2019年9月6日金曜日

古色蒼然たる「コミュニティ」


 隔月で行われているseminarの「お題」をお知らせした。お題は、《「団地コミュニティ」の社会学的考察》。すぐに出欠の返信が来たが、以下のような書き込みもあった。

(1)高度成長時代の遺物の廃墟? の話ですか。当地にも高蔵寺ニュウタウンなる団地があって、今や所有者も判然とせず、住民票も取れない人たちもいると聞きます。建て替え問題など大変だそうですね。こんな後ろ向きな話でないと思いますが、「潜入密着取材」は興味津々です。

(2)コミュニティといっても今、高齢化、そして、そもそも論として空家だらけではコミュニティなんて言葉は成立しないですよ。/町内会も高齢化で脱退者が増えて、ます。なんぞの時の助けあいなんて言うは美しくも非現実的。身体が動かなきゃできやしない。僕は野垂れ死にを覚悟してます。/高齢化と孤立(個立?)の行き着く先は誰にでもわかるが今更昔の大家族、互助の環境に戻れるわけもなく、解決するすべはないと思うし、解決のためと銘打って無駄金を投ずるのもいかがなものか。/町内会なんて馬鹿馬鹿しいと思ってます。因みに我が町の歴代会長は世間知らずの学校の校長経験者。


 「コミュニティ」と聞いて、すぐに古色蒼然としたイメージがついて廻る。(1)が触れる「建替え問題」は、すでに公団住宅やかつてのニュータウンで取り組みが行われている。阪神淡路大震災以降の耐震補強もあって建築基準が変わってきているから、とっくに取り組みは「問題」の次元を終えている。

 (2)が指摘する「空き家」にしても、所有者している方は若く健康な頃の自分の感覚で(建物をも)みていたから、高齢化してどうすんだよと言われても、放棄すればいいんだろという程度にしか考えられない。そもそも「使い捨ての時代」だったではないか。古くなった建物をどうするかは、都市計画のモンダイでしょ。そのために固定資産税の外に都市計画税を長年にわたって取ってきたのではなかったか。行政のモンダイだよと知らぬ顔の半兵衛を決め込む。所有者はそう考えて、朽ちるに任せる。建物の野垂れ死にだ。

 (2)が指摘する通り、「町内会/自治会」というのは、もっぱら行政の下請け機関活動しかしていない。行政文書の配布・回覧、防災訓練や避難訓練や敬老会や地域行事、あるいはそれらに関係する会議など、予算があるから何かをやるという「お仕着せ」の活動しかしていない。まさに「コミュニティ」が成立する根拠となる実体がない。

 思えば戦後日本の近代社会の「市民」イメージは、個の自律、自己責任を称揚し、学校などを通じて教育してきた。まさに「個立」である。「市民」が社会を支えるといっても、納税と教育と労働の義務。ほかには、せいぜい選挙権を行使することくらいしか教わらなかった。つまり、社会を支えるのは地方行政の役割とみて、全部、議員や首長、公務員にお任せできたのだ。社会が民主制・資本制社会前期の発展段階にあったときには、これはお気楽であった。彼らが、よほど勝手なことをすれば怒ることもあるけれども、たいていは「お仕着せ」のままに受け容れ、それに適応してきた。非力な庶民のありようとしては、それが正解だったと私は思うが、となると最終的なわが身の処し方は「家族」に頼るか、商業的な交換に依存するしかない。係累をもたない場合には、野垂れ死にも視野に入るわけだ。

 こうして「コミュニティ」は、交換経済を主軸とした(現在の)社会が破綻することがないように社会システムを円滑に回してくれる機能にのみ期待するようになる。こうなると、貿易の自在な取引とか国家間の安全保障とか、地域社会の治安維持という、大きな「課題」ばかりが関心の対象として浮かび上がる。「ナショナリズム」が焦点化するのも、それゆえであるといえる。自分たちの日常の「かんけい」をとりもつ「コミュニティ性」は、個々人の市民として備えるべき資質として、個人責任に帰せられたままになる。

 《自分たちの日常の「かんけい」をとりもつ「コミュニティ性」》とは何か。「団地コミュニティ」の考察をしていて私が気づいたのは、「コミュニティ」というのは、日常の暮らしの実務を土台にして、それを取り仕切る所作と「かんけい」である。「団地」は、重層的な集合住宅であるから、建物すべてが個人所有ではない。共有部分、専用使用権部分、私有部分と三種に分かれる。躯体の修繕は、戸建ての家の場合はその所有者が故障個所をチェックし、専門業者に発注して修理したり、回収しなければならない。それを団地の場合は、管理組合が行う。管理組合の理事会が(総会の議決を経て)委託したり、業者選定をしたり、改修をする。それは、戸建ての持ち主が暮らしとして実務的に取り仕切っていることだが、団地の場合は管理組合理事会に全部お任せしておけば、部屋の持ち主は関与せずに過ごすことができる。ただ、理事が輪番で回ってくることを除けば。

 つまり戸建て住宅の持ち主が暮らしの実務として行っていることを団地は、管理組合として行っているから、その遂行過程において、それが「コミュニティ」のかかわりとして浮上してくる。戸建てに住む人々にとっては個人的な「暮らし」の実務が、「社会的かかわり」として出現するのである。そこには、暮らしている人々の互いの文化的な違いが「齟齬」として現れるし、意見の対立として表出する。それをどう始末するのかが「コミュニティ」の文化性の問題となる。戸建てに住む人々にとっては、「家庭のモンダイ」(夫婦の齟齬の問題)になるものが、公のこととして取りざたされるから、その始末の仕方もまた、社会的なモンダイとなるというわけである。古色蒼然たるコミュニティとして斥けるわけにはいかないのだ。

 では、戸建てに住む人たちにとって、団地コミュニティで問題となる文化の齟齬などは、どう扱われているのだろうか。そう考えは進展する。面白い。とりあえず今日は、古色蒼然から抜け出したところで、留めておこう。

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