2019年9月17日火曜日

リベラルの原点回帰は限界点でもある


 サザ・ハルヴァン監督『聖なる泉の少女』(ジョージア映画、2017年)を観た。不可思議な力を持つ村の泉を護りながら、村の「医師」として水による治療をやってきた父娘。娘の兄たちは皆、キリスト正教会やイスラムの聖職者になったり、無神論の科学の教師になっている。「おまえは特別な子だ」と言い習わされてきた娘が、聖なる泉を父とともに守ろうとするのだが、生長するにつれて(己への視線も加わって)疑念が湧く。他方で村は水力発電所の建設が進み、人びとの心もちの、聖なる泉との乖離がいっそう大きくなる。ついに泉に棲む魚が病むに至り、泉の少女はその魚を湖に放すというお話。


 いつもの感懐と同じで申し訳ないが、どうしてこんな映画がいま、わざわざ外国から持ちこまれて鑑賞されるに値いするのだろうか。「太古からの教えを継ぐ家族の物語りが心の扉を叩く」と、キャッチコピーは記すが、今の日本でみる私たちの高度消費社会に至っている現在の何の(心を)を叩いているのだろう。

 贖罪感を引き出す契機になっている?
 どこが。
 近代化に突き進む哀しさが表現されているわけでもない。「太古の教えに」付き従うことへの、娘の葛藤が鋭く抉り出されているわけでもない。なんとなくもやもやと霧に包まれて隠されるように進行し、最後の場面も靄のなかに消えるように描き止められる。描き出す方も、わからないままなのだ(と受け止めるほかない)。

 昔、羽仁五郎という評論家が「都市の論理」という本を上梓したとき、「つねに根源的なことだけを言っていれば、間違わないわな」と友人とやり取りしたことを思い出す。つまり状況と交錯しない「正しいこと」を述べ立てていれば、道を間違うことはないが、槍を突き立てることはできないと(当時若い私たちは)批評していたわけだ。これは、評論活動としては、退廃である。

 岩波文化とかつて称賛された日本のリベラルが、いまこの地点にいてなお、相変わらず「太古の教えにこだわるのは古い」と言い立てているのは、もはや「こころの扉を叩く」音すら発しない。間違いなく退廃している。そう、もはや若くない私たちに評されるのは、日本のリベラルがすでに限界点を踏み越えてしまっている姿かもしれない。ジョージアでは見るに値いするかもしれないが、日本では退廃したノスタルジーにすぎない。

 つまらない映画を見た。

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