2019年9月10日火曜日

根っこが同じという根拠


 国語の誕生が近代ナショナリズムの出発点とみてきた。ふと思い出したのが、井上ひさしの戯曲『国語元年』。バブルのころだったか、彼の劇団「こまつ座」でやっていた。戯曲本が図書館にあった。新潮社、昭和61年(1986年)の刊行。中身はすっかり忘れていた。明治一桁年代のころ、文部省のお役人が「全国統一話言葉取調ヲ命ズ」を受けて右往左往する物語り。そのお役人は長州、奥方は薩摩人、女中などは山の手ことば、江戸下町方言、大阪河内弁、南部遠野弁、羽州米沢弁を遣う各地出身者。そこへ京ことばのお公家さんと会津弁の泥棒がかかわって、「全国統一話言葉」を探るやりとり。同時進行で「小学唱歌」を編むことを行っている。とどのつまり、「小学唱歌」が共通語の体感をかたちづくり、それが「国語」の話し言葉になっていくことを予感させている。井上ひさしの台本は、(現在の共通)日本語の台詞に各地の方言をフリガナで振り、舞台のおかしさをつくりだしている。


 読んでいて不思議に思うのは、各地の方言を話す人たちが、どうして「同じ日本人」という一体感をもっているのか。そもそも自分の話す言葉を「方言」と思うからには、中央の、共通の、あるいは標準となることばが前提となる。むろん、かつての地方「藩のことば」と見れば、自分の話すそれを「方言」と認めるのは、藩に代わって新しい中央政府が誕生したと認知していれば、同時に成立する。中央政府に仕えることになった薩長出身のお役人の下男下女という「お屋敷意識」がベースとなると考えると、わかりやすい。彼らは、各地からの出身者がいることによって、自らのそれを「方言」と認め得る。井上ひさしの舞台に登場する人々は、自らのそれを「方言」と位置づける気配もなく、共通語のように話して言葉を交わす。舞台を見ている人たちは、立ち居振る舞いが台詞の謂わんとするところを半ば以上表現しているから、断片の「方言」の意味をくみ取る。読む者は、フリガナではなく本文を読みすすめる限り、まったく齟齬はない(井上の舞台特有の面白味もなくなるが)。

 もうひとつ共通認識と言えるものに、「書きことば」というものがあった。文語体であったり、ほぼ漢文であったりした。これは維新当時の住民の半分が読み書きできたというから、「(自分の)話し言葉」は「方言」であっても、標準となる、あるいは全国に共通して通用する「書きことば/言語」があるという認知は発生する。それによって、自分たちの「話す言葉」は「方言」であるという位置づけを受け容れることができたのかもしれない。

 とは言え、「話し言葉」となると、「場」を共有する体験もないのに、「見ず知らずの人も同じ日本人である」という認識は、どうやって生まれるのだろう。そこを井上ひさしは、「小学唱歌」の編纂をすることへとつなげている。それが人々の口の端に上るのは、もっとずうっと後になろうが、山口謡司『日本語を作った男 上田万年とその時代』(集英社インターナショナル、2016年)が触れている。山口謡司は「話し言葉」と言わず「口語表記法」と表現して、「言文一致」が(ネーションとしての)形を成したのは「文部省唱歌」として広まっていったからだとして、博言学の高野辰之の作詞した「故郷」「朧月夜」「もみじ」「春の小川」「春が来た」を紹介している。学校の体験が共有感覚になっているのは間違いない。

 わが身の裡のそれを振り返ってみると、小学生時代に瀬戸内海を挟んで香川県と岡山県を行き来して育ったこともあって、「(私の)方言」は手ひどく嗤われたことが思い出される。7歳の私がとった適応の方法は、教科書の表現とラジオの話し方を真似ることであった。当時学校教育で「標準語を話そう」という(運動がったかどうか、子細は検証していないが)教師たちの奨励にも扶けられて、イントネーションは別として、書き記せば「標準語」になった。むろん上田万年が力を尽くした「小学唱歌」もまた、わが身の根柢の一部をなすほどの力を、いまだにもっている。

 メディアを通じての「共有感覚」は、その後TVになった。若いものは自分が成長するときに、子育て世代はわが子の成長にともなって観ていた番組のアニメソングを、共にした職場の忘年会などで大合唱することも珍しくなかった。1990年を迎えるまでは、ごく普通の光景だったといえよう。その光景を変えたのは、多様化と個別化と携帯化が進行したメディアの変化ではなかったろうか。ウォークマンなど携帯(ポータブル)音楽プレーヤーになってからはとくに、みんなで一緒に聴き歌うというシーンが、共通の趣味を持った人とのライブやスポーツ場面のバックミュージック以外に、みられなくなっていく。1980年代の高度消費社会化とその後に進行した情報化時代の到来によって、ますますその傾向は促進された。

 これが、経済のグローバル化と同時的に進行したこともあって、ますます人々のからだに刻まれた(時代や文化の)共有感覚は、拡散していったのではないか。年寄りは、「わたし」がかたちづくられていった時代の残影がからだに刻まれていて、さほどのことはないだろう。だが若い人たちの間では、「わたし」の身の落ち着きどころである定位点がわからなくなってきたともいえる。こうして人々は、どこかに「わたし」の落ち着きどころを求めて、さすらうことになっているのではないか。

 いまや「日本人」と述べるとき、何をもって(誰のことを)そう呼ぶのかを問われると、答えに窮してしまう。それは逆に「外人」ということもそうだし、「中国人」とか「韓国人」とか「イスラム教徒」と呼ぶときにも、同様にひと口で規定できない様相が広がっている。にもかかわらず、法制度的には、「国籍」であるとか「定住して戸籍をもつ」とか、旧態依然とした形があいかわらずつづいている。ついつい、他を排斥することによって身の証をたてないではいられない人たちを輩出してしまっているように見える。

 さて、それにそれほど困っているように思えない「わたし」は、では、どのような「身の証」をたてることができているのだろうか。「想像の共同体」というが、どのような「想像」がわが身を支えているのであろうか。そんなことを考えるともなく思うのでした。

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