2023年2月20日月曜日

彼岸に通じる実感

 1年前(2022/02/19)の記事「他人事でなかった」を読んで感じたこと。

 さらに1年経って、いま山を再開したばかりだ。安全圏に身を置いて、しかし、際を歩くスリリングを求める心持ちを、卑小呼んだ。むろんそうであればこそ、この歳になってまだ、山歩きとつづけている。そうでなければ、芸術家のようなもの、彼岸に落ちるまでギリギリを歩いて身を滅ぼしているに相違ない。

 今日もこれから、今週の山に行く。いやいや、まだまだ低山。体調測定の山歩きだ。ただ、来週の半ばから、三度になる四国お遍路に出かけようかと思案、準備している。1年前と心持ちがどう変わっているか。

 ひょっとしたらお遍路も歩けなくなるんじゃないか。先日TVを見ていたら、四国お遍路のことをやっていて、最後の88番札所の辺りに行き倒れになったお遍路さんの無名の墓があり、それに花を添えているご近所さんの立ち居振る舞いが映像になっていた。ああ、そうなんだ。お遍路に送り出すというのは、永久の訣れだったのだと感慨深く思った。その覚悟もなくて、[ぶらり遍路の旅]とか洒落ていたし、「あきちゃった」とまるでディズニーランドに行っていたみたいに途中で切り上げて帰ってきていた。

 今回も、終わりの期限が切られている。西宮で法事があるのに顔を出す予定。その時期に間に合う所で切り上げて、そちらへ向かう。たぶん、松山から今治辺りにいることになろう。ということは、やはりあと1週間ばかりを残して、四国お遍路の三回目は幕を下ろす。口さがないモーツァルト好きの友人は「ふらっと遍路の旅」にしなさいと、「♭」と[変ロ」長調とを組み合わせて笑っていた。これも、長調だから[調子良いよなあ]と、私のノー天気ぶりを揶揄っている。

 ま、いいさ。事実そうなんだから。本当に調子が良いかどうか、20日間の歩きに耐えられるか。体力ばかりでなく、気分も持ちこたえられるように、低山歩きをしている。これも基本は、なるようになる、なるようにしかならない。80歳になっての長旅は、文字通り彼岸に通じるように感じられている。

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