2023年2月12日日曜日

領導するのは知的エリートか庶民大衆か

 ヘイズさんの「日本人の不思議」につづける。ヒトの暮らしが基本的に群れの中で暮らす形になるのは、致し方のない所。その後近所付き合いが煩わしくなるのは、ヒトとヒトの感性や感覚や価値観や観念の差異がある以上、これまた致し方ない所です。

 だが、その差異を身の裡に感受するときに嫌悪感が湧いてくるのは止めようがないとしても、それをなにがしかの場で口にするのは,また違う次元の層のモンダイになります。思想の自由,表現の自由と一口で言うわけに行かない問題を作り出す。

 ヒトの抱く感覚、感性、その結晶ひとつの形である感情は、外界との接点であるから、誰しもの胸中に湧いてくる。しかしそれが、言葉や身振りなどで表現されたりすると社会的な行為となる。そこで発生するコンフリクトは、自分の責任で始末しなければならない。ヒトの群れが大きくなるにつれて、その社会的発現に衣装が着せられるようになった。それが、儀礼、儀式、行儀、作法でした。

 これが時代の歴史的展開によってカタチを変える。その見て取り方は二通りに分かれます。ひとつは、すっかり変容する、つまり歴史を刻むごとに進歩するという見方。もう一つは、変わるのはカタチであって、本質的なものは堆積して内側に積み重ねられているという見方。後者は、ひょっとすると歴史は(循環的に)繰り返されているんじゃないかという考え方にも通じる。その子細に今は踏み込まない。私は後者がより妥当だと,体感をもっていることだけ表明しておきます。

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 さて、名古屋のオオガくんの【返信4】が行きがかりに引き合いに出した言葉が、幼なじみのトキくんの、こんなリアクションを引き出しました。

 オオガくん《……それ以後も脈々と流れる保守の地下水脈(保阪正康)は枯れることもなく、高齢化と選挙制度、野党の体たらく、はたまた、特に投票率の異常な低さ(選挙制度に問題があると思う)で自民党の支持基盤は揺るぐこともない。同性婚者は気味が悪いと宣う輩の「隣には住みたくない」世界最高の日本人であるためには何を考え、どうするべきか》

 トキくん《LGBT法案には大反対。反対する人はむしろマイノリティ。であれば俺たちも保護しろと言いたい。/昔NYに住んでいるとき、同じ長屋の一画ににホモのカップルが住んでいました。こちらは気持悪かった。生物学てきにみればやはりおかしな取り合わせ。それを言って何が悪い。ないもこんなことでG7の中で日本が異質といわれる筋合いはないと思います》

 この両者がかみ合っていないことは明白です。オオガくんは「どうするべきか」と、気味が悪い発言を「世界最高(知性)」かと揶揄うような次元のこととあしらっています。それに対してトキくんは、瞬発反応して、わが身の裡側をさらけ出しています。今日は、これを取り上げて考えてみます。

 LGBTがどう欧米で取り上げられるようになったかの議論もまた、脇に置きます。ただ話の進行上、私がそれをどう胸中に位置づけているかは表明しておかねば公正でないと感じますので、ひとこと言及します。私はLGBTを「気持ちが悪い」と感じる感性は、理解します。だがそれを表明・表白することは妥当とは考えません。ワタシがそう思う根拠は、生命科学に於ける知見とTVや書籍メディアを通じての「体験」にあります。

(1)生命体は無性生殖から有性生殖へと進化してきた。これは優劣ではなく、DNAの継承がよりうまくいくかどうか(後付けとして)として位置づけられている。

(2)ヒトもまた母胎に誕生して後(外見的には)みな女性として成長し、さらに後に男性が分岐する。性染色体の生長に即した分岐の仕方はもっと初めの頃からであるが。

(3)「√nの法則」(福島伸一)にあるように、たとえば一億人いると,その平方根の一万人は全体の趨勢と逆の動きをする。つまり、性の分岐に於いても必ず一定数の逆向きが発生することを示唆している。

(4)ラジオやTVでおすぎとピーコにせよ美輪明宏にせよ、目にし耳にしてきました。また本を通じて、ギリシャ世界では少年愛が精神的な(純)愛のように扱われています。日本でも衆道とか若道と名付けるGの裏道がまかり通っていたこと、町中の飲み屋街にそうした店があることも知らないわけではありません。

 つまり、自己の性に関して違和感を持つ人がいても可笑しくない。その人たちを忌避したり嗤うのは、社会的な多数派と少数派の関係的発現であると思っています。近代社会というのは、その(感性と社会的発現との)確執を理知的知見に基づいて修正していこうとするモメントをもってきました。西欧発とはいえ、ようやくLGBTがその修正の俎上に上がってきたとみています。トキくんが「LGBTに反対するのは……マイノリティ。であれば俺たちも保護しろ」と毒づいていますが、反対するのは肩身が狭いのでしょうかね。

 私が「身持ち悪い」と感じるは,私の感覚が20世紀のものであり、21世紀の世界からみると修正の必要な感性となっているのかもしれません。トキくんのように、それを率直に表明するのは20世紀センスが21世紀社会にむけた、まさしく「老害」と謂われるものになるのでしょうね。

 まして今回の首相補佐官ケースのように政府の中枢を担うスタッフが、当然のように口にするのはもってのほか。国際関係を視野に入れた政治世界では致し方ないのではないでしょうか。いうまでもなくこれは、政治プロセスのモンダイです。

 それとまったく別個ではありませんが、社会的世界では様相が異なります。LGBTの存在は上記(4)のように近代社会になる前から認知されていました。ヤクザや暴力団同様、裏道として「公認」されていたと謂いましょうか。それが「気持ちが悪い」となったのは、近代社会が変容して、個々人の内面の尊重とその多様性が認められるようになり、裏道も裏社会も排斥され、普通の人々の暮らしとフラットな社会平面が生じたからなのだと思います。ポストモダンと呼ばれたり、それすら昔の話で、スーパーフラットな社会空間とそれを突き破る芸術的方向性まで,広く深く,文字通り多様に展開されています。つまり私たちの日常とはだんだん異なる位置づけが為されなくては治まらない状況が生まれているのでしょうね。

 話を元に戻しましょう。政治世界の問題として言えば、国際政治の理念的な主導勢力としての西欧的常識としては、すでにLGBTは受け容れられているようです。アメリカは分断されて,目下綱引きの最中といえましょうか。むろん西欧だって分断されているのでしょうが、受け容れる社会的勢力が優勢となり、それを引き取って政治的「克服課題」としてきたのだろうと私は受け止めています。何しろ西欧は、知的エリートの主導する階級社会です。科学的・哲学的・芸術的エリートの知見が領導している社会常識の世界。それに対して日本は大衆社会の庶民常識が未だ強く差配する気配が残っていて、その代表が政治家として大手を振って歩いています。その違いが、LGBTとかフェミニズムという最先端のテーマに関して露呈しているのが、昨今の国際政治に於いて日本が「後れを取っている」理由だと思います。

 オオガくんがどうこれにリアクションしてくれるか、楽しみです。

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