している。「生きる」という標題が示すように、昨年までの作品も「にんげん」を描き出している。だが昨年までの、裡に秘めた思いが滲み出てくる(そこを読み取ってよという)ような次元の枠組みを踏み破って、「せかい」にたいする憤怒が抑えようもなく突き出てきている。それを受け止めるピエロの冷めた視線とそこから何かをくみ取ろうとする同僚の視線が、しかしまだ、コミュニケーションを交わしているというほど相互的でない。昨年の、内面の思いが果たして受け止められるかどうかわからないのに対して、今年の作品は、あきらかに結界を破って「せかい」に呼び掛けている。「にんげん」を描く先の「しゃかい/せかい」が顔を出した。

 高橋俊子という作者がどのような径庭を経てきた、何歳の方かまったく知らないので、表現された作品だけから読み取るしかないのだが、後期高齢者の私からすると、その変わりように「若さ」と次の時代への息吹を感じとることになった。

 取り澄ました「院展」という絵画世界は、あまり私の好みに合わないが、この人の作品を見るためだけにでも足を運ぶ価値があると思った。

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