2023年2月9日木曜日

風土とヒトの社会の優劣

 昨日の話(村山由佳の小説『雪のなまえ』)につづける。ご近所のお節介は、ご自分の感性や感覚を押しつけるものと新来者には思われる。よしてくれ、窮屈だ。だがご近所のご当人は、まったくそうは思っていない。

 転校してきた新来者とは言え、元々この地で生まれ育った父とその娘だ。曾祖父母も八十を越えているとはいえ、この土地の人として百姓仕事をしている。縁なき衆生ではない。その小学生が,学校に行けないって、なぜだ? たとえ東京の学校でいじめられていたからといって、こちらでも同じってワケじゃないだろう。ではどうしてだ? 母親が一緒に来てないのが、原因ではないのか。娘がそういう問題を抱えているなら、母親こそ一緒に付いていてやるべきじゃないか。それに父親にしたって、東京から帰ってきて百姓仕事を始めたのは良いが、カフェ何ぞと余計なことに手を出している。百姓仕事を舐めてんじゃないか。押しつけると言うよりも、ひょっとすると親身になって心配しているのかもしれない。そのご近所さんの人生経験に基づく気遣いがある。

 つまり、地元気風の勝手な押しつけだと思う新来者も、自分のことしか眼中にない見立てをしているとも言える。実は地元の人と言っても、それこそ人さまざま。新来者に気遣いする人もいれば、新奇なことに縄張りを荒らされるような気配を感じて、それを脅威と思っているかもしれない。それこそ長年の経験で、用心しいしい向き合い、探り合い、言葉を掛け、手を貸したり疑問を投げかけたり、時に肚が治まらず,酒の手伝いもあって面罵するような羽目に陥ることも、ないわけではない。そこに生まれるドラマは、それこそ、人それぞれの人生の径庭を踏まえて繰り出される、動態的平衡を求める営みである。

 そこに、ヒト個々人の、家族の、親族の、仕事場の、地域社会の、ネットワークにかかわる人たちの,人と場の数だけ絡み合う関係が作用して動いている。そこに生じるモンダイの発生因を、その場に居合わせる当事者がどうとらえるか。動態的関係の然らしむる所ととらえていれば、発生因の片方はワタシにあるという自覚につながる。だが、発生因はモンダイを持ち込んだ新来者にあるとみると、イジメと排除が働いてしまう(かもしれない)。それが、イジメになったり、ヘイトスピーチに向けられたり、「村八分」に至ったり、ガイジン扱いになったりするアクションにつながってトラブルになる。

 その、関係を紡ぐ動態的平衡とは、ヒトとヒトの差異から湧き出すコンフリクトの綱引きであり、優劣や善悪、美醜、聖俗といった価値を争う力関係が、安定点かどうかはわからないが、とりあえず平静を保つ程度に落ち着いている状態を指している。そのコンフリクトの強弱、優劣が働いて、劣・弱側の状態に名付けられたのが「病」であり「罪」であり、不道徳な振る舞いである。つまり社会的な気風の優勢な方が強・優者として,その場に於ける優先的存在権を有し、弱・劣者が新来者として闖入してくる図とも言える。何を病とし、何を罪とするかは、それを論じる場によって異なる。

 そうか、「病、市に出す」と徳島県の(旧)海部町の自殺率の低さを調査した社会学者が,その土地の風土を結論的に評価していたっけか。以前にも紹介したそれは、全国の市町村単位の自殺率を比較した統計をみたところ、(旧)海部町のそれが極端に少ない。なぜだろうと調査をした結果の発表であった。その市町村というのも、平成の大合併以前の小規模の行政区分で明らかになったことで、行政区分が大きくなってしまって,その差異は消滅してしまったそうだ。

 (旧)海部町の気風だって、大坂夏の陣が機縁になって焼けた町を修復する材木を出荷するためにあちこちから人が寄り集まったのが、ことのはじまりだったという。四百年の時を積み重ねている。グローバル化が進んだと言っても、まだほんの半世紀。島国の風土は、そう簡単に標準に染まらないんだね。とは言え、大都会東京も戦後の80年足らずで大変貌を遂げた。我関せず焉とばかりに,隣を知らずに過ごすことが出来るのも、僅かの時が生み出したもの。失望するのはまだ早いってことだろう。

 COVID-19の襲来は、そういう意味では、全世界的にヒトの暮らしを問い直すきっかけでもあった。そのとき、岡山県の地方都市にCOVID-19を持ち込んだと非難を受け,引っ越しせざるを得なかった大学卒業生とその家族は、まったく犯罪者のようにみなされ脅威として排除されたケースである。動態的平衡もへったくれもない。圧倒的な優勢者社会が、身を護ろうとして共同体封鎖をしたようなものであった。今、振り返ってみると、COVID-19に対する恐怖とウイルスとともに生きていくしかないヒトの生命存在に対する無知とが、いわば瞬間反応してしまったと言えようか。

 ということは、病む側が表白するだけでなく、聴く側もそれを受け止める気遣いの気風が求められる。そういう互いの気遣いが相乗して,その土地の気風が生み出される。和辻哲郎だったか、風土論を展開して、気候条件を含めた環境がその土地に暮らす人々の気風を決めるという展開をした。その環境に、ヒトとヒトの関係の動態的平衡を勘案すれば、BBC東京特派員ヘイズさんの「日本の不思議」も少し解きほぐせようか。

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