2019年9月9日月曜日

すみなれたからだ、なのに(2)


 ノーベル文学賞受賞作家・クッチェ―の『モラルの話』の一篇について、2019年1月5日のこのブログでは、以下のように記している。

 《もうひとつ、「物語」。不倫。娘を学校へ送り迎えする主婦が、週に一度、ときに二度、街中の男のアパートへ行って抱き合う。ところが彼女にとってそれは、欲しいと思っていたものが手に入った喜びに満ちている。「やましさは感じない」。夫との間は、それまで以上に親密になる。「ふたりのあいだのことにはまだ名前がない」。もちろん不倫という名も、別の「物語」を知るときに名づけられるが、いまは、そうとは言えない。男の固有名もあるが、彼女は男を思うとき男Xと呼ぶ。そう呼ぶことによって、彼女の胸中に物語をもって起ちあがってくることをやんわりと拒んでいるように見える。男Xであるがゆえに、彼女の欲望を解き放つ「関係」に限定しておくことができるようだ。/「結婚した女が、意識的な決断をした結果、結婚した女であることを短時間やめて、ただの自分になり、それが終わればまた結婚した女に戻ることはできるだろうか? 結婚した女でいるって、どういうこと?」》


 当時の私は、クッチェ―のつけた表題のように「モラルの話」として、取り上げだ。だがその底には、女の欲望の解放という主題が横たわっている。男の欲望については、世界のどこにおいても、すでに十分開放されてきた。小説でも映像でも、男の欲望を土台にして作品がつくられてきた。日本でも社会通念が明らかにそう傾いていたから、たとえば近年の「不倫」にしても、「世論」に厳しく責められるのはいつも女性の方である。それが(いつごろからか)女性の欲望の解放をも組み込むようになってきた。「R18」と指定を受けてはいるが、窪美澄の作品もそれを明かしている。まだ緒に就いたばかりといえようか。

 すみなれたからだの恒なることを、男でも女でも、それとして取り上げることが社会的に容認されたとき、たとえばフランスのような「家族」や「結婚」に関する応対が生まれるのかもしれない。日本同様に少子化に悩まされていたフランスでは、「結婚」や「家族」について長く支配的であった「観念」をひとまず取り払った。つまり、離婚を認めないというカトリックの軛から国民を解き放とうと法改正を行い、「事実婚」を制度として導入した。税制や保育制度やその他の社会的保障や恩典を、「事実婚家族」にも、単身家庭にも同じように受けられるようにする仕組み改正である。その結果フランスでは少子化を脱してきた。それは、からだとこころの亀裂を放置しないで、社会システムとして取り組むことによって、一体化へ踏み出したことであったといえる。

 日本では相変わらず「家族」を制度として堅持しようという保守思想が世の中を席巻している。「不倫」に対するメディアの非難も、外国人労働者の日本在留から家族を排除しようとする法制度も、露骨にからだとこころの亀裂を、守旧的観念で塗りつぶそうとしている。これは、「わが裡なるナショナリズム」でモンダイにしてきた、「アイデンティティ」の不確かさに揺らぐ日本人のこころを表してもいる。人と人とのつながりにわが身を寄せることができるか、「一体感」がわからなくなった現代日本の人々が、「日本人」という観念にこだわることによってメンタルな安定を得ようとして、「ヘイトスピーチ」へ傾く動きにも、同調している。

 私たちヒトは、どのような社会で生きていくことを望んでいるのか。回答は一つというよりも、多様な形のありようを想定すると、根底的に、つまり哲学的にからだとこころの一体化を現実のものにすることができるような社会システムへと、法制度的にも改めていく必要がある。その地点に今、立っているのだと思った。むろん私たちは伝統的な気風を受け継いできている。だから「古い」習俗のなかにも、汲み取って学ぶべきことが多々あるとも思う。だがいきなり私たち非力な庶民が、社会システムの改正をイメージしても、仕方がない。それらのモンダイを、からだとこころの一体性という次元で一つひとつ丹念に解きほぐして、組み立て直すことを市井の暮らしの中からはじめてはどうだろうか。それは、たぶん、一人一人のからだとこころに、自ら問い直すことからはじまるように思うのだが、どうだろうか。

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