2023年2月28日火曜日

日本人の不思議の根っこ

  BBC東京特派員ヘイズさんは、《…それでも日本は変わりそうにない。原因の一部は、権力のレバーを誰が握るのか決める、硬直化した仕組みにある》と指摘し、《明治維新…(と)1945年の(敗戦という)2度目の大転換が訪れても、日本の「名家」はそのまま残った》と日本社会の「硬直化」の因を探り当てようとしている。

 ヘイズさんは「権力のレバー誰が握るのか決める」私たち庶民の心性を探り当てようとしている、と読んだ。そしてそれを私は「日本人の不思議」と名付けた。私にとってもそれは「ワタシの不思議」だからである。ひょんなことで、二つ、心当たりのある根っこの「不思議」に出逢った。

 ひとつは、ジョナサン・ローチ『表現の自由を脅かすもの』を孫引きした小谷野敦に触れた8年半ほど前の私の既述。もう一つは、今朝(2023-02-28)の朝日新聞「折々のことば」に記された青木さやか(とそれを引用した鷲田清一)の言葉の持つインスピレーション。まず、その二つを紹介する。


*1 ◇ 愚民社会か選良の条件か(再掲)


 …(前略)…小谷野がそのように攻撃的である理由が、同書の中にあった。小谷野は、《「どんな差別表現も反人権的記述も一切自由」だが、「批判を受ける義務がある」》というジョナサン・ローチ『表現の自由を脅かすもの』(角川選書)をまとめた呉智英の言葉を孫引きして、つづけて次のように言っている。

 《ローチは、批判し合うことは自ずと傷つけあうことになるが、傷つけあうことのない社会は、知識のない社会だといって、こともあろうに日本の例を挙げている。日本には、公の場で堂々と議論するという伝統がなく、日本では「批判」は「敵意」とみなされるから、人々は相互に批判することを避け、その代償として日本は教育のレベルが高いのに、諸大学は国際的基準からすれば進歩が遅れている、と述べているのだ。》

 私は、彼のローチを引用しての記述に賛成である。「人々は相互に批判することを避け」るばかりか、疑義を呈することすら「攻撃」と見て避けようとする。大学という場でのことであるが、学生たちの多くは、教室で発表したことに対して反論や疑問が提出されることを嫌がった。「人間関係を壊す」というのである。小谷野からみると「バカが大学生になった」からというであろう。だが私は、学生のそうした反応自体が、「今どきの若者の関係」を象徴することと思えた。なぜそう受け止めるのか、どうしてそう教室で発言して、怯みがないのか。私などの若いころとまるで違うという感触が、私の疑問の出発点にある。「バカが」と言ってしまうと、そこで思考は停止する。もちろん小谷野には、「バカにかかづらう暇はない」かもしれない。だが、この学生の感性の根っこには、匿名を好み、実名で発言しようとしない(私を含む)日本人の心性があるのではないかと思う。どこかで、宮台のいう〈任せて文句を垂れる社会〉〈空気に縛られる社会〉を担う「日本の人々の気質」につながっているように感じる。

 もちろん断るまでもなく私は、大衆(庶民)の一人だ。雑誌やTVや新聞と言ったメディアに登場する「プチ=インテリ」の発言を、ある時は面白いと思い、ある時はまゆつばだと思い、たいていは、へえそうなのかと、ちょっと疑問符をつけつつ受け容れ、機会あればそれを「確認する」ようにしている(でもたいていは、忘れてしまって、そのまんまにすることが多い。それは年のせいだが)。疑問や同意や保留というのは、私自身が内面に抱いている感性や感覚、思考や価値に照らして、ヘンだなという感触をもつかどうかに、かかる。ときには、私は同じように感じているが、そういえば、なぜそう思うか根拠を確かめたことがないと、自分の内面に踏み込むこともある。

 どうしてそうするのか。世の中のいろんな人の立ち居振る舞いや言説は、とどのつまり、自分の輪郭を描きとるために行っていると思うからだ。それが、私の「世界」をつかみ取ることであり、私が生れて以来これまでの間に、通り過ぎてきた「人間の文化という環境」から身に着けた感性や感覚や価値や思考を、あらためて対象として摑みだし、一つ一つその根拠を(あるいはそういうふうに身体性をもち来った由来を)自ら確認するためである。それが大衆の自己意識形成のかたちであると、私自身が思っている。…(後略)…(2014-09-06)


*2 ◇ 「折々のことば」2023/02/28


《自分の親を嫌いでなくなることがこんなにも楽なことなのか なぜか 自分の中の元の部分を嫌いではなくなったからでしょうか 青木さやか》

***

 *1の方は、「愚民社会」というタイトルで出版された二冊の本、宮台真司×大塚英志の共著と小谷野敦の本を読んで、その両著のスタンスの違いを取り上げて、わが身の中の「エリート性」を見分けようとした文章。俗に「知的」と呼ばれているものが、権威を纏って「名家」を為す姿(=小谷野敦)とでも言おうか。対照させてワタシは小谷野の批判する庶民(大衆)の一人であるが、でも色濃く「名家」の雰囲気を身に刻んでいるなあと感じている。

 *2の方が、その「感じ」を気づかせてくれる。青木さやかのことばは、ほとんど無意識に刷り込まれて受け継いでいる文化が、意識の表面に表出した瞬間を捉えている。善し悪しは別として私たちは99・9%の無意識の伝承とわずか0・1%にも満たない意識的な伝承を「知的」なこと意識しているが、それすらも無意識に刷り込まれた「権威」として受け継いでいるってことだ。それに添うことを「楽なこと」と感じる感性が、「日本人の不思議」となっているのではないか。

 そして、グローバリゼーションが広まる世界に身をおいて私たちは、わが身の身体性と意識される自己との齟齬に揺れ動いている。それが、ガイジンの受け入れを逡巡し、都会者の浸入に警告を発し、ヘイズさんの言う「権力のレバー」の握り手を支えているのではないか。とすると、果たして「(わが身に)楽」な道をたどることがいいのかどうか。楽な道をたどれば「変わらないまま」になる。小谷野敦の背負っている「知的世界」の道をたどれば、これまた「名家」の伝統的権威にこだわってしまう結果になる。

 とどのつまり、ジブンの身に染み付いて無意識世界に沈んでいる感性や感覚、選好や思索の根拠を恒につねに繰り返し自問し、その時々の回答を繰り出して歩一歩と進むしかない。

 勿論それが何になると問われれば、イヤ何にもならないかもしれない、だがそうやって何万年かやってきて、今ここに立ってるんだよ、と応えるのが精一杯ってことかな。

2023年2月27日月曜日

個人主義と自由と支え合い(2)

 昨日紹介したオオガくんの【返信6】の末尾に「税と社会保険合算の国民負担率が46・8%と発表された」とあり、それが将来的に7割の水準に増えることを想定しているようだったので、表題のようなテーマを考える必要を感じた。

 コロナ禍に際して先の首相が「自助」「共助」「公助」と分節化したので明らかになったのが、「共助」の少なさである。私たち日本人はと、いまとりあえず一括してしまうが、ご近所のネットワークで助け合うってことをすっかり忘れてしまったかのように、家族単位で身を固めて守りに入っているとみえる。家族と言っても大家族ではない。お役所のシステムでは未だに大家族単位で人々の暮らしが成り立っている社会想定をしている。たとえば、生活保護を受けようと申請してきた人の、親兄弟ばかりか叔父叔母従兄弟に援助は受けられないかと調査が行われるという。

 どなたか社会学者の研究に「日本は昔から核家族であった」というのがあった。親兄弟だって成人すれば、それぞれの家庭を持って独立したら生計を営む。そうなると、昔の映画『東京物語』やそれをリメイクした『東京家族』じゃないが、互いに近況を交わし合うこともなくなるばかりか、たまさかに訪ねてきた田舎の親も、日常への闖入者となり、世話をするのは何かと大変と応じる。世話になる、迷惑を掛ける、気遣いをするという伝統的文化自体が、面倒を引き起こす。

 それぞれの事情をわかり合って扶け合うということなど、想定できない「関係」になっている。暮らし方の大変化が起こっていたのだ。日頃疎遠であった家族たちが、ひと度何かあったら扶け合う関係を復活させるというのは、突然の事故で両親が亡くなった甥や姪を引き取って育てるとか、あるいはせいぜい、身元保証人になって就職などの手助けをすることくらいしか考えられない。それさえも物語の中の、昔風の繋がりをもった世界のデキゴトだ。

 つまり社会生活の日常に於ける「家族」は、よくて二親等の結びつきである。伯父伯母・姪甥が親身になって世話をするというのは、思いもよらない。これは所有権とか相続権という社会制度も関係しているかもしれないが、いま、そこまで話を広げない。

 遠くの親戚より近くの他人という俚諺の通り、暮らしの日常を知り合っている他人の方が頼りになるし、気持ちを交わしあって「共助」をすることもできる。だが、都会化がすっかりその「共助」さえも「公助」に一括するようにしてお役所にまとめられ、たとえば「共助」の単位であったはずの町内会が地方行政の下請け機関となっている。

 これはインフラ整備と同じに考えているのかもしれない。都会に暮らす人たちのご近所空間を整えるのは地方行政の役割であり、不都合はなんでもかでも地方行政に訴えて手を打って貰うという感覚が、私たちの日常に染み付いてしまっている。つまり私たちの暮らしの独立単位は、よくて夫婦、あるいは独り暮らしの単身単位に限られた個人主義のセンスが行き渡っている。それを自由と考え、気持ちよく過ごす空間として人々は身に刻んできた。それが都会生活の心地よさであったと、今私は思っている。

 その心地よさと引き換えに私たちは、「共助」を手放し、不備不都合を「公助」に要求し文句を言うようになった。お上の方も、何でもかでも指針を出して整えようとする。コロナ感染を防ぐ為にマスクをするかどうかまでお役所が提示する。「個々人の判断に委ねる」って指針が出る。笑わせんじゃない。インフルエンザと同列にするってのなら、そんなこと自分で考えろよといえば済む。そこまで政府が口出しするってのは、「共助」というセンスが蒸発してしまったからだろう。個々人がささら上にお役所に直結しているって格好か。

 そういう個人主義が北欧でどうなのかは知らないが、日本の場合、家族感覚や所有感覚は(社会制度として)昔のままに残り、しかし社会生活に欠かせない「自助」「共助」「公助」の考え方も(実態はないまま)中途半端に残っている。お役所のというか、政府のセンスも古いままでやってるから、結局現実過程の不具合は個々人に全部押しつけるようになって、厳しい事態のおかれてしまう人たちが出来している。

 日本のコミュニティ性のこういう現状から考えると、案外北欧の国民負担率7割というのは、私たちに合ってるかもしれないと私は思う。北欧の人たちが負担率の多さとと引き換えに、預貯金など己の懐具合を心配することなく暮らしていると耳にする。オオガくんの【返信6】は「セイフティーネット」と呼んだ。個々人の暮らしが万一に遭遇した時の「支え合い」の仕組みを、現状強を算入して考えると、国民負担率を上げて預貯金無しでも暮らしていける安心感を世の中にもたらすのが一番いいのではないか。

 そんな感じがする。

2023年2月26日日曜日

個人主義と自由と支え合い(1)

 BBC東京特派員ヘイズさんの「日本人の不思議」を媒介にしてseminarのお題を探る遣り取りが佳境を迎えている。テーマは1990年代初め・バブルが絶頂期にあった頃と2023年の現在との日本の様変わりは、なぜだったかと自問すること。「様変わり」と呼んで「失われた*十年」とか「経済的な凋落」と呼ばないのは、果たしてこの変容が良いことか悪いことか一概には決められないかもしれないと、価値判断を中動態化しているからである。

 このとき、経済的な様変わりをみていくことが、まず一つ必要になる。この様変わりは、他の国との比較によってみるしかない。なぜそうなったかを探っていこうとすると、グローバリズムという経済的な大変動でさえ、主導関係国の政策変更という変数があって、一筋縄では解き明かせない。最も明快に語るのは陰謀論。だがこれは、幾つもある変数の動態的平衡を考慮しないから、操作するものと操作されるものという「能動-受動」関係に貶めてしまって、フェイクとリアルの対決構図しか浮かび上がらない。

 次いで30年の様変わりを探ろうとするとき、すぐに国民国家の盛衰という次元でみてしまうことが一般的なのだが、もう一つ次元を掘り下げて、人々の暮らしがどれほど楽になったか苦しくなったか、豊かになったか貧しくなったか、貧しくはなったが楽になったということもある。トップばかりを走りつづけようとするしんどさから解放されて、収入は少なくともたっぷりの時間をゆったりと暮らす、大きな文化的な転換が進んだというのも、ありだ。その視点から見ていこうとすると、子育てや教育がどれほど安心してできるほど、充実してきたか/こなかったか。病気や不慮の事故によって不遇に陥っても、不安に駆られることなく治療療養に身を任せ、周辺の人たちは状況の急変に右往左往することなく、事態に対処できるようになったか/ならなかったか。私たちの暮らしのベースであるコミュニティが(地域行政も含めて)どう様変わりしてきたか、いろいろな局面で探ってみる必要がある。当然国家の採用する社会政策がどう様変わりしてきたかも、大事な変数の一つになる。

 そうやって考えてみると、強権国家中国の野望とかロシアのウクライナ侵攻など、国際関係の変容は面白くはあっても、じつは差し迫って切実とは言いがたい。上記の人々の暮らしは、そうした国家間の争いをどう捉えていくかと考えるときの土台を為している。その点で「日本人」はどう自己評価をし、将来への展望を見通そうとしているのだろうというのが、「不思議」の主題だと言える。

 そんなことを考えていた今朝、愛知県のオオガくんから「駄文を送ります」とメールが届いた。思わず、我が意を得たりと御礼の返信を打った。それを全文、【返信6】と銘打って紹介しよう(一部簡略化している)。


◇ 【返信6】オオガ(2)


Fさん

 大企業中心ですが、賃上げも安倍時代の官製春闘から少しトーンが変わりつつあるような気がします。このモメンタムが地に着いた動きとなって、日本の活性化に化学反応を起こしてくれることを期待したいですね。日銀総裁が替るタイミングでもあり、この国のことを考えることは我々にとって天唾といわれても、「終活」と共に大事なことではないでしょうか。前回の駄文を深掘りする力はありませんが、BBC特派員氏が指摘し、更にはマスコミで散々言い古され、手垢に汚れたことをなにも今更と思いますが書き連ねてみます。

 LGBTやジェンダーギャップの話はあなたの言われる通りで、日本人のバックボーンでもある宗教観や保守の強固な岩盤に矛先が向かうのでしょう。絶対神であるキリスト教やイスラム教に比べ、八百万の神信者である日本の大衆社会の庶民感覚は自ずと根底から違うと思う。強固な保守岩盤と言っても、米の福音派の存在とは、自ずと異なる。

 其れよりも「下部構造が上部構造を規定する」のは歴史の必然で、30年の経済停滞をこの機に改めることは遅きに失したとは言え、手をつけねば後を託す世代に申し訳が立たない。下部構造=経済(経世済民)があってこそ、一国の政治、文化、社会通念が後発して出来する。今回の世界的なインフレの要因は述べるまでもなく様々あるが、GAFAMが採ったダイナミックな雇用者解雇は、日本の労働法ではあり得ない話。かの国ではGAFAMがIT不況、リーマンショックを奇貨として、従業員の大量解雇、その人達の受け皿としてのスタートアップ企業の存在と旺盛なイノベーションが加わり、ビッグテックとして大きく飛躍し世界を席巻した。一方、日本は戦後のシステムはGHQからの押しつけの借り物との考えが色濃く蔓延っていた。それに加え、高度成長の僥倖に舞い上がり、皇居の地価がカリフォルニア州の其れを越えたと大騒ぎした。勤勉な労働者とメンバーシップ型の終身雇用は大量生産には有効であったが、問題の先送りや、経営者の責任回避に体よく使い回された。経営は「人」をコストとして捉えてきたから、企業間競争上から賃金は増えず、非正規社員は4割までに膨れ上がった。一時1ドル70円台の円高に、悲鳴を上げて海外に生産拠点を移し国内は空洞化する。ウクライナ問題や、米中のデカップリングで、非資源国である日本は、シベリアからの原油、LNG輸入問題や50年のカーボンニュートラルの世界公約もあって、世界の中で化石燃料の確保という点ではどうしても旨く立ち回れない。労働生産性、就中、非製造業の其れは低く東京のマックの値段はNYの半額である。これは地価、人件費とDXの取り組みの差で説明がつく。

 黒田日銀を全て否定はしないが、政府と結んだアコードの肝である、3本目の矢は日本経済の構造改革であったはずである。総裁として「孤独に堪えて政治と対峙」したのだろうか。大胆な金融緩和と積極的財政出動は、換骨奪胎の一面があったものの、「日銀は政府の下請け」化して、日銀としての独立性に違背した側面があったことは否定できない。日銀からボールは政府に投げられたものの、握りつぶされたまま返球されていない。それどころか、自民党内には現代貨幣理論(MMT)を楯に、日銀のバランスシートを極端に肥大させ、いまや日銀は国債の半分を保有し、多くの日本企業の筆頭株主である。ギリシャやイタリア等と異なり、日本の国債発行は円建てでデフォルトリスクは低いものの、昨年12月に長短金利操作(YCC)を変更した際の10年物国債の金利急上昇に見られるように、海外勢を中心とした投資家との攻防は予断を許さず、国債の支払利息は今までの低金利時代とは様変わりする。喫緊の国策課題を考えても、想定外の少子化対策や国防費の財源はどのように捻出するのだろうか。国会でもこの問題について、与野党の突っ込んだ議論や国民への丁寧な説明はなされてはいない。

  経済改革の機運のない迷走は止めて、資本、労働力、生産性の3要素を基本に返り、見直すことが出来る可能性が高まってきたこの時期に改革の狼煙を上げねばならないと思う。先進国の中で、極端に低い廃業率にメスを入れ、同時にそこから派生する労働市場の流動化を指向した法整備を急ぎ、受け皿体制を整備することは必須である。企業内部の技術の蓄積が生産性を向上させるという80年代の日本のキャッチアップ型の経済合理性は終焉した。技術革新と労働力不足と優秀な人材確保と更にはジョブ型雇用に対応するには、年功序列型賃金制度や今までの終身雇用体制は表舞台からは降りざるを得ない。OJT、オフJTによるスキルアップの仕組みや敗者復活戦に臨む人々への財政、金融支援は今まではあまりにも貧弱であった。この点を含め、トータルなセイフティーネットを張り巡らせ、厳しくも明日を語れる社会基盤を構築せねばならない。

  まだいろいろ言いたいことはあるが、暗夜行路を急ぎたい。

 うちらあとわいらあは残り少ない今、振り返ってみて、戦中に生を受け個人的には恵まれた世代と言えるのでは。戦火に逃げ惑ったこともなく、戦後の混乱を己の記憶として、トラウマ化した仲間は殆ど居ないはず。然し、中途半端な三つ子の魂に気触れて、夢物語を実話化して意気込み、己のアイデンティティーとして法螺吹いた世代ではなかったのか。

税と社会保険合算の国民負担率が46,8%と発表された。これ自体の受け止めは様々だろうが、これからの日本の置かれた状況から考えて、この負担率は其れこそ、50年のカーボンニュートラル時には諸要因が加わり驚くべき水準となってゆくことは必定。社会保障、セイフティーネットを語るときに参照される北欧の国民負担率は既に7割の水準である。

後生大事な既得権に手を突っ込まれるのは忍びなく辛い。政治家でもない老人が吠えても嗄れた声の届く範囲はしれたもの。されど、変わることに無頓着だった時代を生きてきた世代として、「自分は何処で生まれ、いま何処に居て、此れから何処へゆく」(立花隆)ことに思いを馳せるべきある。その上で、周りの人たちに其れをナッジするくらいの勇気は持ちたいものである。(2023-02-26)オオガ記

2023年2月25日土曜日

不可知の当事者性

 昨日取り上げたように、世間話も鬱憤晴らしも当事者と言えば当事者なのに、それが醸し出すオーラが違ってくるのはなぜだろうという疑問に、既に1年前に出逢っていたことを知った。2022-02-24のこのブログ記事《なぜ「奇蹟」が平凡に響くのか?》で、ベートーベンの第九が第一次大戦時のドイツ人捕虜と徳島県の人たちとの交流を通して人類史的な文化の受け渡しが紡がれ、それを調べていた作家の手を通して百年後のワタシに伝えられ、つくづく自身の存在を「奇蹟」と実感していることを記していた。

 秋月達郎『奇蹟の村の奇蹟の響き』(PHP、2006年)の読後感だが、「文化の伝承が世代を超えて受け継がれていくのは、奇蹟のようなことだ」と意識することが、いま・ここに・こうして存在しているワタシも「奇蹟」と自覚することだ。

 わが身の存在を「奇蹟」と再認識するというのは、人の智慧や才覚、努力や技術によって現在が築き上げられたという次元ではなく、宇宙の誕生から続いてきた「奇蹟」の積み重ねの中に発生した生命体の歴史という長いスパンでワタシを位置づけるとき、ヒトの智慧や才覚や努力や技術よりも、偶然の積み重ねのような幸運に恵まれてワタシが実存していることへの感謝が生まれる。それが「当事者」性のオーラを育み、その世代を超えた伝承が社会の気風を醸し出してくる。

 自然の流れにヒトを置いて眺めると、プーチンの焦りもヘイズさんへの罵声も、何でこんなに小っちゃなことに齷齪しているのかと慨嘆したくなってしまう。しかしこれもヒトのつくりだした文化のもたらしたものと考えると、大自然的視線でみて、ただ小っちゃいと言って無視するわけにはいかない。しかしプーチンの焦りを捨て置くこともできないから、NATOも周辺国も目先の戦闘に対処し、ともかくプーチンが壊そうとしている文化を護ることに智慧を絞っている。それと同様に私たちもヘイズさんへの罵声が排除してしまう文化を、どうやったら良き気風として育てていけるかを「研究」しようと思っている。ベースは人類史的「奇蹟」である。


《もう一歩踏み込んでいえば、日常を身に刻むのに、触覚としての「心」を通さないコトは痕跡を遺さない。つまり、文化的な伝承としては意味を成さない。それどころか、「心」を通さなくても身過ぎ世過ぎができるという文化を、身に刻む結果になる。それって、ゲームの世界じゃない?》


 触覚としての「心」を通すとは、「奇蹟」として関係を動態的に捉えること。言葉を換えて言うと、大自然の流れにワタシを置くこと。ワタシの実存は「奇蹟」であるというのは、ワタシはゴミのようなもの、黴菌・germと、まず自己規定すること。にも拘わらずgermが宇宙を眺め、世界をどうしたらいいかと考えている。こんなことはアリエナイ「奇蹟」。

 こう言い換えたらわかりやすいかもしれない。ゴミとかgermとワタシを見立てるのは、ワタシは何もワカラナイと自己規定すること。それが宇宙を眺め、世界を語るってのは途方もないことをしていると自覚すること。自ずから謙虚にならざるを得ない。これがゴミの意識、黴菌・germの精神。germの原義は萌芽である。大自然に対して謙虚であることによってヒトはとんでもないコトをしていると、恒に常に自省する契機を手放さないでいる。大自然に向かっておっかなびっくり、こわごわと手を出し、あるいは引っ込めてやり直すという一進一退を繰り返してきた。起点はワカラナイと知ること。ワカラナイヒトがいま斯様に存在しているという偶然を「奇蹟」と呼ぶ。人為がもたらした世界のもう一つ次元の深いところでヒトの営みをとらえ返してみると、「合理的」と呼ぶものが如何に不条理に満ちているか、ワカッタつもりになっていることに、どれほどヒトは右往左往しているか、そうしたコトゴトがみえてきて、バッカだなあオレたちはと、素直に思うことができる。

 ゲームの世界は、上記のヒトのありようと全く別だ。何をどう操作すれば何がどうなると知っている。それを阻むいろいろな要因を敵対するものとして排除することが、事態を克服する道となる。敵の出方によって味方がどう苦戦しあるいはどう優位になるかも想定できる。苦境を突破するのは己の実力とそれを十全に発揮する技術だ。むろん敵の戦意を挫くことも視野に入っている。戦いは人智の総力を動員するけれども、敵を壊滅させれば勝利、壊滅させられれば敗北。ルールがはっきりしている。プーチンの勝利の方程式には核の使用をちらつかせることが、敵の攻撃を抑止する圧倒的な手段になっている。だが核の使用は、プーチンに勝利をもたらすものとはならない。ヒトの世界のゲーム・オーバーになる。ゲームの世界はワカッタつもりになって展開されている。ヒトが大自然の流れに身を置く小っちゃな「奇蹟」的存在であることを忘れ、国民国家的な枠組みのルールに則ってチキンゲームをオモシロがっている。ワカラナイという自己既定はどこかに置いてきてしまっている。せいぜいワカラナイのは敵の出方と自分自身の存立の正統性だ。その不安を自ら抜け出すのは、敵を貶め、敵の力の根っこを挫き、そうやって自らがつくりだした敵のイメージを叩き、虚仮にすることによって自らの正統性を創り出すってこと。ヘイトスピーチとフェイクニュースに塗れて、そのうち自身も何が何だかわからなくなってしまう。それがいまのプーチンの現在地ではないか。

 ワタシは今、生命体史の「奇蹟」に包まれて、その幸運に感謝しながら生きている。よくぞ世代を超えて「奇蹟」に恵まれたと実感している。その原点に思いを致し立つことこそ、当事者性が成立する起点。ワカラナイという不可知の当事者性こそが、大自然の中のヒトとして受け継いでいくべきコトではないかと思う。

2023年2月24日金曜日

世間話と鬱憤晴らし

 3月seminarの「お題」をどう整えようかと、相変わらず思案している。

 これまでの面々からの「返信」5通をみていて、「オモシロイ」と「論議にならない」とを分けているのは何だろうと考えていて、例えば、2023-02-11の記事「これぞ成熟老人の箴言」の【返信4】のオオガくんの所感は、井戸端会議seminarの素材になると感じている。だが、2023-02-22の記事「高齢者の不思議?」のマンちゃんや【返信2】のトキくんの応答は、BBC東京特派員ヘイズさんの「日本人の不思議」に対面してはいるが、鬱憤晴らしの「お説賜りました」の態で、遣り取りにならないと感じる。この違いは何だろう。

 男たちのそれらに対し、女性陣の【返信1】keiさんはヘイズさんのコメントをわかりやすくオモシロイと表明している。【返信3】ミドリさんはクイーズ・イングリッシュこそ正統と押し出してくるイギリス人に閉口した話で(ヘイズさんに)反発している。つまり性別による展開の話ではない。

 むしろ前回seminarの遣り取りを聞いていると、ご自分の亭主を介護する話や仕事を辞めると引き籠もりの様になるご亭主の尻を叩く女性陣の話は、まさしく当事者としての切迫感が籠もる。それらにコメントする他の女性たちも、自身がそういう立場に置かれた経験を加えて、介護的立場とご亭主との距離の取り方を言葉にしている。世間話の様に交わされるが、当事者としての向き合い方を直に取り出している。

 一つ印象深い言葉があった。ご亭主が歳をとって動きが鈍くなり、同時に自分も歳をとるから面倒見切れないと思うことが出来して腹立たしく感じていると話す方に、認知症の初期段階にあるご亭主の世話をする方が、「ハグしてやるとね、(振る舞いが柔らかくなって、わたしが誰か)わかるんよ」と話していた。ああ、これが「当事者研究」なんだと思った。人との関係を紡いでいる。そう意識することが、人と接する基本姿勢の要諦だ。この方の振るまいが、対する人の在り様を引き出す。こうした動態的平衡を取ろうとする感覚が、人それぞれの内心をかたちづくり、見合う反応/レスポンスを引き出す。動態的平衡という関係の展開に身を置いて、言葉を紡ぎ出す。それが当事者の振る舞い。それについて語り合う、それが研究なのだ。

 ヘイズさんのコメントに対してトキくんの「何もわかっちゃいねえ」という毒づきは、関係を断ち切る言葉だ。マンちゃんの「イギリス人よ! よく覚えておけ!!」というのも、鬱憤晴らしの啖呵ではあっても、ヘイズさんが提起しているモンダイを当事者として研究していこうというスタンスではない。売り言葉に買い言葉じゃないが、こうやって罵声を浴びせ、敵意を剥き出しにすると、交わされる言葉も自ずから刺々しくなるに違いありません。研究どころか、モンダイはどこへやら、心裡に降り積もる鬱憤晴らしのショータイムになってしまう。これはseminarの「お題」にはならない。

 ところが【返信4】オオガくんがヘイズさんのコメントを「家内にも読んでもらい珍しく夫婦で話し合いをしました」というのは、彼のモンダイ提起を正面から受け止めています。加えて、娘さんがフランス人と結婚し、海外に暮らしていることを披露して、「30年近くも海外生活を続けるとまったく異邦人です」と娘さんのことを語る口調には、異質さを素直に受け容れている穏やかな感触が漂い出てきます。

 1年前(2022-02-23)のブログ記事「井戸端こそが当事者研究の場」は、二人の若い哲学者の対談から受けた刺激を記している。


《「論議」というよりも「いま」「ここ」で向き合っている者たちが「いま・ここ・をめぐって言葉を交わす」ように切り替えていけば、「当事者研究」が緒に着く》

《「井戸端メディア」が消費的になるのは、そこで問題にしている「事象」の「当事者」として自らを組み込んで喋らないからだ》

《世間話が苦手な私は、そういう意味では、自問自答が似合っていて、井戸端会議は苦手なのかもしれない。でも、国分功一郎と熊谷晋一郎という二人の達者がちょっと扉を見せてくれただけで、自問自答がそれなりに進んでいる。ありがたいことだ》


 鬱憤晴らしも実は一つの「当事者」性を持っている。マンちゃんのトキくんも、ガイジンが日本の将来のことを提言していると聞いただけで、肚が治まらない様子だ。余程それなりのきつい体験が身の裡に降り積もっているからであろう。外からエラそうにあれこれ指図がましいことを言うな、「我が国のことは我々が解決する」と啖呵を切るのも、当事者だからこそ腹立たしいのであろう。むしろ私のように、価値中立的にヘイズさんの言葉を聞いてそうだねえと反応するのは、わが身をどこか第三者的な非当事者の立場に置いて眺めていると批判を受けるかもしれない。ただ、ヘイズさんのモンダイ提起に、そうそうそういうことってあるよねと共感する身の響きを感じるから、他人事とは思わず反応している。これは当事者性じゃないかと自身のことを評価はしている。

 これらの子細な違いをさらに探求して、何とかseminarの「お題」に仕立て上げたい。

2023年2月23日木曜日

思わぬ出逢い

 今朝(2/23)の朝日新聞の埼玉版の二段分を全部使うような大きさで、「渡良瀬の茅すくすく 最高の屋根材に」と見出しを付けた記事があった。その中に《「収穫した茅は四国で唯一の茅葺き職人川上義範さん(75)=高知県檮原町=の元に送っている。「うちの茅がいい、と川上さんがほめてくれて、もう20年来の取引です》とあって、奇遇と思った。

 去年9/9のこのブログの記事「景観が誇らしき陰影を以て起ち上がるとき」に、檮原町を訪ね、朝の散歩で立ち寄った茅葺き屋根の屋敷の模様を記している。

《高台の掛橋和泉邸の中から顔を出した(私よりは若い)お年寄り……なんとこの方が、マルシェ・ユスハラの茅葺き細工を行った職人だとわかった。埼玉と栃木の県境になるが渡良瀬遊水地の萱をつかったと、カミサンのよく足を運ぶ探鳥フィールドの名が出て、ふむふむと話が弾む》

 ブログ記事の話は、この方が隈研吾の木の建築の出立点に名を列ねることになったこととか檮原出身のうちのカミサンの兄嫁と従姉弟であったことにまで及んで、見ている景観が色合いを変えたように思った感懐を表題にしている。

 あのお年寄りの名前や年齢がわかったこともさることながら、この方が「四国唯一の茅葺き職人」ということを知ったのも驚きであった。何よりこういった出逢いがうれしい。

 たまたま小雨の朝の散歩で訪れた掛橋和泉邸、たまたま声をかけられ邸内に上がり、マルシェ・ユスハラに泊まっていたこと、その朝食会場に置かれていた一冊の隈研吾の建築様式誕生由来を記した本、脱藩の道の入り口に住まいを構えるカミサンの実の姉、実家の分家である伯父が町会議長をしていたことなどなど、いろんな偶然が積み重なって、この記事に出逢った。

 そう思うと、蝶の羽ばたきがテキサスに竜巻を起こすという話も、さもあらんと納得できる。そしてそれが、まず何よりも羽ばたきを止めないでつづけたこと、そういう羽ばたきが、あちらにもこちらにも起こりつづけられていたこと、その連関がいつしか繋がりをもって、ワタシとカミサンとカミサンの兄弟姉妹と茅葺き職人と隈研吾とカミサンの探鳥地と渡良瀬遊水地の茅の刈り取り作業と・・・という偶然が絡み合って、まだ半年も経たないうちに「奇遇」を体験する。何と世界は狭いではないか。何と生きていることは関係に身を置くことと言えるではないか。

 関係に身を置くというのは、恒に常に、わがふるまいが世界に、宇宙につながっていることを意識することだと、教えているように思う。ほんのゴミ、黴菌=germが、萌芽という意味をも含むように、ゴミ・黴菌のようなわが身の一挙手一投足が、ひょんなことで世界や宇宙につながっている。それがどこにどう繋がりを持ち、どういうさようをし、どういう感懐をもたらしているか知らぬままに、しかしワタシは生きているという事実を、この「奇遇」は垣間見せてくれた。この奇遇は良いことばかりとは限らない。プーチンの羽ばたきが習近平の羽ばたきと響き合ってウクライナの人々の不安を生み続けてもいる。出たとこ勝負の核の脅威がさらに世界の悲惨を拡げるかもしれない。奇遇は、いいことばかりではないのだ。

 もちろん言うまでもなく八十年も生きてきたからこそ、そういう繋がりの堆積と絡みと出逢いが生まれていた。ワタシの幸運というのは、他の人たちのやはり羽ばたきがもたらしたものであり、それが他の人たちの幸運につながっているかどうかはわからないが、少なくともその繋がりが、ウクライナや新疆ウィグル地区の悲惨という気持ちを幻滅させるような事柄ではなく、といって言挙げて称揚するようなことでもなく、単純に暮らしの坦々とした営みにつながっているという、価値的な善し悪しを取り外したほんの事実に当たるような脈絡をもっていることへの、慥かな手応えだということである。

 ああ、これが人生なのだとあらためて思い、その単純な暮らしの平面に足が着いているという幸運を感じている。まさしく青い鳥だね。灯台もと暗し。日頃の暮らしとして無意識世界に落とし込んでいる人類史的堆積を意識化して発見することが、人の営みのもの思うことにはあるのだ。今朝はひとつ、それに出逢ったってワケだ。

2023年2月22日水曜日

高齢者の不思議?

 seminarの言い出しっぺのマンちゃんから手紙が来た。先月のseminar以来、彼にはメールで送るほかに手紙を郵送している。目が悪くなりパソコンをみることを止めた。だが、バックライトではない本や読書用タブレットはほぼ彼の生活全部を覆っていると聴いたので、手紙を送ることにしたのだ。このひと月で4通。週一通のペースで送った。その返信。A4用紙一枚に、まるで詩を書くように要点を書き記している。BBC東京特派員ヘイズさんの記した30年の落差の感懐、「日本人の不思議」に対する所感だ。それに対して、次のような返事を書いた。

 *   *   *

 お手紙ありがとうございました。

 何だ、タイプが打てるんじゃないか。返信を頂戴し、まずそう思いました。ならば手紙にすることもない。メールで良いのに、と。でもずいぶん時間をかけ、苦労したのでしょうね。結論的な直感を並べるだけで精一杯、という感じが良く出ています。

 でも、これじゃあseminarの話題にできない、というのが私の最初の感想です。

 前3分の1は、失われた30年にどう対処するかという、あなたの直感的所感が記されています。seminarのお題にするには、一つひとつについて、どうしてそう考えるかを、異なる考えをもつ人にもわかるように説明しなければなりません。

 直感的所感は、誰もがそれなりに抱いています。それを人と語り合うには、なぜ私はそう思うのだろうと、わが身の裡に分け入ってみなくてはなりません。そして探り当てたわが直感的所感の根拠を、筋道立てて説明することによって、言葉を交わすことができるわけです。いいよもう、そんな(異なる考え方をもった)人とは遣り取りしたくないというのでしたら、seminarなどと気取ることはないのです。

 経済的施策がイデオロギー的な対立になるのは、それを評価する人の、利害にかかわる立場がどこにあるかによります。だから語り合うときは、互いの立ち位置を意識してイデオロギー的な偏差を互いに承知していなくては。論議になりません。遣り取りは、ただ単に自分の思いを述べ立てるだけで、論議というよりも演説会です。日本の政治家の言葉は、そのほとんどがこのケースです。自分と異なる立場の人に説得的に思いを伝えることはできません。そう思いました。

 できるなら、あなたの直感的所感を3月seminarで話して貰うと良いかもしれません。

 もう一つ気になったこと。「イギリス人よ! よく覚えておけ!」で始まる最後の3分の1部分です。

 BBC東京特派員のヘイズさんは、日本がこの30年間沈んだままでいると心配はしてはいても、それを非難しているわけでも批判しているわけでもありません。にもかかわらず、トキさんもあなたも、どうしてこうも敵愾心を持ってヘイズさんの言葉を受けとるのでしょうか。お二人とも、日本の半世紀以上に亘る経済的盛衰を身を以て体験してきたと自負しているからでしょうか。この30年の停滞を指摘されると、わが身の弱点をつかみ出されたように感じて腹立たしいのでしょうか。

 そのお二人の反応から私が感じたことは2点あります。

 ひとつは、ガイジンにあれこれ言われたくないという心持ちについてです。それは、どこから出て来ているのかということ。

 トキさんは商社に身を置いて海外との交渉に携わってきた。つまり外国人との交流は随分とあったせいで、日本を強く意識するナショナリストになってきたのでしょうか。あなたは新橋に長く居て、その立地からガイジンとの接触も少なからずあったでしょうに。つまりガイジンをよく知るお二人がなぜこうも、敵愾心をもつのか、それが私には不思議です。ことに「未来がある」と思って赴任して来て30年を過ごした日本を、愛おしく思うほど好ましく思っているイギリス人に、なぜこうも対抗心を燃やすのでしょうか。イギリス人にというわけでもなければ、アングロサクソンに大してでしょうか。あるいはガイジンにでしょうが、なぜなんでしょうね。これは、ヘイズさんの問う「日本人の不思議」に正面から応えることになると思うのですが、そこのところをできるだけ詳細に自己分析して、お話し頂けないでしょうか。

 ふたつは、ふたりともなぜこうも、日本の行政がやってきたことをわが身のやったことのように感じるのかということです。

 私はいつも、国家と社会は違うと感じています。統治的な視線でものを見るステイツマンと違って社会の民草は、ごくごく限られた権限しか発揮できません。むろん、関係の絶対的枠組みがありますから、まったく分離して考えているワケではありません。日本政府のやったことは、良くも悪くも(置かれた立場で)引き受けなければならないと思っています。でも、選挙で選ぶことと、その後に選ばれたステイツマンたちがやることとは別です。彼らは権限を委託されて、好き放題にしていると代表民主制の限度を(私は)見切っているつもりです。だから、ステイツマンの実態を知って、もう知らんわ、と呆れてしまうことも度々です。

 そういう視点から日本の経済や行政施策をみていると、何やってんでしょうねと(まるで他人事のように)批判的に見ることもします。ところが、あなたもトキさんも、まったく一体化したように受けとっている。それも不思議です。最初に郵送したプリントで私は、トキさんのことをヘイズさんが指摘する「名家」と同じだといいました。つまり統治者としての視点しかみせていない。自分に対する絶大な自信をお持ちだともいいました。日本のキャリア官僚がもっているエリート意識と言い換えることもできます。

 でも、何を根拠にそういう統治的感覚を身につけてしまったのでしょうか。

 因みに、ひとつ付け加えておきます。トキさんとあなたの違いが一つ歴然としている所があります。トキさんは、ヘイズさんのことを「この馬鹿特派員は何もわかっちゃいねえ」と罵っています。彼自身が何を根拠に、そのように人のことを蹴飛ばすのか、私にはよくわかりません。ああ、エラいんだなあ彼は、まさしく「名家」だと思うばかりです。その点あなたは、決してそのように人を馬鹿にはしません。でも「覚えておけ」と啖呵を切るくらい敵愾心を燃やしています。この違いは何だろうと考えもします。何となく、人の関係に置いて一番大事な所に触れているようにも感じられることです。そのこともあって、あなたの直感的所感の根拠には、耳を傾けてみたいと思っています。

 いやメンドクサイよ、もう、とお思いなら、そろそろseminarは店じまいをしていいんじゃないか。そう私は考えています。以前からお話ししていることですが、あなたが聴いていてくれるから、seminarの事務局を私はやっています。もちろんやっている間に、ミヤケさんやフミノさん、フジワラさん、それと忘れちゃいけないオオガさんという方々が耳を傾けてくれているからつづけることができると付け加えてきました。でも出発点のあなたが、もうメンドクサイというのでしたら、私にはつづけていく理由がありません。

 後はseminarではなく、在京同窓会としてミヤケさんにでも音頭を取って貰って、継続していけばいいのではないでしょうか。考えておいて下さい。

 3月のseminarは、「BBC東京特派員の綴る日本人の不思議」と福井県池田町の「池田暮らしの七か条」とオオガさんのお便り【返信4】を素材にして、話を進めます。その時に、あなたの直感的所感の根拠をお聞かせ下されば、幸いです。

 お仕事ご苦労様ですが、身体に気をつけて、元気でお過ごし下さい。草々不一*

2023年2月21日火曜日

関東一望の一床山

 今週の山は、佐野市北部にある三床山334.6m。車を置いた所の標高が100mくらいありましたから、ホントの低山。くるりと回ると2、3時間だろうが、Yamapにもコースタイムは書き込まれていない。2週間前に、佐野市の北、栃木市の寺久保山を周回したとき、下山地のコース整備をしていたご夫婦がヤシオツツジがいいとすすめてくれたのが、三床山、二床山、一床山のコース。3月下旬と話していたが、ツツジはさておいてどんなコースか歩いてみたいと足を運んだ。

 駐車場があるとYamapにはあったから、地理院地図でおおよその住所見当を付けてnaviに書き込み、案内に任せてアプローチした。50mくらい入り込む道が違っていた。稼働していない工場の閉ざされた入り口で行き止まり。スマホを出してみると、もう一本西北寄りの農道を詰めるようだ。その農道へ車を入れると、向かいから一台やってくる。少し広い田圃の脇に車を寄せて道を譲る。ところが、やってきた車は脇に並んだ所で止まって窓を開け、「どこへ行くんだい?」と訊ねる。「三床山」というと、「ハハハ、向こうへ行っちゃあダメだよな。この奥に駐車場があるよ」と笑っている。私が行き止まりで車を回していたのを見てたんだね。人が悪いというか親切というか。

 手前にサッカー場くらいの広さの太陽光発電のパネルを敷き詰めた土地があり、その奥の駐車場にはすでに3台の車が駐車している。「とちぎ」「宇都宮」「足立」ナンバー。まだ二十台くらいは止められそう。[←一床山・二床山」「三床山→」の案内看板は新しい。進むと鹿島神社が鎮座している。立派な神社様式建築だ。その脇に登山道がある。

 そこを進んでいて、また失敗をやらかした。地図を見れば、三床山から北へ延びる稜線にとりついてルートがある。それなのに、谷沿いのルートをどんどん詰めてしまった。行き詰まる。えっと思ってスマホの地図を見ると、三床山は正面左上にあり、そこへの稜線は、正面を登って東から西へ三床山に登る稜線をたどるとわかる。引き返すか、とも考えなかった。ここまで来れば、正面突破しようと、踏み込む。先に人が歩いた形跡もあった。それが間違いの元であった。

 踏み跡はすぐに消えた。上りにはなかなか手強い斜面だ。加えてふかふかの落ち葉がたっぷりと積もっている。足を乗せても滑り落ちてしまう。ストックを出す。正面の稜線はスカイラインをみせてすぐ手の届く所にある。木に摑まり、落ち葉を蹴散らして正面の稜線に出た。標高は100mくらい上っている。だがそこから標高差140mほどの三床山の山体斜面は30度ほどの傾斜。落ち葉はもっと降り積もっている。木に摑まり、足元の落ち葉をどけて足を置く。ストックでバランスを取りながら、右足を持ち上げ、木の根方に置いて左足を引き上げる。動物になった気分を味わったころの山歩きが復活した。いや、いかん。こんな山歩きをしてたから事故ったんじゃなかったかと、頭をかすめる。気を抜けば、木の葉ごと足が滑り落ちてしまう。滑ると腹ばいのまま何十㍍も落ちる。慎重に、しかし、気を抜くことなく歩一歩と身を持ち上げる。ここの上りに30分くらい余計に時間を掛けてしまったのではないか。

 標高差230mほどだから、御正道をたどれば30分か40分で山頂だと思っていたのに、結局1時間5分かかってしまった。むろん誰もいない。奥日光の男体山や女峰山が雪を被った姿を木の間越しにみせている。

 この山頂に上がる道は一本しかなかった。少し先へ行くと、「←鹿島神社」「二床山→」の標識が出てきた。ああ、ここへ上ってくる道が御正道だ。先へ進むと急な傾斜の下りがつづく。しばらく行くと「←沢コース」の表示があった。鹿島神社を過ぎてすぐに、「尾根コース」と分かれる分岐があった。ここへ上ってくるのかとみていると、70代くらいの地元人が犬を連れて上ってきた。沢コースの様子を訊ねる。木の葉が降り積もって膝が埋まるほどだと手で示す。この方は三日にあげずこの辺りの山を歩き回っているそうだ。ルートも熟知している。

 実は地理院地図には三床山の名しか記されていない。しかし彼は、前方を指さして、あれが二床山、その向こうにあるピークが一床山と示し、一床山は見晴らしが良いからぜひそこまで行った方が良い。その先のルートをぐるりと回ると、ほらっ、向こうの尾根を降りた辺りに銀屋根の大きな建物がみえるでしょ、あの手前に居りますから、そこから駐車場までは道なりですよと、ガイドしてくれた。

 二床山までは、岩もあり、なかなかオモシロイコース。滑りやすくバランスは必要。もちろん難しくはない。三床山から30分ほどで着いた。途中2組のペアとすれ違った。二床山で11時35分になっていたので、お昼にする。犬連れの男性もお昼にしている。風が強い。だが、雲はなく、寒くはない。スカイツリーは霞の向こうにみえるが富士山は雲がまとわりついて姿を隠している。お昼を済ませ、犬連れの方には先行して貰う。途中で犬がしゃがみ込んだので、私が先になった。

 一床山は15分もかからなかったのではないか。おおっと、思わず声が出る。東の筑波山の双耳峰の山頂部がみえる。北の女峰山から男体山、皇海山、袈裟丸山と西へ掛けて赤城山の雪山が並び、さらに西に、浅間山が美しい白い姿をみせている。いや、すごいなあ。でも富士山は雲の中。犬連れの男性がやってきて、周辺の、他のコースを説明してくれる。本当に関東平野が山にさしかかり起ち上がる所に、この三床山は位置している。空気が澄み渡っていれば東京湾まで見晴らせそうだ。

 そこから私が先行し、結局駐車場まで誰にも追いつかれず、すれ違いもせず歩き通すことになった。稜線歩きは快適で、コースの表示はまことに丁寧であった。行動時間は3時間。帰宅したのは午後2時。軽い体調チェックの山歩きであった。道を踏み外したことも、忘れかけるほどであった。

2023年2月20日月曜日

彼岸に通じる実感

 1年前(2022/02/19)の記事「他人事でなかった」を読んで感じたこと。

 さらに1年経って、いま山を再開したばかりだ。安全圏に身を置いて、しかし、際を歩くスリリングを求める心持ちを、卑小呼んだ。むろんそうであればこそ、この歳になってまだ、山歩きとつづけている。そうでなければ、芸術家のようなもの、彼岸に落ちるまでギリギリを歩いて身を滅ぼしているに相違ない。

 今日もこれから、今週の山に行く。いやいや、まだまだ低山。体調測定の山歩きだ。ただ、来週の半ばから、三度になる四国お遍路に出かけようかと思案、準備している。1年前と心持ちがどう変わっているか。

 ひょっとしたらお遍路も歩けなくなるんじゃないか。先日TVを見ていたら、四国お遍路のことをやっていて、最後の88番札所の辺りに行き倒れになったお遍路さんの無名の墓があり、それに花を添えているご近所さんの立ち居振る舞いが映像になっていた。ああ、そうなんだ。お遍路に送り出すというのは、永久の訣れだったのだと感慨深く思った。その覚悟もなくて、[ぶらり遍路の旅]とか洒落ていたし、「あきちゃった」とまるでディズニーランドに行っていたみたいに途中で切り上げて帰ってきていた。

 今回も、終わりの期限が切られている。西宮で法事があるのに顔を出す予定。その時期に間に合う所で切り上げて、そちらへ向かう。たぶん、松山から今治辺りにいることになろう。ということは、やはりあと1週間ばかりを残して、四国お遍路の三回目は幕を下ろす。口さがないモーツァルト好きの友人は「ふらっと遍路の旅」にしなさいと、「♭」と[変ロ」長調とを組み合わせて笑っていた。これも、長調だから[調子良いよなあ]と、私のノー天気ぶりを揶揄っている。

 ま、いいさ。事実そうなんだから。本当に調子が良いかどうか、20日間の歩きに耐えられるか。体力ばかりでなく、気分も持ちこたえられるように、低山歩きをしている。これも基本は、なるようになる、なるようにしかならない。80歳になっての長旅は、文字通り彼岸に通じるように感じられている。

2023年2月18日土曜日

「わかる」反発、「わからない」という敬遠

 1年前(2022/02/17)の記事《危うい「心身一如」、宇宙は大きい》は、いろんなデキゴトを「心身一如」と名付けて自足するなという警鐘を、梨木香歩の小説から読み取ったというものであった。

《その危うさを超えていくためには、日々出逢う一つひとつの出来事を、その都度、一つひとつ丁寧に(そうなのか? それでいいのか? いま感じている違和感を違和感のままにその場に差し出さなくていいのか?)、繰り返し問い続けていくしかないと言っているようであった》

 つまり自問自答は繰り返され、更新されるものだ。ヒトというのは、論理的に一つでも結論というか筋道が出来上がると、そこで自足して更新が停止してしまう。それじゃあダメなんだよというワタシへの自戒である。他のヒトから見ると、同じ曲の変奏ばかりでシツコイねえとみえるでしょうね。

 さて、そういうワケで、今日もBBC東京特派員・ヘイズさんの「日本人の不思議」にこだわって、わが身の裡に分け入ってみる。

 昨日までの展開は、田舎の集落が都会地からの新来者を受け容れるのに、自分たちのもっている土地の気風を守って頑なである不思議を考えてきた。辿り着いたのは、人付き合いの粗密は、かかわるヒトの数と場面の多様さによるのであって、気質やクセという土地人(とちびと)の気風も、それによって形づくられる。「少子高齢化で集落が消滅しようというのになぜ外からの人をうけいれるのに躊躇するんだ?」というヘイズさんの不思議に絡めていえば、単なるホメオスタシス、自己防衛本能の発露。都会もんと何も変わらないと考えてきた。

 ズレが生じているのは、身に染み付いた文化的伝承と、遠きにありて見てきた「ふるさとへの憧憬」という「期待」とが齟齬するからに他ならない。自律的にやってきた守りの姿勢と商業的依存に支えられている「期待」とが食い違って、トラブルになってしまうのであろう。

 ホメオスタシスは、ではなぜ(集落が消滅するかもしれないという)未来を算入しないのか。その不思議が残る。そこへ踏み入ってみよう。キーワードは、ガイジンである。

 外国人に対する畏敬と私は考えているが、端から異質であるとみえるガイジンは、気心が知れないと受け容れる方は感じる。「都会風を吹かすな」と同じように「外国風を吹かすな」といってやれば良いのに、そうは言はない。なぜか。相手が「わからない」のだ。

 日本人の新来者に対する「都会風をふかす」は、同じ土俵の上にあってあたかも主導権を握るかのような振る舞いに対する嫌悪感を表明している。新来者は(同じ日本人ならば)ワタシらと同じように振る舞えと思うのに、自分たちは一歩先んじている文化を知っているのだとばかりに、礼儀・作法もわきまえず優越的に振る舞う。それに対する不快感、先見的な劣等感の裏返しの表白なのだ。ここにも、田舎人の誤解がある。都会もんも所詮はわしらと同じ日本人ではないかという誤解だ。元々違うと思っていれば、どんな風を吹かせるかわからない。コイツ何者? と不審に思うと同時に、オモシロイじゃないかと受け止めても不思議ではない。だが同じ日本人じゃないかと思うと、何でこんなことがわからないんだ、甘えるな、えらそうに言うなと、時代や文化のズレを棚に上げて苛立ってしまう。ついつい土地もんの流儀で解釈して、腹を立て、邪魔だよオマエと排斥してしまうというわけだ。

 だがガイジンは違う。そもそも土俵が同じと考えていない。それこそ優劣の判別も棚上げした異質さが出発点にあると思ってみている。果たして、わが町の気風、コミュニティとかアソシエーションに馴染んでくれるのかどうかもわからない。だから、警戒的ではあっても、敵対的ではない。好奇心は剥き出しになるが、礼を失するほど口にはしない。恐る恐る近づき、何をしに来たんだ、家族はどうなってるんだ、どうやって暮らすのかと探りを入れる。これはもう、明治11年に日本にやってきたイザベラ・バード人に対する上州の村人の好奇心と同じ根っこである。その土地に馴染もうとしている敬意がガイジンの言動から感じられれば、オモシロイと受け容れるばかりか、さまざまな援助を惜しまない。そのようにして今地元に溶け込んでいるガイジンは各地にいると、TVメディアは伝えてくれている。

 ヘイズさんが房総半島の集落の人に「もし私が家族を連れてここに住んだら、どう思いますか」と問うたときに、しんと静まりかえったのは、排斥する沈黙ではない。「わからないこと」への応対である。その後に続いた言葉「それには、私たちの暮らし方を学んで貰わないと、簡単なことじゃない」と「不安そうな表情」も、ガイジンに対するすぐにどちらとも言えない心裡が現れたものと私は受けとった。ひょっとすると、ガイジンがこの集落に馴染むのは「簡単なことじゃない」と気遣ったのかもしれない。それくらいわが身の裡にも、ガイジンに対する異質・畏敬の念が染み付いている。

 昔、羽仁五郎であったか、「都市の論理」という本を書いて、近代的な市民というのが自律の精神を旺盛にして中央国家からの支配を嫌ったということを主張したことがあった。江戸は、その当時としてもすでに世界的な大都会であったと何かの本で読んだことがあるが、羽仁五郎が取り上げたハンザ同盟などの都市と違って江戸は、そもそもの出立点が中央集権の権化のようにして形づくられた都市であった。異質な他者が集うといった西欧の都市と違い、異質な「くに/郷土」の人々が寄り集って一つの国家の人々として文化形成をする都会であった。もし堺の町が織田信長の攻撃を退けて自律の道を歩んでいたとしたら、あるいはもし長崎の町が、江戸の支配とは別に自律した海外交易の拠点として自治的に運営されていれば、日本にも、異質な人々の集う近代的な市民(の誇り)が誕生していたかもしれない。だが、そうはならなかった。まさしくこの大都会、江戸・東京こそがニホンであり、そこで話される言葉がニホンゴであり、その文化・産業こそがニホンを領導する文化であると、明治以降の歩みを通して大阪を凌いでいったのであるから、異質どころか、どれもこれも一緒=同一民族と後にみなしてしまうほど、江戸・東京文化の集権的力は強かった。

 それが、田舎の、つまり地方の劣等感に繋がり、都会風に対する反発にもなってきたのだ。それが、ITネットワークの発展と広まりによって、どこに身を置いていても務まる仕事が多数誕生することになった。加えてコロナ禍によって、大都会は密であり、with-コロナの暮らしには適切でないと天の啓示が下り、地方へ移住する人たちが出来した。コロナ禍ばかりでなく、あくせく時間に追われる都会での暮らしに草臥れて、もっと自然の中に身を置いて暮らす方が、子育ても自給自足も、人と人との関わりもいいんじゃないかという気風が少しずつかもしれないが、広まっているような気がする。

 こちらは歳をとって、わが身に刻まれている自然との馴染みが掻き立てられて、「ふるさと」を想うように、今その動きを眺めている。でも心裡だけね。身はもう、思うように動かない。

2023年2月17日金曜日

都市の論理は不安にする

 田舎と都会という対比で「都会風を吹かすな」を考えてきた。

 人の関係に於いてなぜ、田舎が窮屈なのか。ちょっとパターンをモデル化して考えてみよう。

 農業や畜産業を基本的な産業とする田舎は、人口が少ない、人と人が顔見知りである、互いにお暮らしや人柄がみえている。言葉を交わさずとも、田畑のつくり様を眺めれば、人柄もクセもイイもワルイも剥き出しにしているようなものだ。良いことは口にするが悪いことは直にはいわない。陰湿と言えば陰湿だが、人付き合いのノウハウの一つ。それも気遣いとみれば、一概に悪いこととは言えない。そうした場で挨拶を交わし言葉を遣り取りすると、ますます親密になり、いわばプライバシーというものの端境がみえなくなる。

 親密になるということは、善し悪しが周知になることでもある。人柄の悪い人にはそれなりの応対をする。もちろん、何を良しとし、何を悪しとするかは人によって異なるが、相応の付き合い方をするのは、都会でも田舎でも同じこと。ただ都会には蓼食う虫もいろいろというほど人の数が多いから、拾う神もあれば捨てる神もある。嫌われても生きていける。だが田舎は、親密さが好き嫌いをも公のものにして人々に共有される。偏見が人付き合いの具体的な力になって作用する。ひそひそと交わされる噂が息苦しくなる。これは、田舎の人たちが節度を心得ないからではない。人の成り立ちが集団的無意識に形づくられるからである。その根柢に、ホメオスタシスと近頃生物学でいう自己保存本能の働きがあることは、いうまでもない。

 加えてヒトというのは、集団の中で人になっていく。言葉も立ち居振る舞いも、礼儀も作法も、家族や地域の中で育まれ身につけていく。アナタはワタシであり、ワタシはアナタだという共有世界が土台の出発点だ。これはもちろんモデル化した図柄に立っての物言いである。家族という単位があり、個人という自律した存在もいるから、それぞれに対応した向き合い方の規範も成立している。これは、都会も田舎も関係なくヒトの成長過程で誰もが向き合ってきた事実である。

 上記した田舎の人付き合いのノウハウも、お節介というが、気遣いでもある。それが常態化すると、皆さん周知の振る舞いや作法とおもわれることが多くなる。それが田舎の密な気風をつくる。

 親密な関係が何代も続いて周知されている田舎にいると、あいつは誰某の息子だ孫とお見通しである。蛙の子は蛙だというのもあれば、鳶が鷹を生んだと言われることもある。そうやって私たちは、人を見る目や世の中を見る目を育てている。みえないと思っているのは当人だけで、身包み剥がれたように周知の事実ってことも、よく出来する。

 その密な気風が息苦しくて、田舎を出て都会に向かうというのは、親元から離れて自律する若者と同じだ。その若者側からみれば、こうも言えようか。気が付けば、自分の話す言葉も立ち居振る舞いも、ことごとく自分が生い育った場の人たちからいつ知らず与えられた/譲り受けたものばかりである。まるで自分の内心を覗かれているようなものだ。

だが、オレは誰? と思いが湧くのは、ジブンが他の人と違うという裂け目が感じられ始めるからだ。自我の誕生とか心理学では言うが、いきなり「誕生」にはならない。オレとかワタシという一人称の響きが、オマエとかアナタと違うという響きとなって身の裡にうずき始める。それはまだ、自我の萌芽だ。その感触である芽が言葉になったとき「誕生」となる。これは田舎で育とうが都会に暮らして大きくなろうが、関係なくヒトの成長にかかわって生じることだ。

 萌芽が誕生となるプロセスには、人と人との関わりのぶつかり合いが挟まっている。つまり他人をワタシと違う他者と意識する契機として、わが身に感じ取る違和感が積み重なっている。なぜかわからないが、苛立たしい。誰に向けるわけではないが、ムッとする。なんだか落ち着かない。そうしたことが繰り返されることが多いのは、親であったり兄弟姉妹であったり、要するに身近な人。彼らとのあれやこれやに違和感を抱くようになって、ある日、ジブンはジブンだと思う。それが自我の誕生である。そのプロセスにはすでに、他者との関係は組み込まれている。

 そこへもってきて人の関係世界は、規矩準縄が明白である。その当事者がそう考えるから明白というのもあれば、考えようと考えまいと、知らないのはオマエだけと言うことも多々ある。子どもの頃はそういった混沌の世界に身を浸し、いつしか規矩準縄を身につけて振る舞うようになる。しかもその手順手続きというメンドクサイものまで一緒になって身につける社会的規範が礼儀・作法である。違和感を契機に自我が誕生すると、押しつけられている外圧に思える。ただ単に、規矩準縄を知るだけでなく、ジブンがその序列のどこに位置しているか見て取ることも必要になる。ジブンの置かれている立場が、今風な若者にいわせると「親ガチャ」である。本人に選択余地のない運命。それは、縁でもあるし軛でもある。自我が誕生して世界が外部と感じられるようになると、軛は「同調圧力」となる。それに反発する内発する欲求は、自由への羨望である。これも、言葉にするまでは、よくわからない内心のモヤモヤ。ジブンの自己意識と世の中が受け容れる落差が齟齬して現れると、単なるモヤモヤでは済まず鬱屈する。対象が何であれ、外に対する攻撃的意志にまで昇華すると事件となる。

 親元を出て都会で自立生活をするようになると、一挙に軛が断ち切れたように感じられる。実は切れていない。無意識の世界で連綿とつながっているのだが、外からは見えない。わが身の無意識に沈んでいる軛が都会に於いては他者にはみえない分、自由になったように感じる。むろんその反面では、孤立する。縁であろうと軛であろうと、独立する人と人との関係はどの世界に於いても、ぶつかり合うものだ。ことに都会の多様な文化にいると、共有される感性や感覚、思いや趣味嗜好が少なくなる。そのズレは自我が誕生後は、いっそう孤立感に結びつく。はじめから「孤立」と意識されれば、また対応のしようがあろうが、紐帯があると思っていた関係が切れているのかなと感じられる感触は、不安を呼び起こし、孤立感を深める。

 もちろん、それなりの自分の世界を手にしているヒトにとっては、孤立は、何でもない、ヒトとしてごく普通の有り様だと感じる。歳をとるってことはそういうことだと、いま私は思っている。だが、自我が誕生はしたが成熟していない若い人たちにとっては、ヒトとの繋がりの状態はジブンの証しのようなことでもあるから、その不安定さはいっそう不安を掻き立て、オレって何だと自問自答することになる。その時一番手近にジブンを証すのは、他人と比較することだ。気の強いヒトは他者を攻撃する。気の弱いヒトは不安をかかえて内向し気鬱になる。都会には今、そうした若者の不安が蔓延している。

 コロナ禍がそれを表に引きずり出した。ヒトとの距離、密を避ける。田舎への移住は、都会者の生物学的というか、生理的な次元の衝動が引き起こしている社会的動きではないかと私は推察している。都会暮らしのヒトがかかえる不安を、勝手にイメージした期待にすり替えて田舎に持ち込むなと、受け容れる田舎側が警戒するのも、よくわかる。都会風が田舎を侵食するように感じられているってことだ。ここではモデル化して、つまり極端に図式化して記述したが、いかに限界集落の高齢化人口減少社会が田舎で進んでいるとは言え、田舎の親密な関係がプライバシーを尊重しない閉鎖性と非難されることではなく、ヒトのクセが小さな規模の社会でそのように展開している自然と見て取らなければならない。

 そこへ参入する方も、その土地の気風という自然に敬意を払って接しなければならないと思う。

2023年2月16日木曜日

散歩日和の花の山

 今週の山は、栃木市の太平山。桜の山として名が知られ、3月には桜祭りも行われる。梅はどうかいなと思って出かけた。朝も8時半過ぎに出発。2年前ならもう登山口から歩いている時間。でもリハビリ登山だから急ぐことはない。それに4時間半くらいの行程、のんびり行こうというわけ。

 ところが、東北道の渋滞に出くわした。岩槻ICあたりで事故があったようだ。でも時速20kmくらいで進むからnaviに表示された到着時間とほんの20分くらいズレて到着した。広い敷地を取ったカインズモールと名付けられたアウトレット。広い駐車場は空いている。イヤ有難いと止めて登山口までの1・5kmを歩き始める。10時25分。空は青く、太平山が日差しを受けてやわらかく稜線をみせている。

 大平山神社登山口から真っ直ぐな石段がつづく。冬枯れの姿を見せる広葉樹、葉を付けた常緑樹の灌木、所々針葉樹という気配が、鬱蒼でもなく明るすぎもしない静かな参道を成す。とはいえ、神社間近まで車道があるから、登山者くらいしか踏んでいない。石段の脇に踏み跡が広がって、さびれた感じが醸し出される。そうだ、3年前、コロナ禍がはじまった頃の3月下旬にここを歩いた。石段を終えて山体を巻く道に入った辺りで稜線が開けてみえる地点がある。頭上にもサクラがあり、そこから進行前方の山肌がサクラで色づいて、新緑に映えているのが一望できた。今は葉を落とした枯れ木が出番を待っている。

 中腹の謙信平には広い駐車場があり、そば屋や土産物屋が建ち並んでいる。その隅に小さな看板が立てかけてあり、「桜の害鳥駆除のために薬剤を*月*日散布する」と、断りが書いてある。桜の害鳥って何だろう。メジロかなヒヨドリかな。でもそれって駆除するようなものなのと、野鳥の会のカミサンは怒っている。

 大平山神社はさほど広くない境内にいくつもの社をおいて南側に開いている。本社の隣にやはり立派な屋根を戴いた社があり、「太平山神社・天満宮文章學社」という社を祀っている。登り始める前に兵庫県に住む娘から、孫娘の高校合格が決まったと知らせがあった。菅原道真を祀っていることに気づいたカミサンが「お礼をしなくちゃあ」とお賽銭を投げ入れて柏手をはたいている。

 ここからが本格的な登山道だ。まず奥宮へ立ち寄る。といっても石づくりの小さな祠があるだけの素っ気ないもの。ま、神道ってこうなんだよねと思う。晃石山へのトラバース道を分け山頂に向かう石の多い道を踏むと、素っ気ないと言うよりも無粋な黒っぽいプレハブ様の奥社がある。ここでお昼にする。山頂はその裏の少し小高い所の樹木に山名と標高341mと記した札が掛けてある。何組かの人たちが登ってきて、次へと移っていった。

 12時10分頃山頂をスタート、標高差100mほどを降る。ここが滑りやすい急斜面。私はストックをついてバランスを取るから平気だが、カミサンは木に摑まっておっかなびっくりである。とても昔日本百名山を全部登った人とは思えない。年齢が進むと一番衰えるのはバランス感覚というのがよくわかる。ストックを貸そうかと声をかけると、使い方がわからないからいらないという。ストックの使い方ってあるのか? と私は思う。カミサンは頭で考える人だ。使い方がわかって使えると思っている。使ってりゃあ使い方って自ずからわかるというのが、私流。この違いは、でも年をとった今から治すようなことではない。ゆっくりと降りてくるのを待つ。でも、それほど苦労している様子もなく、ついてくる。

 どこからか車道がきているのか林務作業車が止まっているグミの木峠を経て、電波塔を右に見て過ぎ、再び登りとなり419mの晃石山までの上り。その途中の東北方面への見晴らしがいい。筑波山が広がる田畑の平野部に独立峰の姿を見せている。太平洋までみえるかのような景観だ。

 晃石山の山頂には2組8名くらいの人がベンチに座っている。西の方面が見晴らせるが、遠くは霞がかかっている。風も少し強い。水を補給し、チョコを口に入れて出発する。13時10分。すぐ下に晃石神社の屋根が光を反射している。大平山頂の無粋と違って、こちらは拝殿も境内もしっかりとした神社建築。だが、人が居るわけではない。

 その下で、清水寺方面と大中寺方面への分岐がある。大中寺への道をとる。この急傾斜の下山路にも、やはりカミサンは苦労していたが、慎重に降りてくる。30分ほどであじさい道路と名のついた舗装車道に出た。その車道を北へすすむ。大平山の山裾を回り込むようにして大中寺に出る。白梅や紅梅が盛大に花を付けている。ロウバイはちょっと色合いが透けるようになって匂いも薄くなっているが、まだ頑張っている。

 大中寺にも広い駐車場があり、何台も車が止まっている。別のところを回ってきたのであろう、10名くらいのグループの高齢登山者が「やっと着いたね」と口にしながら、そこに止めた車へと向かう。私は、3年前に修復していた山門の柱がどうなっているか見ておきたくて、大中寺に立ち寄る。境内の桜が何輪か花開いている。

 ここから車を置いたアウトレットまでは、約3㌔35分かなと見当を付ける。ほぼその通りの時間で歩いた。シロハラがいた。トビとノスリが空を舞う。日差しに透けるようなノスリの羽根が美しい。ツグミが電線に止まっている。雀の群れやカワラヒワの群れが畑に舞い降りたり飛び立ったりしている。春が近い。

 約2万500歩、15.1km、歩行時間は4時間、行動時間は4時間半余。夜になって腰に来た。湿布を貼って宥めているが、こんなことでは、まだまだお遍路には向かえない。

2023年2月15日水曜日

人生の二歩目の一歩、おめでとうございます。

 今日、娘が五十歳になる。いつも誕生祝いのメッセージを贈る。こんな風に書いた。

***

 昨日のSちゃんの高校合格の知らせ、とても嬉しかった。ちょうど佐野市の大平山をお母さんと一緒に登っているときでした。私の左手掌手術のリハビリが思わしくないと思った医師が、左手に力を入れたりする運動をすすめ、山登りも、ザイルを使うようなものでも、できるならば構いません。岩登りも良いと思います、と。話しているとまったく山登りに知識の無い医師でしたが、私にとっては、全面解禁の朗報となりました。以来、毎週ひと山登るというペースで、山へ行っています。お母さんは、付き添いです。

 2月の一週目は、コースタイム2時間半の奥武蔵の日和田山を4時間かけて歩きました。何とか歩き切れたという感触でした。翌日から腰が痛くなり、3日ほど尾を引きました。

 二週目は、お母さんは予定が入っていたので、私の単独行。佐野市北部にある寺久保山。何年か前に一度トライしたのですが、参照したガイドブックが古かったのか、コースはすっかり廃道になっていて四苦八苦しました。今回はそのリベンジ。廃道の脇にある新たに拓かれたルートをあるいて4時間半、のんびりと楽しんできました。

 そして昨日、第三週目、歩行時間4時間、15km、行動時間4時間35分を歩き通しました。その途中に、あなたからの嬉しい知らせを貰ったわけです。大平山神社には他にもいくつかの社があって、その中に「天満宮文章學社」という名の、菅原道真を祀ったものがあり、お母さんは感謝のお賽銭を差し上げて柏手を叩いていました。

 あなたにとっても本当に嬉しい合格祝いでしたね。Sちゃんもよく頑張った。勉強ばかりでなく、バスケットも高校から声がかかるほどの力を付けたというのが素敵です。母の力は偉大です。おめでとう。

 思えば、五十歳。早かったなあ。あなたがもう、人生の折り返し地点。私たちが年をとるわけです。

 知命……天命を知るという。私の場合、それは何かと考えた覚えがあります。ここまでの人生を振り返って,何をしてきたか。それが天命なのだと思いました。つまり、五十歳までは無我夢中で生きてきたけれども、これからは、その自分の歩いた道を一つひとつ振り返って、その意味を問い返してみるときがきたと思ったわけです。

 すると、わが身に染み付いている感性や感覚、好みや考え方、ほとんど無意識にしていている振る舞いやクセなどが、良いことも悪いことも皆、わが身が受け継いできた人類史の堆積だと思うようになりました。言葉もどれ一つ自分のものというのは、ありません。皆受け継ぎ、受け渡してきたもの。外の世界に対する不思議や興味関心が、実は自分自身に対しても同じように向けられる。わが身を人類史が通過していっている。ああ、これが天命なのだと思ったのです。

 その中に現れてきた得意技を活かして、これからの残る人生を生きていくんだな。そう考えると、まず、ここまでのさまざまな幸運に感謝する心持ちが湧いてきました。これまでのあなたの幸運は、私たち親の幸運でもあります。いろんな凸凹はあったでしょうが、3人の子どもたちも順調に育っているのは、あなたとあなたを取り囲む人たちに恵まれ、それぞれの人たちの幸運が積み重なってあなたの人生に現れている。そんな感じがしているのです。

 後半生のあなたがどのように生きていくのか。人類史の二歩目の一歩と考えるとオモシロイなあと思います。私にはもう、あなたのその姿をみることは限られていますが、元気に、ここまでの幸運を感謝することによって惹き寄せ、味方につけて乗り越えていって下さい。前途洋々というのは、これからのあなたの人生に向けられた言葉のように響きます。

 後半生の出発、おめでとうございます。 父・母 *

2023年2月14日火曜日

身に刻んだ来歴を互いに脱ぎ捨てる作法

 さて、ここからが本題。昨日の「池田暮らしの七か条」につづけます。

 この七か条は、先に触れたBBC東京特派員のヘイズさんが取り上げた房総半島の集落のケースとそっくりである。高齢者ばかりでほぼ消滅すると思われる地域の人々が、しかし、ガイジンが移住してくることに抵抗を示す。ヘイズさんが「日本人の不思議」と思うのもうなずける。

 実際、福井県池田町の人口は2500人ほど。そこへ毎年20人ほどの「移住者」がいるというから、さすが「日本一住みたい県」だけのことはある。とは言え、ここ何十年かの人口は減っているから、社会移動で入ってくる人の数よりは、亡くなる人や町から出ていく人の人の数の方が多いと思われる。でも、「都会風を吹かさないで」というのは、池田の暮らしには池田の暮らしの由来があるから、それを尊重してねと訴えている声と私は受け止めた。

 この「七か条」をまとめたのは池田町の33区長の意見を集約したそうだ。人口2500人が33区に分かれていると考えると、一つの区がおおよそ80人足らず。これは、意見集約の単位としては絶好の規模だと私は考える。議論なんてものではなく、寄り合いで言葉を交わす。それで、誰それはどう考えている、誰某はどんな問題を抱えているから反対しているとわかる。それが「プライバシーが無いと感じるお節介」と「七か条」は表現している。だが都会地のように、昼間は外へ働きに行き夜だけ帰宅するという暮らしではないから、日中の外出や畑仕事のたびに顔を合わせる。となると、挨拶もすれば言葉も交わす。体調や家族の近況や動向が話題になっても、まあ、当然と言えば当然である。とりあげているメディアはほとんどこれを「押しつけ」と受け止めているようだが、果たして一概にそう言えるかどうか、私には判断が付きかねる。プライバシーも人の付き合う作法も、集団の大きさや付き合う頻度などによって大きく変わる。一口に言って仕舞うわけにはいかない。

 池田の暮らしの由来を尊重してほしいと(いう願いと)私が考えるのは、ワタシが池田町のことを知らないからだ。はじめ越前の池田町と聞いたとき、私が思い浮かべたのは室町・戦国時代の一向一揆のことであった。門前の小僧としてその時代の門内を覗いた記憶では、約百年に亘って一向宗が「くに」を統治したと思っている。さらに一向宗と言えば、一切衆生悉皆平等のセカイと受けとめているから、人々が身に刻んで無意識に沈んでいる感性は、きっとすごいんだろうと好感を持ってもいる。この人たちの外来者への呼びかけに耳を傾けるのは、ま、至極当然なことじゃないだろうか。

 ヘイズさんは「日本人の不思議」と言うが、たとえばスペインのバスク地方の人が「独立」を叫ぶのは不思議だろうか。イギリスの北アイルランドの人たちがイングランドの人たちに警戒感を抱くのは不思議だろうか。つまり、土地そのもののもつ気風があり、そこへ入っていくものがもっていてほしい儀礼・作法がある。それは不思議でも何でもない。土地には土地の気風がある。それを全部承知で入ってこいと言うのは、乱暴だ。せめてその気風を知らないということに気づいておいてねと期待したい。そこへの参入者はそれなりの敬意を払って入ってきてくださいというのが「七か条」だと、まず思った。

 逆も言える。限界集落に近づいていることを考えれば、池田町の人たちも古来の気風にしがみついているばかりではいられない。当然自分たちも変わらなければならない。まして都会もんはもっと広い世界の動向にも身を浸して(善し悪しは別として)新しい気風を持ち込んでくる。つまり、不思議な存在である。そう考えれば、新規参入者の作法や振る舞いも、それなりの「由来」を持つものとして敬意をもって受け止めなければなるまい。その気配がないから「七か条」は「上から目線だ」「押しつけだ」と非難を浴びるのである。

 何だ、互いに出会う人の由緒由来があることを(わが身の知らないこととして)認め尊重せよってことか、と思うであろう。そうなのだが、もうひとつ、土地のもつ気風はそう簡単に両者をフラットな立場に立たせてはくれない。やはり、土地に染み付いた気遣いやお節介、好奇心や詮索がある。それはヒトのクセとして無意識に染み付いていることが多いから、ややこしくなる。メンドクサクなるのは歳のせいもあって、高齢化社会では当たり前のこと。でも、そのカベを乗り越えなければやっていけないのが、人の社会である。

 まさしく「七か条」が第5条に記すように《共同体の中に初顔の方が入ってくれば不安に感じるものがあり「どんな人か、何をする人か、なぜ池田に」と品定めすることは自然》である。それと同じ感覚を別の地点から新規参入者が持っていることを受け容れ側も心得て向き合わねばならない。

 先述した村山由佳の小説『雪のなまえ』に地元と新規移住者との確執が描かれていたように、今回の池田町のようにいきなり全国区で「論題」にされるよりも、一つひとつのケースについて,なぜこうであり、どうしてそうでしかなかったのかと考えていくことが、何よりも重要である。全国区で取り上げると、子細な部分が捨象されて後景に置かれ、大きな枠組みだけが論議の対象になる。そういうやり方をすると、土地の育ててきた気風とか参入者のもってきた気風が省略されて、機能的な人と人の関係だけが論議の俎上に上がる。そうなると、人の佇まいはそっちのけになって,言うならば行政的な施策だけが残るというお粗末なこと。行政の下請けのような、今の町内会と同じにになってしまう。残念なことだ。

2023年2月13日月曜日

論議の場をどうつくるか

 2/11のネットニュース・SmartFLASHで、《「都会風を吹かすな」の福井県池田町ーー過去には「移住してはいけない理由」を公開…同町に意図を聞いた》と流れた。

 高齢化の進む福井県池田町。「住みやすい町人気ランキング」で常に上位を占める福井県故か、コロナ禍になってリモートワークが広がった所為もあってか、移住者が多い。トラブルも増える。こんな筈じゃなかったと、移住に失敗して撤退する人もいる。たぶんそういう事情が背景にあったのであろう、池田町が広報誌に「池田暮らしの七か条」を掲載した。その表現に一部に「都会風を吹かすな」とか「(地元民が移住者を)品定めするのは自然」とあったものだから、ネットニュースでも取り上げられ、東京新聞紙上にも掲載されることとなった。広報担当者としては「してやったり」というところか。


 ◇ 福井県池田町が公開した「池田暮らしの七か条」

                                        

第1条 集落の一員、池田町民であることを自覚してください。

第2条  参加、出役を求められる地域行事の多さとともに、都市にはなかった面倒さの多さも自覚してください。

第3条 集落は小さな共同社会であり、支え合いの多くの習慣があることを理解してください。

第4条 今までも自己価値観を押しつけないこと。また,都会暮らしを地域に押しつけないよう心がけてください。

   ・これまでの都会暮らしと違うからといって都会風を吹かさないでください。

第5条 プライバシーが無いと感じるお節介があること、また多く人々の注目と品定めが行われていることを自覚してください。

   ・どのような地域でも,共同体の中に初顔の方が入ってくれば不安に感じるものがあり「どんな人か、何をする人か、なぜ池田に」と品定めすることは自然です。

   ・干渉、お節介と思われるかもしれませんが、仲間入りへの愛情表現とご理解ください。

第6条 集落や地域でも、人間関係を積極的に楽しむ姿勢を持ってください。

第7条 時として自然は脅威となることを自覚してください。特に大雪は暮らしに多大な影響を与えることから、ご近所の助け合いを心掛けてください。

   ・池田町には「雪で争うな、春になれば恨みだけが残る」という教えがあります。積雪時、大雪時での譲り合い、助け合いを心掛けてください。

                                      *

 これは、BBC東京特派員・ヘイズさんの「日本人の不思議」にも通じるモンダイ。それを取り上げてきたseminarの素材としては、うってつけ。同じニュースソースによる東京新聞(02/11)の報道もあったので、まずそちらを紹介する。


  ★【東京新聞の報道】 都会風吹かすな、…「正直すぎる」移住案内はアリ?

                        福井・池田町「七か条」がネットで炎上


 新型コロナ禍でも話題になることが多い地方移住を巡り、福井県池田町が1月の広報誌に載せた「池田暮らしの七か条」が波紋を広げている。「都会風を吹かさないよう」「品定めされることは自然」といった表現が批判を集めた。もともとは移住後のトラブルを避けるための親切心が出発点のようだ。正直すぎる移住案内をどう考えるべきか。(岸本拓也)


◆「雪かきや草刈りに参加してくれない」悩みから


 池田町は、福井市の南東に位置し、町の9割が森林に囲まれた県内有数の豪雪地帯だ。人口は約2300人と、この30年でほぼ半減。高齢化率は45%で、全国平均の29%を大きく上回る。過疎化を食い止めようと町は森林を生かした街づくりを掲げ、地域おこし協力隊員を積極的に受け入れたり、町営住宅の提供や就労支援に力を入れたりし、例年20人ほどが県内外から移住しているという。

 そんな中で物議を醸したのが、くだんの「七か条」だ。町によると、「移住者が雪かきや草刈りなどの共同作業に参加してくれない」などの悩みを受けて、町内に33ある集落の区長でつくる区長会が提言としてまとめた。1月中旬発行の町の広報誌に掲載し、町のサイトでも公開した。

 提言は「町の風土や人々に好感をもって移り住んでくれる方々を出迎えたい。しかし、後悔や誤解からのトラブルを防ぎたい。そのための心得」と前置きし、草刈りや雪かき、祭りといった地域行事への参加など支え合いを促す内容だ。

 ただ、その第4条で「都会暮らしを地域に押し付けないよう心掛けて」。第5条には「お節介(せっかい)があること、多くの人々の注目と品定めがなされていることを自覚して」などと記した。

 こうした表現に「排他性の極み」「上から目線」などネット上で批判が噴出。町に対して、主に県外の人から電話で寄せられたほか、町の移住者からも「あまり良い表現ではない」との声が届いているという。


◆「移住者を排除する意図は全くない」


 事務局として関わった町総務財政課の森川弘一課長は「移住してから『聞いていない』『知らない』とならないよう、集落の抱える問題点を包み隠さずに伝えた上で、受け入れたいという考えから区長会が7か条をまとめた。集落をよく分かってもらうためのツールで、移住者を排除する意図は全くない」と釈明する。

 さらに「町のきれいな景観や伝統は、昔からの濃い地域コミュニティーの中で、努力して守ってきたから続いてきた。そうやって汗を流していることも知ってもらいたかった」と訴える。移住検討者向けに、集落ごとの慣習や決まり事をまとめた冊子も作成中で、ミスマッチが起きないように説明していくという。


◆「おかしな内容ではない」


 テレワークが普及する今、自然に囲まれたより良い暮らしを求めて、地方移住を考える人は増えている。移住支援を手掛けるNPO法人ふるさと回帰支援センター(東京)には、2022年に過去最高の約5万2000件の相談があった。

 同センターの高橋公(ひろし)理事長は、池田町の提言について「表現の拙さはある」としつつも、「受け入れる側の思いとして、おかしな内容ではない。移住の向き不向きが分かるように自治体側でマイナス面を含めて正直に情報を発信することはあっても良い」と話す。

 その上で移住の心構えを説く。「単なるあこがれだけでは移住は失敗する。地域の気候やしきたりを受け入れ、自分から溶け込む努力ができるのか、しっかり事前にシミュレーションや相談を重ねることが大切だ。同時に、ゆったりと時間が流れる地方での新しいライフスタイルと不便さを楽しむつもりで、自分に合う移住先を選んでほしい」

                                      *

 さて、東京新聞は「正直すぎる移住案内」と、この七か条をまとめた。近頃のTV番組でも「いいいじゅー」とか、古民家を改修して移住者を募るとか、いろいろな試みが紹介されている。少子高齢化で限界集落が極まっていくことにどこの地域も関心が深い。それと同時に、移住者を受け容れると、それに伴うトラブルも生じる。昨夜もNHKだが山梨県北杜市の移住者がどのような暮らしをしているかを、地元住民との接点を抜きして上手にまとめていた。これらをみると、都会地を離れて暮らすことの快適さが強調されていて、池田町の地元住民のご苦労は思い浮かばない。池田町の「七か条」はそれを浮き彫りにした。冒頭でこれが取り上げられたことを池田町の担当者は「してやったりと思っているかもしれない」と憶測を述べたのは、池田町広報担当者を非難してではない。むしろ、こういうモンダイを俎上にあげる「論議の場」がなかったことが、これを契機に出来上がるんではないかと思った。

 池田町の「七か条」は移住者が都会風を吹かすのに困惑している。これをまとめたのは、池田町に33ある区長たちだという。つまり、暮らしに一番密着した所で住民たちが共同して行ってきたことに、新住民が協力しない。この区長会にあたるのは都会では町内会であろうか。私は団地住まいであるから団地理事会と自治会がそれに代わる組織として機能している。でも暮らしに必要なのは理事会。住居の修復保全・清掃など共同して行わねばならない生活実務を担当している。ところが、町内会となると、住居の保全は各戸が個別に行うものだから、ゴミの収集場所の整備や清掃など、ごく限られた作業を分担して行う程度になる。ところが都会地では、よく問題になる「ゴミ屋敷」とか「倒壊危険家屋」のように、持主が放置すればどう片付けて良いかわからないメイワクが出来する。

 わが思うとおりに振る舞って何が悪いという,いわば社会的行儀作法である。都会地でそれは結局行政が「強制執行」する法改正に向かっているが、地元の小さな単位では、ゴミ処理に関する町内会に加わらないという「身勝手な」住民も現れる。だが中には、高額な町内会費を集めて、年に何回か盛大な祭礼を行って親睦を深めるという町内会もある。それに賛成しない人たちは、ゴミ処理とは別にしても加わりたくない。古くからの住民と対立する。

 移住というのが、単に地方行政に世話になるだけでなく、自律的に行われている地域の共同作業に参加することだと、都会地から来る人には念を押したいと、池田町の口調たちは考えたのだろう。えっ、今でも農村共同体は生きてるのと拒否反応を示す人は、案外多い。共同体という言葉自体に戦前の農村共同体や隣組のイメージを重ねて拒絶反応を示す人は、インテリといわれる人にも多い。だから用心深い知識人は、コミュニティと言ったりアソシエーションと表現して、古いイメージを払拭している。

 これまで私たちがイメージしてきた「わたしたちの暮らし」という共通のものが、住んでいる場所によって多様化し、すっかり変容してしまっているのだ。そのばらつきが大きいから、移住者が参入することによって困惑する場面が増える。産業社会の初めの段階では、田舎から都会へという一方向の優劣に価値づけられた意識が共有されていた。そのころには、「都会風」は旧来の弊風に新しい風を吹き込むと考えられることもあった。だが今、高度諸費社会を経過して暮らし方の多様化もずいぶん広がり、且つ深まってきている。海外勤務が忌避され、キャリアを求める仕事よりもスローライフが称揚される。コロナ禍もあって、リモート仕事も可能になる。当然、子育てを含む環境を求めて移住を考える人たちも多くなる。だが、人と人の間の,感性や感覚、好みや価値意識や考え方は、ますます多様になり、その分、場をともにする人たちは、その差異をすりあわせねばならない。そうした「論議の場」を地域に設けることが必要になっていると言える。

2023年2月12日日曜日

領導するのは知的エリートか庶民大衆か

 ヘイズさんの「日本人の不思議」につづける。ヒトの暮らしが基本的に群れの中で暮らす形になるのは、致し方のない所。その後近所付き合いが煩わしくなるのは、ヒトとヒトの感性や感覚や価値観や観念の差異がある以上、これまた致し方ない所です。

 だが、その差異を身の裡に感受するときに嫌悪感が湧いてくるのは止めようがないとしても、それをなにがしかの場で口にするのは,また違う次元の層のモンダイになります。思想の自由,表現の自由と一口で言うわけに行かない問題を作り出す。

 ヒトの抱く感覚、感性、その結晶ひとつの形である感情は、外界との接点であるから、誰しもの胸中に湧いてくる。しかしそれが、言葉や身振りなどで表現されたりすると社会的な行為となる。そこで発生するコンフリクトは、自分の責任で始末しなければならない。ヒトの群れが大きくなるにつれて、その社会的発現に衣装が着せられるようになった。それが、儀礼、儀式、行儀、作法でした。

 これが時代の歴史的展開によってカタチを変える。その見て取り方は二通りに分かれます。ひとつは、すっかり変容する、つまり歴史を刻むごとに進歩するという見方。もう一つは、変わるのはカタチであって、本質的なものは堆積して内側に積み重ねられているという見方。後者は、ひょっとすると歴史は(循環的に)繰り返されているんじゃないかという考え方にも通じる。その子細に今は踏み込まない。私は後者がより妥当だと,体感をもっていることだけ表明しておきます。

                                      *

 さて、名古屋のオオガくんの【返信4】が行きがかりに引き合いに出した言葉が、幼なじみのトキくんの、こんなリアクションを引き出しました。

 オオガくん《……それ以後も脈々と流れる保守の地下水脈(保阪正康)は枯れることもなく、高齢化と選挙制度、野党の体たらく、はたまた、特に投票率の異常な低さ(選挙制度に問題があると思う)で自民党の支持基盤は揺るぐこともない。同性婚者は気味が悪いと宣う輩の「隣には住みたくない」世界最高の日本人であるためには何を考え、どうするべきか》

 トキくん《LGBT法案には大反対。反対する人はむしろマイノリティ。であれば俺たちも保護しろと言いたい。/昔NYに住んでいるとき、同じ長屋の一画ににホモのカップルが住んでいました。こちらは気持悪かった。生物学てきにみればやはりおかしな取り合わせ。それを言って何が悪い。ないもこんなことでG7の中で日本が異質といわれる筋合いはないと思います》

 この両者がかみ合っていないことは明白です。オオガくんは「どうするべきか」と、気味が悪い発言を「世界最高(知性)」かと揶揄うような次元のこととあしらっています。それに対してトキくんは、瞬発反応して、わが身の裡側をさらけ出しています。今日は、これを取り上げて考えてみます。

 LGBTがどう欧米で取り上げられるようになったかの議論もまた、脇に置きます。ただ話の進行上、私がそれをどう胸中に位置づけているかは表明しておかねば公正でないと感じますので、ひとこと言及します。私はLGBTを「気持ちが悪い」と感じる感性は、理解します。だがそれを表明・表白することは妥当とは考えません。ワタシがそう思う根拠は、生命科学に於ける知見とTVや書籍メディアを通じての「体験」にあります。

(1)生命体は無性生殖から有性生殖へと進化してきた。これは優劣ではなく、DNAの継承がよりうまくいくかどうか(後付けとして)として位置づけられている。

(2)ヒトもまた母胎に誕生して後(外見的には)みな女性として成長し、さらに後に男性が分岐する。性染色体の生長に即した分岐の仕方はもっと初めの頃からであるが。

(3)「√nの法則」(福島伸一)にあるように、たとえば一億人いると,その平方根の一万人は全体の趨勢と逆の動きをする。つまり、性の分岐に於いても必ず一定数の逆向きが発生することを示唆している。

(4)ラジオやTVでおすぎとピーコにせよ美輪明宏にせよ、目にし耳にしてきました。また本を通じて、ギリシャ世界では少年愛が精神的な(純)愛のように扱われています。日本でも衆道とか若道と名付けるGの裏道がまかり通っていたこと、町中の飲み屋街にそうした店があることも知らないわけではありません。

 つまり、自己の性に関して違和感を持つ人がいても可笑しくない。その人たちを忌避したり嗤うのは、社会的な多数派と少数派の関係的発現であると思っています。近代社会というのは、その(感性と社会的発現との)確執を理知的知見に基づいて修正していこうとするモメントをもってきました。西欧発とはいえ、ようやくLGBTがその修正の俎上に上がってきたとみています。トキくんが「LGBTに反対するのは……マイノリティ。であれば俺たちも保護しろ」と毒づいていますが、反対するのは肩身が狭いのでしょうかね。

 私が「身持ち悪い」と感じるは,私の感覚が20世紀のものであり、21世紀の世界からみると修正の必要な感性となっているのかもしれません。トキくんのように、それを率直に表明するのは20世紀センスが21世紀社会にむけた、まさしく「老害」と謂われるものになるのでしょうね。

 まして今回の首相補佐官ケースのように政府の中枢を担うスタッフが、当然のように口にするのはもってのほか。国際関係を視野に入れた政治世界では致し方ないのではないでしょうか。いうまでもなくこれは、政治プロセスのモンダイです。

 それとまったく別個ではありませんが、社会的世界では様相が異なります。LGBTの存在は上記(4)のように近代社会になる前から認知されていました。ヤクザや暴力団同様、裏道として「公認」されていたと謂いましょうか。それが「気持ちが悪い」となったのは、近代社会が変容して、個々人の内面の尊重とその多様性が認められるようになり、裏道も裏社会も排斥され、普通の人々の暮らしとフラットな社会平面が生じたからなのだと思います。ポストモダンと呼ばれたり、それすら昔の話で、スーパーフラットな社会空間とそれを突き破る芸術的方向性まで,広く深く,文字通り多様に展開されています。つまり私たちの日常とはだんだん異なる位置づけが為されなくては治まらない状況が生まれているのでしょうね。

 話を元に戻しましょう。政治世界の問題として言えば、国際政治の理念的な主導勢力としての西欧的常識としては、すでにLGBTは受け容れられているようです。アメリカは分断されて,目下綱引きの最中といえましょうか。むろん西欧だって分断されているのでしょうが、受け容れる社会的勢力が優勢となり、それを引き取って政治的「克服課題」としてきたのだろうと私は受け止めています。何しろ西欧は、知的エリートの主導する階級社会です。科学的・哲学的・芸術的エリートの知見が領導している社会常識の世界。それに対して日本は大衆社会の庶民常識が未だ強く差配する気配が残っていて、その代表が政治家として大手を振って歩いています。その違いが、LGBTとかフェミニズムという最先端のテーマに関して露呈しているのが、昨今の国際政治に於いて日本が「後れを取っている」理由だと思います。

 オオガくんがどうこれにリアクションしてくれるか、楽しみです。

2023年2月11日土曜日

これぞ成熟老人の箴言

 seminarのお題を探るために、30年間BBC東京特派員を務めたイギリス人が日本を去るに当たって記した「感懐」を手がかりに、方々にコメントを求めていた。36会の名付けの親の一人が次のようなコメントを寄せてくれた。ちょっと長いが、先ずは全文を紹介する。

***【返信4】オオガくん

  Old soldiers never die,they just fade away.


 3月のseminarには参加できませんが、あなたの問題提起に小生なりに反応してみます。わかりやすい素描ですが、己に振り返ってみると考えさせられることが多いBBC特派員の実感だと思います。

 トキさんのように一刀両断することに理解はしますが、小生は与しません。家内にも読んでもらい珍しく夫婦で話し合いをしました。娘が仏人と結婚し、旦那の仕事上、観光を入れれば、30カ国以上を訪れ、住人としてはパリ、ブルッセル、モスクワに住み、今回のウクライナ戦争でロシアからの国外退去命令を受けて、現在はとかく話題の北京で寒さに震えながら春を待ち、これから数年の同地での生活をしてゆくことになるのでしょう。我が儘娘ですから、コロナ前は年に2度ほどは帰国し、親に似つかわしくない「暴論」(30年近くも海外生活を続けると全く異邦人です)を吐いて親子の諍いが起こりがちでした。娘に言わせれば、やはり日本はあらゆる点でガラパゴス化していて、母国の政治ガバナンス、経済状況、社会の仕組みは看過できないと憤懣やるかたないと嘆き悲しんで?います。反面、彼女の周りの外国人にしてみれば、日本は世界で最高の国である褒め称えると宣う。このアンビバランスがまた絶妙なのです。親の権威をだらりと降ろして、謙虚に耳を傾けると、娘の嘆きは是とする面も多い。日本は茹でガエルになっても変われなかった。日本の失われた30年をこの際、「うちらあの人生、わいらあの時代」として虚心坦懐に振り返ってみるのもこの歳になっての己の責務かなと思う。そうして何が出来るのか、はたまた、そこでの思いをどのように処理するのかは何の成算もありはしないが。

 「公害」という言葉も知らず、精錬所の亜硫酸ガス(トキさん間違っていないかな?)が主因での日比のはげ山を遊び場として無邪気に駆け回り、水島工業地帯から流れ出るタールに汚された白砂青松の渋川の海で、夢中に泳いだあの頃。少し長じて、柔らかなその御手に触れもせず、日の出海岸の瀬戸に沈む太陽を眺めた淡くて青い春もあった。

 五木寛之流に言うと我々の「学生期(がくしょうき)」は、岸安保の残滓が色濃く残り、ふくよかな樺美智子の遺影が頭から離れないなか、「ポポロ座事件」、「大学管理法案」、「原潜寄港」等々、学内は騒々しかったが活気に溢れていた。大江健三郎や、三島由紀夫に耽り、柴田翔にも熱を上げた仲間が周りに大勢いた。学生特権なるものがホンワカと赦され、街で大騒ぎした後に帰ってきた寮の二階から月夜の黄色い雨が降ったのも懐かしい。

 一方、我々の「学生期」前から戦後の日本経済はGHQの庇護の下、軽装軍備のお陰もあって、傾斜生産方式による金融支援や朝鮮特需がそれに加わり、急速に欧米の背中を追った。ローマでは裸足だったアベベは、靴を履いて東京を走り抜けた。右の人も左も哲人アベベに、戦後の日本の廃墟からの隆盛を夢想したのではなかったのか。

 赤旗を憶面もなく捨て去り、「家住期」入りした我々の初任給は僅か3万にも満たなかったが、インフレに呼応した2桁の賃上げは当たり前で、居心地の良い社会人人生であったような気がする。

 「林住期」も過ぎて、「遊行期」にあるうちらあとわいらあは終活を真剣に考えねばならない時期にさしかかっている。最期の「遊行期」は個人差が大きく、五木寛之曰く、一番重視する「林住期」は人生100年時代と言われる昨今にあって、10年は誤差として許容し、今がまさに終盤といえ実りある時期にあると考えても良いのでは。このseminarがあなたのご尽力で、有意に続いてきたのは素晴らしいことであると思う。

 雑念はいろいろあるが小論を一つ。日本の置かれた現状を名古屋の田舎から眺めていると、今こそ、準大国としての立場を認識し、行動を起こす最後のチャンスだと思わざるを得ない。経済のグローバル化がこれほど浸透した時代にあって、米中のデカップリングと付き合うことの難しさは、例えば米主導のIPEFでのフレンドショアリングと情報結束が日本にとって最善の経済外交ではあり得るはずもない。其れよりもトランプの暴挙を棄てて、TPPに米が帰ってくるほうが我々の陣営にとってどれ程メリットがあることか。科学技術は近接するユーザーとサプライヤーの切磋琢磨で進歩発展する。TSMCがアリゾナに工場を建設するのはそこにアップルがいるから。同じく、同社の熊本工場が来年に稼働する意図はソニーとデンソーいるから。かって、世界を席巻した半導体大国日本には今でも世界が無視できない製造装置と素材メーカーを持つ。貿易摩擦や国としての取り組みに一貫性がなく、今の体たらくがある。莫大な資金を要する装置産業であるが故の資金不足、なお且つ生産数量確保が出来なくなった結果、台湾、韓国、米の後塵を拝している。TSMCにしても地政を考えるとアリゾナ、熊本はリスクヘッジとなることは当然である。日本としては軍備にも必需のハイテク半導体は中国を念頭に米陣営に位置せざるを得ない。勿論半導体に限らず、AI、量子コンピューター、宇宙開発、新薬などの先端科学技術での日本の位置付けである米主導の民主主義陣営に疑問を挟むつもりはない。要するにこれらの分野での優位性をいかに担保し、グローバル経済システムにあって、経済安保を念頭に日本の権益を守り、ぶれない独自性を発揮して、強かに行動するかが重要である。

 問題は、米の内向き姿勢が変わるとも思えず、国内の分断も避けられず、専制国家や、ならず者国家の跳梁跋扈を赦しかねない。また、グローバルサウスと言われる第三局グループの存在感が増していることをこれから注目する必要がある。世界の重心は大西洋からインド太平洋へ、北半球から南半球へ移行しつつある現状に鑑み、歴史的経緯からも親和性が高いグローバルサウスの国々への働きかけで、日本は大いに汗をかかねばならない。特に米のグローバル目線を引き上げ、絶えず叱咤激励するために、同じ準大国の英、仏、独、加等、志を同じくする同盟国との共同歩調が極めて重要であると思う。ファーウェイ叩きに慌てふためき、その後背にある中国の軍民同仁体制に、この期(昨年末)に及んで漸く日本やオランダを巻き込む米の戦略なき戦術は敗戦前の戯れ事(孫子)ではないのかと不安に思う。

 果して日本は変われるものなのか。然し変わらざるを得ないと思う。薩長中心のクーデターで、徳川を倒し、天皇を戴いて、近代国家らしきものを急造した。それ以後も脈々と流れる保守の地下水脈(保阪正康)は枯れることもなく、高齢化と選挙制度、野党の体たらく、はたまた、特に投票率の異常な低さ(選挙制度に問題があると思う)で自民党の支持基盤は揺るぐこともない。同性婚者は気味が悪いと宣う輩の「隣には住みたくない」世界最高の日本人であるためには何を考え、どうするべきか。

 「林住期」の最大の見せ場にあって、うちらあとわいらあは終活をぼつぼつ頭の隅に据えて、次回のseminarで大いに論壇風発してください。勝手に吠えた、この程度でことが前に進むと言えないことは百も承知だが、周りに居る人に、手を伸ばし、息を吹きかけることが出来ればそれでも良いのでは。

 Old soldiers never die,they just fade away       オオガ記

***

 《日本の失われた30年をこの際、「うちらあの人生、わいらあの時代」として虚心坦懐に振り返ってみるのもこの歳になっての己の責務かなと思う。》という気概、《勝手に吠えた、この程度でことが前に進むと言えないことは百も承知だが、周りに居る人に、手を伸ばし、息を吹きかけることが出来ればそれでも良いのでは》という明察も、80年を生きてきた老人の成熟した箴言に聞こえる。

2023年2月9日木曜日

風土とヒトの社会の優劣

 昨日の話(村山由佳の小説『雪のなまえ』)につづける。ご近所のお節介は、ご自分の感性や感覚を押しつけるものと新来者には思われる。よしてくれ、窮屈だ。だがご近所のご当人は、まったくそうは思っていない。

 転校してきた新来者とは言え、元々この地で生まれ育った父とその娘だ。曾祖父母も八十を越えているとはいえ、この土地の人として百姓仕事をしている。縁なき衆生ではない。その小学生が,学校に行けないって、なぜだ? たとえ東京の学校でいじめられていたからといって、こちらでも同じってワケじゃないだろう。ではどうしてだ? 母親が一緒に来てないのが、原因ではないのか。娘がそういう問題を抱えているなら、母親こそ一緒に付いていてやるべきじゃないか。それに父親にしたって、東京から帰ってきて百姓仕事を始めたのは良いが、カフェ何ぞと余計なことに手を出している。百姓仕事を舐めてんじゃないか。押しつけると言うよりも、ひょっとすると親身になって心配しているのかもしれない。そのご近所さんの人生経験に基づく気遣いがある。

 つまり、地元気風の勝手な押しつけだと思う新来者も、自分のことしか眼中にない見立てをしているとも言える。実は地元の人と言っても、それこそ人さまざま。新来者に気遣いする人もいれば、新奇なことに縄張りを荒らされるような気配を感じて、それを脅威と思っているかもしれない。それこそ長年の経験で、用心しいしい向き合い、探り合い、言葉を掛け、手を貸したり疑問を投げかけたり、時に肚が治まらず,酒の手伝いもあって面罵するような羽目に陥ることも、ないわけではない。そこに生まれるドラマは、それこそ、人それぞれの人生の径庭を踏まえて繰り出される、動態的平衡を求める営みである。

 そこに、ヒト個々人の、家族の、親族の、仕事場の、地域社会の、ネットワークにかかわる人たちの,人と場の数だけ絡み合う関係が作用して動いている。そこに生じるモンダイの発生因を、その場に居合わせる当事者がどうとらえるか。動態的関係の然らしむる所ととらえていれば、発生因の片方はワタシにあるという自覚につながる。だが、発生因はモンダイを持ち込んだ新来者にあるとみると、イジメと排除が働いてしまう(かもしれない)。それが、イジメになったり、ヘイトスピーチに向けられたり、「村八分」に至ったり、ガイジン扱いになったりするアクションにつながってトラブルになる。

 その、関係を紡ぐ動態的平衡とは、ヒトとヒトの差異から湧き出すコンフリクトの綱引きであり、優劣や善悪、美醜、聖俗といった価値を争う力関係が、安定点かどうかはわからないが、とりあえず平静を保つ程度に落ち着いている状態を指している。そのコンフリクトの強弱、優劣が働いて、劣・弱側の状態に名付けられたのが「病」であり「罪」であり、不道徳な振る舞いである。つまり社会的な気風の優勢な方が強・優者として,その場に於ける優先的存在権を有し、弱・劣者が新来者として闖入してくる図とも言える。何を病とし、何を罪とするかは、それを論じる場によって異なる。

 そうか、「病、市に出す」と徳島県の(旧)海部町の自殺率の低さを調査した社会学者が,その土地の風土を結論的に評価していたっけか。以前にも紹介したそれは、全国の市町村単位の自殺率を比較した統計をみたところ、(旧)海部町のそれが極端に少ない。なぜだろうと調査をした結果の発表であった。その市町村というのも、平成の大合併以前の小規模の行政区分で明らかになったことで、行政区分が大きくなってしまって,その差異は消滅してしまったそうだ。

 (旧)海部町の気風だって、大坂夏の陣が機縁になって焼けた町を修復する材木を出荷するためにあちこちから人が寄り集まったのが、ことのはじまりだったという。四百年の時を積み重ねている。グローバル化が進んだと言っても、まだほんの半世紀。島国の風土は、そう簡単に標準に染まらないんだね。とは言え、大都会東京も戦後の80年足らずで大変貌を遂げた。我関せず焉とばかりに,隣を知らずに過ごすことが出来るのも、僅かの時が生み出したもの。失望するのはまだ早いってことだろう。

 COVID-19の襲来は、そういう意味では、全世界的にヒトの暮らしを問い直すきっかけでもあった。そのとき、岡山県の地方都市にCOVID-19を持ち込んだと非難を受け,引っ越しせざるを得なかった大学卒業生とその家族は、まったく犯罪者のようにみなされ脅威として排除されたケースである。動態的平衡もへったくれもない。圧倒的な優勢者社会が、身を護ろうとして共同体封鎖をしたようなものであった。今、振り返ってみると、COVID-19に対する恐怖とウイルスとともに生きていくしかないヒトの生命存在に対する無知とが、いわば瞬間反応してしまったと言えようか。

 ということは、病む側が表白するだけでなく、聴く側もそれを受け止める気遣いの気風が求められる。そういう互いの気遣いが相乗して,その土地の気風が生み出される。和辻哲郎だったか、風土論を展開して、気候条件を含めた環境がその土地に暮らす人々の気風を決めるという展開をした。その環境に、ヒトとヒトの関係の動態的平衡を勘案すれば、BBC東京特派員ヘイズさんの「日本の不思議」も少し解きほぐせようか。

2023年2月8日水曜日

ありとあらゆるコトが投げ込まれる非難

 2022/02/08「いまでも「村八分」にするか?」 を読んで考えた。

 去年もこういうことを考えていたのだと、感慨深い。今も似たようなことを扱った本を読んだばかりだ。村山由佳『雪のなまえ』(徳間書店、2020年)。娘が学校でのいじめを苦に登校しなくなる。父親は広告会社の仕事を辞め、娘を連れて祖父母の暮らす実家へ帰って農業をやろうとする。母親は仕事を辞めるわけに行かず、通いの別居生活になる。その父娘の身を置いた実家や父親の子どもの頃の同窓生は喜んで迎え入れ、父の手がける試みを手伝い支援する。だが娘は,やはり学校へ行こうとしない。ま、それも良いかと曾祖父の農業の手伝いや曾祖母の家事を手伝い、父の試みるカフェにも携わる。

 だが田舎の人達の口さがない関わりが、娘をいっそう気鬱に追い込む。そのご近所さんの描写が、なかなかうまい。というか、1年前の記事にあった私の育った地方都市の「村八分」に近い、厳しい目と言葉が突き刺さる。そうだ、こういう鬱陶しさと縁を切ることが出来ただけで、東京へ出てきた甲斐があったと、60数年前を思い出した。

 その描写を手がかりに、なぜこうも外からの人達を拒むのかと考えてみた。村山由佳の描写で見ると、この父娘とたまさかやってきていた母に声をかけるご近所さんは、まったく自分の価値観で彼ら新来者を裁断し、良いとか悪いとか口にする。

 何でこの子は学校に行かねえんだ。勉強嫌いなんか。母親がなんで一緒にいてやれねえんだ。そうじゃねえから娘っ子も落ちつかねくなるんでねえの。父親のやろうっていうカフェは誰が得すんだ? 納屋を改装したってえが、貸し賃も取らねえで、おめえ、同窓生だからって甘やかすんじゃねえよ。

 という調子だ。まったく他者の内面がどうであるかに頓着せず、皆自分を同じ価値意識と思考様式をもっている筈だのに、どうしてこんなワケのわからない暮らし方をするのかと,酒も手伝ってぶちまける。

 ああ、これじゃあ、イヤになるわな。この娘が何で学校へ行かなくなったのか、いちいち公表しなくちゃならないのか。母親が一緒に暮らせず、別居して毎週とか2週に一回とか通ってくるのをいるわけを、皆さんに明らかにしなくちゃならないのかい。人は、それぞれに違った事情をかかえて生きているということを、考えもしない。これが、あたかも皆同じように考え、同じように感じ、同じように振る舞うべきだという同調圧力ってやつかと思う。

 この作品では、寄り合いの場で、その事情をさっぱりと打ち明けて、非難の口を封じていくのであるが、そういう機会を持てない人達は、衆人環視の白眼視に耐えて生きていかねばならない。いやだねえ。

 もちろん寄り合いのような場をもっていれば、そこで、絡むご近所さんに、どうして事情を知らないあなたがそう言って決めつけるのかと議論を挑んでも良い。だがそれは、対立を深めるだけで事態を収める方向には向かわない。

 人の口に戸は立てられぬと謂うが、そういう噂次元の喋々に、身をさらして事態を説明するほどの関係があれば、なるほど、聴く耳も現れようが、そもそも人の意見や事情を聞こうというスタンスではない。他者をあげつらって気晴らしをしているだけだ。村山の作品の「田舎」は、それほどには無責任じゃないから、寄り合いの場で表白された事情は、皆さんの沈黙と、イヤちょっと言いすぎたと後で反省を伴ってハッピーエンドに辿り着くのだが、現実の「田舎」は、そういう場すらなく、しかも口さがない人達は、自らの裡にかかえた鬱憤を晴らすために、手近な標的をあげつらっておしゃべりしているに過ぎない。さらに、どこで、どう向き合ったら良いのか、それさえわからない。

 人が多様だというだけでなく、人はそれぞれにさまざまな事情をかかえて戸惑っていると受けとるだけの包容力を,人は持つ必要がある。それにはまず、自分自身を真摯に見つめて、オレはなぜ、こんなことをこんな風に感じ、考えているんだろうと,自信を疑う目をもつことだ。だが、それを他者に要求するのは、至難の業。

 どうしたもんだろう。

2023年2月7日火曜日

まったく静かな里山

 先週の初山行から、まだ5日しか経っていない。だが明後日は気温が格段に下がる。今日は最高気温が14℃という。しかも「雨」は夜の話。となると行かざるべからず。アプローチに時間がかからないのは、関東平野の北、佐野市だが、三毳山はちょっと軽すぎる。先週の日和田山は「お試し」であった。腰痛もあったし、付き添いにも付いて貰った。2時間ほどのコースを4時間かけて歩いた。ようやく、でもあった。しかも帰って翌日、腰痛に悩まされた。腰ベルトをしていても、ストレッチの時間を無事に過ごすことが出来なかった。一番の原因は、気温が冷えたこととみて、今週の山行を考えた。

 もう10年以上も前になるが、寺久保山に挑戦したことがあった。「栃木の山」という本に紹介されていたルート。出流原弁天池に車を置いて歩き始め、医王寺から直登するルートが紹介されていた。だが医王寺の辺りでルートを見失い、概念図に従って沢沿いを直登した。道なき道を歩き灌木に摑まって木登りをして、ようやく正規ルートに登ったときには、もうヘトヘトであった。廃道になっていたのだろうか。

 今日は、その「栃木の山」の寺久保山ルートでは「サブルート」とされている雷電神社からのコースをたどることにした。ほぼ、稜線上を歩く。出流原弁天池に車を置き、歩き始める。9時38分。雷電神社の手前でちょっと上る道があり、広い駐車場にもなる広場がある。その一角に「寺久保山登山口」の古びた標識がある。

 登りはじめる。10時5分。しっかり踏まれた、しかし急な灌木の斜面がつづく。曇りのはずなのに日差しがある。沢を登ったときの四苦八苦を思うと、まるで天国のハイキング。医王寺のある東の谷は鬱蒼とした森に覆われて視野は閉ざされている。だが西側の、これから歩く稜線にぐるりを取り囲まれた盆地は、ビッシリとソーラーパネルが張り巡らされて、景観も何もあったもんじゃない。最近評判が悪いメガソーラーって,こういうのを言うのだろうか。無粋も無粋。結局今日一日、無粋を見ながら歩くことになった。

 初山行の時のような腰の不安定さは感じない。汗も掻かない。サブルートは御正道のようにしっかりとしていた。コースタイム1時間10分のところ、57分。まずまずのペース。十何年前にあった山頂の分岐表示は影も形もなかった。代わって、山頂を示す柱が立っている。古い標識もポツンと朽ちつつある。

 稜線をぐるりと回るルートへ進む。40m下がって30m上るようなアップダウンを何度か繰り返し、一箇所岩場もどきがあったが、難なく超えた。今回ルートの中間点、三叉路に11時39分に付く。これもほぼコースタイム。

 昼食にする。味噌汁を入れ、弁当を開く。カミサンがいつも探鳥や植物観察でもっているのと同じ。タケノコや煮豆、高野豆腐と椎茸の煮物、ブロッコリーとミニトマトが入っている。シジミの味噌汁が美味しい。後でコーヒーを淹れ、30分を過ごす。ヒガラが二羽ヒーヒーと鳴きながら飛び交っている。それよりも少し大きい小鳥が飛んでいったが、何かわからない。

 12時9分、出発。南の塩坂峠へ向かう。大きく下り、少し上る。25分というピークに、20分で着く。まったく急いでいるわけじゃないが、歩くだけの楽しみだから仕方がない。ということは、私にそれだけの元気が戻ってきたということか。ピークに「朝日山」と名称が記された木札が吊されている。

 そうか、今季十両で優勝した朝日山と同じだ。幕内に戻ってきたら、またこの山にでも来てやろうか。朝日山はご贔屓筋のひいきの引き倒しにあって、三段目まで転落した。気の毒と言えば気の毒、不用意と言えば不用意だったが、そんなことは親方が止めてやるものだ。相撲協会も杓子定規にコトを運ぶより、人情相撲ってのもあることを思い出させるような処分をしなさいよと、岡目八目の私は思っていた。

 塩坂峠はやはりコースタイムより少し早く着いた。ここから足利の方へ向かう道と分け、北関東道の塩坂トンネルの上を巻いて、「出流原弁天池→」の方へ降る。道は広くなっているが、落ち葉が積もり、石があったり滑りやすかったりと、足の置き場に戸惑う。

 と、年配のご夫婦がお昼を摂っている。まさにこの落ち葉の片付けをしているのだそうだ。掻き集め、まとめてどこかへもっていくのだろうか。挨拶すると、いろいろとこの辺りの山の話しをしてくれた。私はソーラーパネルのことを訊ねる。稜線から見ると、元は畑であったか、緩やかな斜面に日差しを受けた土地がみえる。水の便さえ良ければ棚田にもなったろうにと思った。ご夫婦の説明だと、ゴルフ場だったそうだ。何でも日本で有数のゴルフ場経営会社の持ち物だったそうだが、台風でコースの一角が土砂崩れして使えなくなり、修復するよりもと、ソーラーパネルを張り巡らしたのだそうだ。う~ん、良いかどうか。無粋だと,相かわらず思う。寺久保山の周辺にも、まだオモシロイ山はあると紹介してくれた。十年以上前の医王寺からの廃道は、今は新規に上る道が作られているとも話してくれた。興味はあるが、無粋を目にして歩くのはいやだなあ。3月下旬にはヤシオツツジが、4月中頃からはツツジがきれい、是非見においで下さいとお誘いを受けた。足利市はハイキングルートの整備に年額60万円ほどを出しているという。それに引き換え佐野市の方は、まったく手当がないと(うれしそうに)ぼやいていた。

 熊野神社脇に降り立ち、自動車道を歩いて出流原弁天池の駐車場に戻った。14時9分着。歩き始めから4時間半。腰痛はまったく心配なかった。

2023年2月6日月曜日

ヒトの暮らしという入会地

 コロナ禍は、ヒトの世界には国境がなく、ひとつであることを実感させました。しかし人の知恵はそれに追いつかず、国民国家的な枠組みに固執し、チャイナ・ウイルスだの、アメリカの陰謀などと非難の応酬をするとか、先行的な台湾の施策を(国民国家的な枠組みに囚われて)封じ込めて排除するという姿をさらけ出しました。WWⅡの結果を結晶化した国連保健機関の国際体制はあったのに、それも政治的対立に巻き込まれて、お粗末な展開を見せています。

 台湾の取り組みは、ちょっとオモシロイ問題提起をしています。なぜ台湾が、感染症に対して敏速に対応できたのか。

(1)コロナ以前の感染症、SARS(2002年頃~)、MERS(2012年)に際して、中国によって(国際関係の防疫体制から)閉め出されていた台湾は、自ら防疫体制をつくるための研究に重点を置いていた。それが幸いして、COVID-19が世界に蔓延するより前にその危険性に気づきWHOに通告するとともに防疫体制を敷いた。

(2)島国であること、国の規模がコンパクトであることが、幸いしている。

(3)ITのネットワークが確立している。それを駆使するにたる製造業とソフトパワーがある。

(4)政府への信頼が(大陸との緊張が継続していることもあって)あった。

 日本との対比になるが、要は精神的にも文化的にも、(国際関係すら)独立性をきっちりと保っていることが、上記四点からも推察できる。むろんそれが政治的安定として、どれほど定着しているかは、その後の台湾情勢を見ていると流動的だとみえてくる。

 ウクライナの状況を見て、台湾の人たちがどれほど自国の行く末を懸念しているかわからない。だが私の身に感じられる危惧は、台湾がただ単なる「自律的経済圏」の浮沈というモンダイではないということである。現在中国の統治体制が強権的独裁であることもあって、台湾の自律性が脅かされることは、日本という国の独立性にかかわるだけでなく、日本列島に暮らす私たちの暮らしの自律性にも深く関わって脅威であるということだ。つまり台湾の浮沈は、国民国家の独立性の問題というよりも、ヒトの暮らしの自律性を脅かす(普遍的な)モンダイになったと言える。

 そう考えると、台湾がCOVID-19発生以降に取ってきた外交的な振る舞いは、まったく置かれている状況は異なるといえども、日本国家の参照点として、重要になる。軍事装備の(アメリカからの購入・援助)もさることながら、基本的に自律的に中国には敵しえない「自律的小国」が、どのようにして巨大な軍事的脅威から防衛を果たそうとするのか。そのために隣国であり、かつ社会的体制が似通った日本が、どのように援護できるのか。ただ単に、軍事的な対決構図だけで応戦体制を整えるというのではなく、知恵を振り絞って軍事力の発動を差し止める外交的な関わりの力を総動員する地点に来ていると思う。

 今メディアを通じて喧伝されている「台湾モンダイ」をめぐる日本政府の対応は、ほとんど軍事的な事態が発生したときにどうするかに限定されている。「状況適応的」と日本人の気質を分析する知見が過去に流行ったが、今のような状況になると、視野が狭窄されたようになって、目下の緊張的推移しか目に入らなくなる特性を、私たちはもっている。太平洋戦争直前の状況がそうであったことを、猪瀬直樹「昭和16年夏の敗戦」が明らかにしている。半年はもつがそれ以上は敗北するという結論を、開戦前、昭和16年夏のシミュレーションで得ていながら、半年経って仲裁講和が入ることを期待していたり、戦争というのは(戦力だけではない)戦ってみなければわからないと、成り行きに期待した。そういう悪いクセをもっている。それをこそ教訓化して、国際関係が今のような状況になったとき、軍事的な対応関係でないところで、どれほどの力を使えるのか、思案の為所に立っている。

 つまり今こそ意識的に視野を広く取って、(国民国家という枠組みに縛られるとはいえ)国際関係の力比べを見て取る必要があるように思う。武力ばかりではない。戦闘に於ける戦略戦術ばかりでもない。国民国家的な枠組みさえ取っ払って、文化的な関わりや経済的なモノ・カネの交通、なによりヒトの往来と交流の堆積がどうであったかをつぶさに拾って、活かしていかねばならない。

 政府の「外交」もさることながら、必ずしもそれが主要道というわけではない。ひと度グローバリズムを体験してきた、文化と民間往来の蓄積がある。文化的な交流はナショナリティで二分するワケにはいかない。動態的平衡と生物学者なら名付けるだろうが、文化往来の絡みは双方の間(あわい)として独特の色合いを帯びて揺蕩っている。言葉を換えれば、入会地のような、ナショナリティを取り払って生活者として交流する特性を有している。台湾の人々の日本人に対する好感・好意が、大陸からやってきた国民党中国人の圧政に対する批判精神に由来するとはいえ、基本的に暮らしに起点を据えてヒトの有り様をみてとっていることが根柢にある。それを勘案すれば、ヒトの基本的な存在の感触が、ナショナリティを超えることを示していると読み替えることが出来る。

 COVID-19は、ヒトの暮らし次元に降りかかった大自然の脅威である。しかしそれへの対応は、今の世界が国民国家のナショナリティで分け隔てられている、その作法に遵って対応する閉鎖性を体現した。逆にそれによって、専門家による国際共同の取り組みはリモートでの研究と情報交換と共同開発によって世界がしっかりと手を結びあっていることも明らかにした。ヒトの暮らしは、ナショナリティに囚われた籠の鳥である。それによって大きく分断されていることも露わになった。

 COVID-19に対する優れた台湾の取り組みが、「中国」という政治的締め付けによって排除されたことは、現代世界が何によって疎外されているかを如実に示してみせた。あるいはまた、世界の最強国アメリカのトップがトランプというトンデモ大統領だった所為で、ナショナリティという怪物がますます威勢を得ることになって、大自然の脅威と真っ直ぐ向き合うことを阻んでしまった。ああ、ヒトの社会って、選挙という人民の目先の人気取りのために、意図的に敵をつくりだし、フェイクだファクトチェックだと何と愚かしい次元で(未だに)遣り取りしてるんだろう。

 ヒトの暮らしという基本点を押さえて、余計な装飾を剥ぎ取り、囚われた心を解き放って、もう一度最初から組み立て直すには、どうしたものだろうか。そういうモンダイを考えてみたい。

2023年2月5日日曜日

大きな脅威が小さい恐れを忘れさせる

  1年前、《TVではもう、「エンデミックはいつか」と遣り取りしている》とコロナウイルス感染のことを記している。エンデミックは「終息」という意味ではない。《endemic desease は風土病。つまりインフルエンザと同じ、普通の感染症というな扱いになることを指している》。だが実際には、去年の2月末に感染のピークがやってきた。さらに去年の9~10月に第七波のピークが来ている。そして今、第八波の到来かと思っていたら、(相対的には)緩やかに減少している。政府は全量把握を諦めてしまったらしい。まさかそれを正当化するためではあるまいが、5月の連休明けにはコロナの感染症をインフルエンザと同じ扱いに「格下げ」すると発表した。

 ま、もうとっくに政府は私たちを見限っている、対称的に私たちも政府の発表を当てにしていない。そういうこともあって、今の政府が何をしてくれるかに関心はない。ただ、依然として自助によるしかない。となると、庶民が自主的に判断できるだけのデータは出してよねと願っている。

 1年前の私は「交錯するオミクロン情報」で、《まるで戦場になりそうな幕末の京都や江戸の民の困惑と同じなのかも知れない》と比喩的に置かれている立場を解釈していた。その半月後に、比喩的どころか、文字通り第三次世界大戦に突入かと思うような、ロシアのウクライナ攻撃が始まった。

 コロナ禍を見る目、《力のある人たちには、たぶん、こちとらのことは眼中にないから、勝手に自分で見極めなければならない》と高をくくっているわけには行かなくなった。

 ウクライネへの攻撃は「こちとらのことは眼中にない」どころか、庶民の日常を破壊して戦意を挫き、インフラを攻撃して戦力を削ぎ落とす,明らかな攻撃目標になっている。自助もへったくれもない。ウクライナという国家に閉じ込められた庶民として、絶対的関係の元に、ロシアを向き合わねばならなくなった。

 私たちは日本にいて、ウクライナの人々のことは対岸の火事とみているが、ロシアと国境を接している、ロシアに力を貸している北朝鮮や中国と間近に向き合っている。しかも台湾という、因縁浅からぬ独立生活圏と境を閲して、対岸の火事どころか、火の粉が飛んでくるのは避けられない地政学的位置にいる。コロナウイルスという自然の脅威よりも差し迫った隣国の脅威をひしひしと感じている。それもあって、オミクロン株の感染拡大のことは後景に退いた。身に感じる軽い痛みもより大きな痛みがおそえば、忘れられるという俚諺のごとしだ。ま、ウクライナはまだ遠い。対岸の火事だから,コロナウイルスを忘れたわけではないが、「隣は何をする人ぞ」と、いつも注意を傾けて警戒していなければならない事態の方が重く感じられて、コロナ禍はendemic deseaseになっている。

 ウクライナの人々に比べれば、オミクロン株の感染なんて、インフルエンザみたいなものだ、と。重症化する人の数や死亡者数はまったく減っていないが、高齢者が亡くなる分には順当というか、自然の摂理って感じもあってか、自分に直接かかわる人以外の死亡に切迫感はない。ただならぬ緊張の末期高齢者である私たちだけが、自助自重を肝に銘じて、ひたすら籠もるように暮らしているわけである。

《スリリングを意識的に味わえるという意味では、今の方が分がある。そう思って、何処に感染の境界線があるか、リミットの壁の上を歩いている》

 と居直るように高齢者であることを(赤ん坊に比して)「分がある」などと威張っていた。なんじゃい、それは、と1年後のワタシは思っている。その傍らで日々報道されるウクライナの戦争に触発されて、ワタシのもつ世界認識が改められいる。でもそれは、また明日に。

2023年2月4日土曜日

お話になる「お題」を探る

 このブログ(2023-01-26)の記事「私たちの終活」に記した「日本は未来だった、しかし今では過去にとらわれている/BBC東京特派員が振り返る BBC News -01/22/ルーパート・ウィングフィールド=ヘイズ、BBC東京特派員」を、3月seminarの「お題」にしようと考えた。seminarの常連にそれを送って、いろいろな意見を3月まで取り交わし、その延長上に「お題」を設定する。そうすると、ちょっとはseminarで取り交わす言葉の質も上がって、面白くなるんじゃないかと思ったわけ。

 次の二通が、返ってきた。

【返信1】keiさん

 BBC東京特派員のヘイズ氏のBBCニュースを次回セミナーの「お題」にすることに大賛成です。このように読みやすく面白い記事をどこから探し出したのか、そこにも関心があります(笑)。/この短い記事は、自分の30年は歴史の中で、どう位置づけられるのか、これからの30年間で日本は世界はどう変わるのかを考えさせられる記事でした。読みやすいいい文章ですね。/みなさまの感想はどうなのでしょうね。

【返信2】トキくん

 添付を読み始めましたが、冒頭の一文を読んだだけでこの馬鹿特派員はなにもわかっちゃいねぇと思いながら読みおえました。/税務上の償却で評価が下がるのは当たり前。それと資産価値は別物。日本は中古物件の市場が成熟していないけど売ればゼロにはならない。もちろん山の中の一軒家を買う人がいなければ価値はゼロかもしれないが、それは需要とのからみで価値が形成させるだけ。/我が国のことは我々が解決する。お前はお前の国のことを案ぜよ、が結論。/ストライキで市民が迷惑、王室はガタガタ、貧富の差は我が国どころではない。/いつも思うが所得を単純に比較するのは間違い。収支を比較して論ずべき。家計に占めるエンゲル係数とか、光熱費の比率とか、教育費の割合とか。というわけで、読み終えてあほくささが残るだけでした。

***

 う~ん、これをどう料理しようか。どう調理したら「お題」になるか。思案している。

 keiさんの返信は、いつもメンドクサイ文章を提供している私への皮肉も加わっている。東京特派員という視線ではあるが、1993年から30年間の時代を私たちと共有しているヘイズ記者の(日本人の不思議という)指摘を、我がこととしてとらえようと言う私の提案に同調している。

 ところがトキくんは、(日本人の不思議を問う)ヘイズ記者に言葉を送った「ある高名な学者」の指摘する「名家」を象徴している。

《(明治維新によっても、1945年の二度目の大転換に際しても)日本の「名家」はそのまま残った。圧倒的に男性中心のこの国の支配層は、日本は特別だという確信とナショナリズムに彩られている》

 ここでいう「名家」とは、自己の存在に対する絶大な自信だ。その自信の根拠が「日本は特別だという確信とナショナリズム」というワケだ。keiさんもトキくんも、地方の工業都市にある私の中学の同窓生である。トキくんはたぶん、大企業の名を冠した鉱工業のエライさんとして転勤してきた親父の息子であった。そういう意味では「名家」に身を置いていた。高校生になるときに東京へ移り住み、トキくん自身、東大法学部を卒業して、やはり財閥のひとつを継ぐ商社に身を置いて世界を舞台に仕事をしてきたから、「名家」の誇りと自信を身の裡にもって生きてきたのは間違いないだろう。

 でもねえ、トキくんのペースで読むと、お題どころか、seminarのお話にならない。ちょっとここで、ヘイズ記者の文章の要点を記しておこう。

(1)1993年にヘイズさんが着任した頃「日本は未来だった」。

 そうみえた理由は、①豊かで裕福。平均寿命が世界最長、殺人事件の発生率は世界最低。政治的対立は少なく、パスポートは強力、世界最高の高速鉄道網をもつ。②大都市・東京が見事なほど清潔できちんとしている。③独自文化,ソフトパワーは素晴らしい。④自然が豊かで美しい。

(2)日本は過去にとらわれている。

 その理由。⑤もう何十年も経済の低迷に苦しんでいる。⑥人口の少子高齢化が進んでいる。⑦過去への頑なな執着が、変化を拒んでいる。⑧外部(外国人)への恐れ。

 ⑤に関してヘイズさんは、1993年に比していま格段に収入が落ちていることに触れている。これがトキくんには,カチンときたのかな。フローばかり見てないで、ストックを見ろよ、と「馬鹿特派員」呼ばわりをした。たしかに今、私たち年寄り世代がそれほど困った顔をしていないのは、バブルの遺産を食い潰しているからだ。つまりストックが、今の裕福を支えている。

 ヘイズさんは、バブル後に世界を襲ったグローバリズムという名のアメリカン・スタンダードの隆盛に、日本の産業構造の転換が追いついていかなかったことを感じているのであろう。この経済的な停滞がなぜ起こったのか。欧米の先進国は、しかし、それでもGDPを伸ばし,低成長とは言えそれなりの成長を着々と遂げてきた。その間に、中進国と言われていたBIRICSが追いつき追い越す勢いで成長を遂げ、一人あたりの国民所得で日本は韓国にも追い越されるようになった。どうして日本は、かくも低迷しているのか。これをひとつ、seminarの「お題」にしても良いかもしれない。

 その経済的な衰退にひとつの回答を与えているかにみえるのが、少子化と人口減少である。これには、日本の社会保障というシステムが、長期的に見ると明らかにみえていた時代の変化に対応しようとして来なかったことを示している。むろん社会的な産業と消費の高度化が進むのに少子化が伴うことは、ヨーロッパのケースで先行例がある。世界的な長寿国である日本であるから、年寄りが増え、相対的に少子化となることはみえていた。にもかかわらず、絶対的少子化と人口減少になったのは、なぜか。家族や社会保障のとらえ方が旧弊に過ぎたと一般的にいっても仕方がない。もう少し子細に分け入って、このモンダイを「お題」にしても良いかもしれない。

 人口減少を埋め合わせるのに、外国からの移民を受け容れる必要があると政府が問題提起したのは2000年であった。毎年60万人、一〇年間で600万人の移民受け入れを提言した答申を小渕内閣が発表した。しかしそれは、ほとんど紙切れ同然に扱われた。なぜそうなったのか。「我が国のことは我々が解決する。お前はお前の国のことを案ぜよ、が結論」というトキくんの放った罵声は、外国人に対する忌避感も、頑ななナショナリズムも見事に象徴している。なぜこういう罵声を浴びせるようになるのか。これも、「お題」になる。

 ヘイズさんが見立てる「絵はがきにしたいような」ふるさとの自然は、都会に住む私たち高齢者にとっても、美しく懐かしい。身に響く郷愁を誘い、なることならそのような自然のなかに身を置きたいと思う。だが、遠くにありて想うものという謂れの通り、そこへ移り住むことは至難の業である。だがヘイズさんが惜しむように、私たちにとっても惜しむ心持ちがありながら、なぜ、それが至難の業なのか。これも「お題」にして考えてもオモシロイとワタシは思う。

2023年2月3日金曜日

初山行

 これまで通りの(少しきつい)運動をするようにして・・・という医師のすすめに,大喜びで山へ行った。日和田山。日高の町の西端にある「奥武蔵の山」。最初、岩登りのゲレンデとして知り、後にあるいて奥武蔵縦走をしたこともある。400m足らずの山。体調チェックの軽い運動には適当と思い選んだ。カミサンにも付き添って貰う。

 ゆっくりと、8時半過ぎに家を出る。外環と関越を走り、圏央鶴ヶ島ICで降りてnaviに従って走る。巾着田のすぐ近くだ。地元農家の駐車場に止め、10時には歩き始めた。

 何組かの人たちが後から来て、先へ進む。皆さん勝手知ったるフィールドって感じ。散歩道なんだね。私はというと、何日か前から腰が不安定。ベルトを締めているとはいえ、落ち着かないから、腰が少し曲がったまんま、こわごわと登る。すぐにルートが「男坂」「女坂」と分かれる。上りに男坂、下りに女坂かなと言って道を分ける。男坂の所で、「←見晴台」「男坂↑」とさらに分かれる。見晴台に立ち寄ってから登ろうと,そちらへ向かう。後回しにするとメンドクサクなって通り過ぎてしまう。見晴台からは日高の町がよく見える。ここが関東平野から秩父山地が起ち上がる端境地だとわかる。

 男坂との分岐へ戻ると思っていたら、見晴台からの上り道もある。そちらへすすむ。間もなく男坂と合流し、目の前の大岩を中年の男性がクサリを使って登っている。その手前を上る踏み跡もあり、そちらへ回り込む。すぐに二の鳥居に出た。

 振り返ると、見晴台よりさらに広い範囲がみえる。西武ドームの屋根が光っている。新宿のビル群、さいたま新都心の林立ビルが際立つ。遠方は霞か雲か、ぼやけている。富士山がみえる。丹沢大山の特徴的な三角の形が東に少し離れて鎮座している。海から見るとこの特徴がランドマークになっていると船乗りの話を聞いたことがある。

 日和田山山頂は,そう遠くないところにあった。二の鳥居と違って北東方面が開けていて、平野にポツンと筑波山がかすんだ姿を浮かんでいるようだ。風が強い。先客が、ベンチを明けてくれようとしている。「いえ、座りませんから」と断ると、傍らの別のベンチに座っていた女性が「強いんですね」と口にする。う~んそういうことじゃないんだが、ま、いいか。

 ここじゃお昼は食べられないねと,風の強さを嫌って、カミサン。

 まだ、11時だよ、先へ行こう。    

 えっこの先へ行くんですか?(と、先ほどの女性が)

 物見山まで行ってきます。

 ホントに強いんだ。わたしはここまで(と、聞いてもいないのに応える)。

 日和田山から物見山への往復は、ほぼ地元のK夫妻にとっては散歩道だ。2時間ほどで歩いている。ご亭主のリョウイチさんは2時間20分かかると体調が落ちているとみている。いつもの日帰り山行なら私は5,6時間ほどを歩いていたから、往復2時間を「強い」と言われると笑うしかない。でも今が、そうなんだよね。リハビリ登山だ。

 高指山は測候所か何かの施設なのだろうかコンクリートの無愛想な建物があり、金網で囲まれた庭に名を刻んだ柱が立っている無粋な山頂であった。ただその下に広い芝地がありベンチが据えられている。山頂部の台地に風も遮られて日差しが暖かい。お昼にちょうど良い。25分掛けてお昼を済ませ、物見山への稜線を歩く。出発してすでに2時間経っている。

 物見山の標識とベンチがある地点に着く。地理院地図の山頂は,さらに東100mほどにあるので、そちらへ行ってみる。樹林のなか、三角点があった。山頂標識は、ない。前にも一度ここに来た覚えがあるが、はて山頂標識が移ったのか、前々から現在地だったのかわからない。今の地点は南方面が開けている。カミサンはここが渡りの鷹の観察地点だという。だがそれにしては見晴らしが利かない。それより少し南へ戻った地点の方に南西方面が大きく開けた草地がある。そこには「私有地ですので、立ち入らないで下さい」と看板が設けてある。ということは、ここに鷹の渡りを見る人が押し寄せるってことか。

 帰り路は山頂を経ずにトラバースする道をたどる。歩いているうちに腰が往路よりも伸びているように感じる。やはりパソコン前に座って過ごすのが、一番悪いのかもしれない。二の鳥居からの眺めは午前中より悪くなっている。女坂は緩やかな下り。急なところには階段が設えられていて、快適に進む。駐車場着14時。概ね4時間の行程。

 車の帰路も混むことなく順調に還った。車の速度、110km/hがこんなに早く感じるとは思わなかった。これってひょっとしたら、高齢化に伴う身の衰えと相関して、感じ方が変わってきているのかもしれないと思った。

 そうだ、もう一つ記しておこう。風呂を上がってタニタの体重計に乗った。体内年齢は前日と変わらず「65歳」だったが、足腰年齢が「70歳」になった。昨年の誕生日に「75歳」となり、なんだ5年ごとに計測値が上がるのかと思ったのだったが、そこから若返った。計測数値が境界値にあって、ほんの少しの変化で行き来しているのかもしれない。となると、山歩きは,やはりつづけなくちゃあならない。そう思った。

2023年2月2日木曜日

私が知らないワタシ

 1年前(2022-02-01)の記事「2月になった」をみて、そうだ、2月になったと思った。ヘンなの。去年はコハクチョウの群れの一羽が首をもたげているのをみて「奴雁」という言葉を思い出し、庶民大衆に先駆けて警世の声を上げる知識人に触れた。若い頃は自分もその一人と思っていたし、それを矜持に本も読み、即物的な欲望・欲求ではなくモノゴトをより根源から考え,振る舞うことをより高貴なこととみていた。

 だが今は、どちらが気高いかわからない。どちらもわが身の感覚器官を通し、体験の肌身を通過させて、受けとるようにしているから、一概に決めつけるわけにはいかない。よほどの非道な振る舞いも、その人なりのワケがあってそうするほかなかったのだろうと受け止めて,考えるようになった。これって、「共感性が高い」というのだろうか。別にそのように振る舞う意図はないのだが、基本的にヒトの為すことはたいてい、我がことの身の裡に連なっていると思えるようになった。これは感官器官の情報集約の年の功と謂うべきか、耄(ほう)けはじめたと謂うべきか。

「……実はのほほんと運を天に任せて、なるようになる、なるようにしかならないと思って日々を過ごしているというワケ」

 と達観したようなことを口にしている。でも、「なるようになる、なるようにしかならない」という地点に、ようやく、流れ着くように着きましたよと言いたいのである。

 何かを発見し、悟りを開いてそう考えるようになったというのではない。懸命な思索の果てにそういう結論に達したというのでは、さらさら、ない。心身一如を心し、違和感をもったことを一つひとつ拾って、何だコレは? と思案する自問自答を繰り返し、積み重ねる。

 基本的にヒトを非難しない。非難したくなったら、オレは何を根拠にそのヒトに悪罵を投げつけようとしているのかと,まずわが身に問う。そうすると、たいていの非難は、わが身の感覚や感性、イメージや思いと齟齬を来していることに起因している。ではなぜオレは、コレに価値づけているのかと,自問は連なって続いてくる。そうやって思っていると、当初の非難の言葉は薄らぎ、どっちでも良くなり、忘れてしまう。あるいは、たぶんヤツはカクカクシカジカのレベルに彷徨っているから,あのような非道なことを口にして平然としているのだと、ワタシなりの「自然(じねん)」を繰り出して理解してしまう。そうすると、ひとつわがセカイが膨らみをもち、さらにその向こうにワカラナイ世界がちょっぴり顔を出す。ふ~ん、そうかと思う。かくしてきっかけになった憤懣はどうでも良くなって消えてしまう。

 ワタシがちゃらんぽらんだからだろうか。それとも、その先をきちんと詰めないのは、モノゴトを我がこととして考えていないからだろうか。そんな風に思うこともある。でもこの歳になって、我がこととして考えていないと言われても、どう応対して良いかワカラナイ。わたしの感性や感覚、思いをくぐらせて吐き出されている数々の言葉は、いまさら否定されても、いえそれは間違いなくワタシのものですというほかない。

 もちろんワタシは普遍的なことなど、これっぽっちも口にしていない。自慢じゃないが、普遍的なことなど、思考の俎上に上がった途端に胸中から揮発してしまっている。まさしく,いま、ココのこの事実がセカイのすべてとしての重みを持って現れている。それは真実じゃないよ、フェイクだよって言う方がいれば、どうしてそういうのかを聞いてみたい。そのワタシの実感するシンジツを、フェイクだという方の乗っかっている根拠が何であるか、聞き質した上で、なるほど、と私が知らないワタシを発見するかもしれない。それは、たぶん、この上なく昂奮する,刺激的な発見になるだろう。

2023年2月1日水曜日

原点に立ち返るというテツガク的視線

 コロナは「三密」にご用心というのは、都会地に人が密集することへの天の警鐘であった。為政者は決してそれを口にしないが、庶民はそう感じ、それに対処している。地方への移住が増えている。リモートで仕事が出来るというデジタル化を伴った働き方の変容も力になっているそうだ。

 地方の方はというと、子どもが都会へ出て暮らしはじめることもあって、人口減少というだけでなく限界集落を経て、廃村のようになっていっているから、移住は大歓迎のはず。通常ならそう思うが、30年日本に在住したBBC特派員は「外国人も、この土地に馴染んで貰わないと困る」という老人たちの発言に戸惑いを隠せない。どうしてなのか。

 私は、カミサンの実家が高知県の山奥、四国山脈を挟んで愛媛県と境を接する標高800m、結婚した頃は「四国のチベット」と自嘲するような呼び方をするほどの辺境にあったから、限界集落の現実的進行を盆暮れの帰省とは言え、目にしてきた。

 それが今まで持ちこたえてきたのには、日本経済の高度成長と列島改造と高度消費社会への突入とその破綻という、私たちが人生で歩んできた社会の変貌と軌を一にする歩みがあったからである。カミサンの実家、高知県の檮原町の半世紀をざっと俯瞰してみると、1970年頃は約7000人だった人口は年々着実に減少し、今(2020年)は半減、3400人弱になっている。老齢人口と生産年齢人口を比べると1:0.9。支える人口の方が少ない。

 しかしこの間、交通アクセスは変わった。半世紀前には(高知駅から40分ほどの)最寄りの国鉄駅から檮原町の中心部まで、幾つもの峠を越えてバスで4時間かかった。そこからバスを乗り換えてさらに1時間、バス停から山道を歩いて30分というのが、初めて訪ねていったときの行程であった。それが今は最寄り駅から1時間である。トンネルを掘り、二車線の道路が中心部まで延びている。町の中心部から実家までも、半分ほどの時間で辿り着く。

 町の中心部は、隈研吾の建築した町の庁舎、図書館、道の駅、宿泊施設などなどで名が知られ、その一角だけは電柱も取り払われ整備されている。東京オリンピックに向けた国立競技場の建て替えで建築家の名を知られたこともあって、外からも多くの人が訪ねてくるという。これは、檮原産の木をふんだんに使った隈研吾の建築開眼の地と記されている。それら建築の一部は、すでに改築にまで話が進んでいるほどの年期を重ねている。その庁舎の前に建つ木造の歌舞伎場は,古くからの伝統芸能・檮原歌舞伎のために今も保持されてきている。僅かな財源から少しずつ捻り出して、半世紀を経てここまでやってきたとご苦労を感じさせる佇まいである。また、図書館の書架の並びは、驚くほどの目利きを感じさせる。何だこれだけの本があるなら、毎年夏を過ごす半年だけでもここに避暑にきて本を読んで過ごしても良いなあと思わせるほど、魅力的であった。

 TVの番組でも、活性化を取り戻そうという地方のいろいろな試みが紹介されている。住む人のいなくなった古民家を改築して、安く提供する。休耕地を借り上げて農業に就業する人たちを応援するネットワークをつくる。子育てを支援する事業を興し、若い人たちの移住を促進する。それらを支援する補助金を最大限活用して、財源を手繰り寄せる。映像で伝えられるのは、日常的なご苦労を省いたものも多いから、漫然とみていると、ユメのような新天地に思われるかもしれないが、そうはなかなかうまくいかない。

 だから他方で、地方へ移住してみたものの、農業や林業をうまくこなすことが出来ない、あるいは現地の人たちとうまくやっていけないという理由で、挫折する人たちも4割ほどいると報道されている。

 地方に暮らすというのは、ヒトの原点に戻って暮らしを立て直してみようという試みである。単なる転職ではない。どうして原点に? と言うか。移住には、子育ての環境や仕方も、食べていくのにも、dが移植する、出来合いのものを食すというのと違って、自前で育て調達し、調理するという変化も加わる。働くということも、サラリーマンではなく、何から何まで自分ではじめて、自分で始末をつけることになる。あれもこれも、根源から問い直そうという気分が,実は底流にある。それは現代社会批判とも言える内実を持ち、しかもそれは、自分自身の感覚や感性、思考などへの批判も同時に含み持つものとなる。だから、単に転職というよりは生き方を変える大転換を意味している。その覚悟なしで,ただ単に住む場所を変え、環境を変える程度に考えていると、ヒトとの悶着に出くわして,期待に反して頓挫することになる。

 果たして私たち老人は、そうしたことを若い人たちに伝えるようにしてきただろうか。目前のノウハウだけに関心を寄せ、根源的なヒトの営みを「外注」してきたのではなかったか。

 昨日のこの欄で紹介した映画『イニシェリン島の精霊』で記したような、人が暮らすプロセスには、ハレとケのバランス、平々凡々の日常と爆発するタマシイの発露、同じ所にとどまっていられないヒトのクセが、さまざまなモンダイを呼び起こす。そういうことも、どう対処してきたろうかと巡る。それを避けてはヒトは暮らしていけない。

「自然(じねん)」と「自然(しぜん)」という絶対矛盾を身の裡に抱え込みながら、生きてきた航跡を振り返ってみないことには、「未来」を紡ぐことは出来ない。