2023年2月25日土曜日

不可知の当事者性

 昨日取り上げたように、世間話も鬱憤晴らしも当事者と言えば当事者なのに、それが醸し出すオーラが違ってくるのはなぜだろうという疑問に、既に1年前に出逢っていたことを知った。2022-02-24のこのブログ記事《なぜ「奇蹟」が平凡に響くのか?》で、ベートーベンの第九が第一次大戦時のドイツ人捕虜と徳島県の人たちとの交流を通して人類史的な文化の受け渡しが紡がれ、それを調べていた作家の手を通して百年後のワタシに伝えられ、つくづく自身の存在を「奇蹟」と実感していることを記していた。

 秋月達郎『奇蹟の村の奇蹟の響き』(PHP、2006年)の読後感だが、「文化の伝承が世代を超えて受け継がれていくのは、奇蹟のようなことだ」と意識することが、いま・ここに・こうして存在しているワタシも「奇蹟」と自覚することだ。

 わが身の存在を「奇蹟」と再認識するというのは、人の智慧や才覚、努力や技術によって現在が築き上げられたという次元ではなく、宇宙の誕生から続いてきた「奇蹟」の積み重ねの中に発生した生命体の歴史という長いスパンでワタシを位置づけるとき、ヒトの智慧や才覚や努力や技術よりも、偶然の積み重ねのような幸運に恵まれてワタシが実存していることへの感謝が生まれる。それが「当事者」性のオーラを育み、その世代を超えた伝承が社会の気風を醸し出してくる。

 自然の流れにヒトを置いて眺めると、プーチンの焦りもヘイズさんへの罵声も、何でこんなに小っちゃなことに齷齪しているのかと慨嘆したくなってしまう。しかしこれもヒトのつくりだした文化のもたらしたものと考えると、大自然的視線でみて、ただ小っちゃいと言って無視するわけにはいかない。しかしプーチンの焦りを捨て置くこともできないから、NATOも周辺国も目先の戦闘に対処し、ともかくプーチンが壊そうとしている文化を護ることに智慧を絞っている。それと同様に私たちもヘイズさんへの罵声が排除してしまう文化を、どうやったら良き気風として育てていけるかを「研究」しようと思っている。ベースは人類史的「奇蹟」である。


《もう一歩踏み込んでいえば、日常を身に刻むのに、触覚としての「心」を通さないコトは痕跡を遺さない。つまり、文化的な伝承としては意味を成さない。それどころか、「心」を通さなくても身過ぎ世過ぎができるという文化を、身に刻む結果になる。それって、ゲームの世界じゃない?》


 触覚としての「心」を通すとは、「奇蹟」として関係を動態的に捉えること。言葉を換えて言うと、大自然の流れにワタシを置くこと。ワタシの実存は「奇蹟」であるというのは、ワタシはゴミのようなもの、黴菌・germと、まず自己規定すること。にも拘わらずgermが宇宙を眺め、世界をどうしたらいいかと考えている。こんなことはアリエナイ「奇蹟」。

 こう言い換えたらわかりやすいかもしれない。ゴミとかgermとワタシを見立てるのは、ワタシは何もワカラナイと自己規定すること。それが宇宙を眺め、世界を語るってのは途方もないことをしていると自覚すること。自ずから謙虚にならざるを得ない。これがゴミの意識、黴菌・germの精神。germの原義は萌芽である。大自然に対して謙虚であることによってヒトはとんでもないコトをしていると、恒に常に自省する契機を手放さないでいる。大自然に向かっておっかなびっくり、こわごわと手を出し、あるいは引っ込めてやり直すという一進一退を繰り返してきた。起点はワカラナイと知ること。ワカラナイヒトがいま斯様に存在しているという偶然を「奇蹟」と呼ぶ。人為がもたらした世界のもう一つ次元の深いところでヒトの営みをとらえ返してみると、「合理的」と呼ぶものが如何に不条理に満ちているか、ワカッタつもりになっていることに、どれほどヒトは右往左往しているか、そうしたコトゴトがみえてきて、バッカだなあオレたちはと、素直に思うことができる。

 ゲームの世界は、上記のヒトのありようと全く別だ。何をどう操作すれば何がどうなると知っている。それを阻むいろいろな要因を敵対するものとして排除することが、事態を克服する道となる。敵の出方によって味方がどう苦戦しあるいはどう優位になるかも想定できる。苦境を突破するのは己の実力とそれを十全に発揮する技術だ。むろん敵の戦意を挫くことも視野に入っている。戦いは人智の総力を動員するけれども、敵を壊滅させれば勝利、壊滅させられれば敗北。ルールがはっきりしている。プーチンの勝利の方程式には核の使用をちらつかせることが、敵の攻撃を抑止する圧倒的な手段になっている。だが核の使用は、プーチンに勝利をもたらすものとはならない。ヒトの世界のゲーム・オーバーになる。ゲームの世界はワカッタつもりになって展開されている。ヒトが大自然の流れに身を置く小っちゃな「奇蹟」的存在であることを忘れ、国民国家的な枠組みのルールに則ってチキンゲームをオモシロがっている。ワカラナイという自己既定はどこかに置いてきてしまっている。せいぜいワカラナイのは敵の出方と自分自身の存立の正統性だ。その不安を自ら抜け出すのは、敵を貶め、敵の力の根っこを挫き、そうやって自らがつくりだした敵のイメージを叩き、虚仮にすることによって自らの正統性を創り出すってこと。ヘイトスピーチとフェイクニュースに塗れて、そのうち自身も何が何だかわからなくなってしまう。それがいまのプーチンの現在地ではないか。

 ワタシは今、生命体史の「奇蹟」に包まれて、その幸運に感謝しながら生きている。よくぞ世代を超えて「奇蹟」に恵まれたと実感している。その原点に思いを致し立つことこそ、当事者性が成立する起点。ワカラナイという不可知の当事者性こそが、大自然の中のヒトとして受け継いでいくべきコトではないかと思う。

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