BBC東京特派員ヘイズさんは、《…それでも日本は変わりそうにない。原因の一部は、権力のレバーを誰が握るのか決める、硬直化した仕組みにある》と指摘し、《明治維新…(と)1945年の(敗戦という)2度目の大転換が訪れても、日本の「名家」はそのまま残った》と日本社会の「硬直化」の因を探り当てようとしている。
ヘイズさんは「権力のレバー誰が握るのか決める」私たち庶民の心性を探り当てようとしている、と読んだ。そしてそれを私は「日本人の不思議」と名付けた。私にとってもそれは「ワタシの不思議」だからである。ひょんなことで、二つ、心当たりのある根っこの「不思議」に出逢った。
ひとつは、ジョナサン・ローチ『表現の自由を脅かすもの』を孫引きした小谷野敦に触れた8年半ほど前の私の既述。もう一つは、今朝(2023-02-28)の朝日新聞「折々のことば」に記された青木さやか(とそれを引用した鷲田清一)の言葉の持つインスピレーション。まず、その二つを紹介する。
*1 ◇ 愚民社会か選良の条件か(再掲)
…(前略)…小谷野がそのように攻撃的である理由が、同書の中にあった。小谷野は、《「どんな差別表現も反人権的記述も一切自由」だが、「批判を受ける義務がある」》というジョナサン・ローチ『表現の自由を脅かすもの』(角川選書)をまとめた呉智英の言葉を孫引きして、つづけて次のように言っている。
《ローチは、批判し合うことは自ずと傷つけあうことになるが、傷つけあうことのない社会は、知識のない社会だといって、こともあろうに日本の例を挙げている。日本には、公の場で堂々と議論するという伝統がなく、日本では「批判」は「敵意」とみなされるから、人々は相互に批判することを避け、その代償として日本は教育のレベルが高いのに、諸大学は国際的基準からすれば進歩が遅れている、と述べているのだ。》
私は、彼のローチを引用しての記述に賛成である。「人々は相互に批判することを避け」るばかりか、疑義を呈することすら「攻撃」と見て避けようとする。大学という場でのことであるが、学生たちの多くは、教室で発表したことに対して反論や疑問が提出されることを嫌がった。「人間関係を壊す」というのである。小谷野からみると「バカが大学生になった」からというであろう。だが私は、学生のそうした反応自体が、「今どきの若者の関係」を象徴することと思えた。なぜそう受け止めるのか、どうしてそう教室で発言して、怯みがないのか。私などの若いころとまるで違うという感触が、私の疑問の出発点にある。「バカが」と言ってしまうと、そこで思考は停止する。もちろん小谷野には、「バカにかかづらう暇はない」かもしれない。だが、この学生の感性の根っこには、匿名を好み、実名で発言しようとしない(私を含む)日本人の心性があるのではないかと思う。どこかで、宮台のいう〈任せて文句を垂れる社会〉〈空気に縛られる社会〉を担う「日本の人々の気質」につながっているように感じる。
もちろん断るまでもなく私は、大衆(庶民)の一人だ。雑誌やTVや新聞と言ったメディアに登場する「プチ=インテリ」の発言を、ある時は面白いと思い、ある時はまゆつばだと思い、たいていは、へえそうなのかと、ちょっと疑問符をつけつつ受け容れ、機会あればそれを「確認する」ようにしている(でもたいていは、忘れてしまって、そのまんまにすることが多い。それは年のせいだが)。疑問や同意や保留というのは、私自身が内面に抱いている感性や感覚、思考や価値に照らして、ヘンだなという感触をもつかどうかに、かかる。ときには、私は同じように感じているが、そういえば、なぜそう思うか根拠を確かめたことがないと、自分の内面に踏み込むこともある。
どうしてそうするのか。世の中のいろんな人の立ち居振る舞いや言説は、とどのつまり、自分の輪郭を描きとるために行っていると思うからだ。それが、私の「世界」をつかみ取ることであり、私が生れて以来これまでの間に、通り過ぎてきた「人間の文化という環境」から身に着けた感性や感覚や価値や思考を、あらためて対象として摑みだし、一つ一つその根拠を(あるいはそういうふうに身体性をもち来った由来を)自ら確認するためである。それが大衆の自己意識形成のかたちであると、私自身が思っている。…(後略)…(2014-09-06)
*2 ◇ 「折々のことば」2023/02/28
《自分の親を嫌いでなくなることがこんなにも楽なことなのか なぜか 自分の中の元の部分を嫌いではなくなったからでしょうか 青木さやか》
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*1の方は、「愚民社会」というタイトルで出版された二冊の本、宮台真司×大塚英志の共著と小谷野敦の本を読んで、その両著のスタンスの違いを取り上げて、わが身の中の「エリート性」を見分けようとした文章。俗に「知的」と呼ばれているものが、権威を纏って「名家」を為す姿(=小谷野敦)とでも言おうか。対照させてワタシは小谷野の批判する庶民(大衆)の一人であるが、でも色濃く「名家」の雰囲気を身に刻んでいるなあと感じている。
*2の方が、その「感じ」を気づかせてくれる。青木さやかのことばは、ほとんど無意識に刷り込まれて受け継いでいる文化が、意識の表面に表出した瞬間を捉えている。善し悪しは別として私たちは99・9%の無意識の伝承とわずか0・1%にも満たない意識的な伝承を「知的」なこと意識しているが、それすらも無意識に刷り込まれた「権威」として受け継いでいるってことだ。それに添うことを「楽なこと」と感じる感性が、「日本人の不思議」となっているのではないか。
そして、グローバリゼーションが広まる世界に身をおいて私たちは、わが身の身体性と意識される自己との齟齬に揺れ動いている。それが、ガイジンの受け入れを逡巡し、都会者の浸入に警告を発し、ヘイズさんの言う「権力のレバー」の握り手を支えているのではないか。とすると、果たして「(わが身に)楽」な道をたどることがいいのかどうか。楽な道をたどれば「変わらないまま」になる。小谷野敦の背負っている「知的世界」の道をたどれば、これまた「名家」の伝統的権威にこだわってしまう結果になる。
とどのつまり、ジブンの身に染み付いて無意識世界に沈んでいる感性や感覚、選好や思索の根拠を恒につねに繰り返し自問し、その時々の回答を繰り出して歩一歩と進むしかない。
勿論それが何になると問われれば、イヤ何にもならないかもしれない、だがそうやって何万年かやってきて、今ここに立ってるんだよ、と応えるのが精一杯ってことかな。