2023年2月5日日曜日

大きな脅威が小さい恐れを忘れさせる

  1年前、《TVではもう、「エンデミックはいつか」と遣り取りしている》とコロナウイルス感染のことを記している。エンデミックは「終息」という意味ではない。《endemic desease は風土病。つまりインフルエンザと同じ、普通の感染症というな扱いになることを指している》。だが実際には、去年の2月末に感染のピークがやってきた。さらに去年の9~10月に第七波のピークが来ている。そして今、第八波の到来かと思っていたら、(相対的には)緩やかに減少している。政府は全量把握を諦めてしまったらしい。まさかそれを正当化するためではあるまいが、5月の連休明けにはコロナの感染症をインフルエンザと同じ扱いに「格下げ」すると発表した。

 ま、もうとっくに政府は私たちを見限っている、対称的に私たちも政府の発表を当てにしていない。そういうこともあって、今の政府が何をしてくれるかに関心はない。ただ、依然として自助によるしかない。となると、庶民が自主的に判断できるだけのデータは出してよねと願っている。

 1年前の私は「交錯するオミクロン情報」で、《まるで戦場になりそうな幕末の京都や江戸の民の困惑と同じなのかも知れない》と比喩的に置かれている立場を解釈していた。その半月後に、比喩的どころか、文字通り第三次世界大戦に突入かと思うような、ロシアのウクライナ攻撃が始まった。

 コロナ禍を見る目、《力のある人たちには、たぶん、こちとらのことは眼中にないから、勝手に自分で見極めなければならない》と高をくくっているわけには行かなくなった。

 ウクライネへの攻撃は「こちとらのことは眼中にない」どころか、庶民の日常を破壊して戦意を挫き、インフラを攻撃して戦力を削ぎ落とす,明らかな攻撃目標になっている。自助もへったくれもない。ウクライナという国家に閉じ込められた庶民として、絶対的関係の元に、ロシアを向き合わねばならなくなった。

 私たちは日本にいて、ウクライナの人々のことは対岸の火事とみているが、ロシアと国境を接している、ロシアに力を貸している北朝鮮や中国と間近に向き合っている。しかも台湾という、因縁浅からぬ独立生活圏と境を閲して、対岸の火事どころか、火の粉が飛んでくるのは避けられない地政学的位置にいる。コロナウイルスという自然の脅威よりも差し迫った隣国の脅威をひしひしと感じている。それもあって、オミクロン株の感染拡大のことは後景に退いた。身に感じる軽い痛みもより大きな痛みがおそえば、忘れられるという俚諺のごとしだ。ま、ウクライナはまだ遠い。対岸の火事だから,コロナウイルスを忘れたわけではないが、「隣は何をする人ぞ」と、いつも注意を傾けて警戒していなければならない事態の方が重く感じられて、コロナ禍はendemic deseaseになっている。

 ウクライナの人々に比べれば、オミクロン株の感染なんて、インフルエンザみたいなものだ、と。重症化する人の数や死亡者数はまったく減っていないが、高齢者が亡くなる分には順当というか、自然の摂理って感じもあってか、自分に直接かかわる人以外の死亡に切迫感はない。ただならぬ緊張の末期高齢者である私たちだけが、自助自重を肝に銘じて、ひたすら籠もるように暮らしているわけである。

《スリリングを意識的に味わえるという意味では、今の方が分がある。そう思って、何処に感染の境界線があるか、リミットの壁の上を歩いている》

 と居直るように高齢者であることを(赤ん坊に比して)「分がある」などと威張っていた。なんじゃい、それは、と1年後のワタシは思っている。その傍らで日々報道されるウクライナの戦争に触発されて、ワタシのもつ世界認識が改められいる。でもそれは、また明日に。

0 件のコメント:

コメントを投稿