コロナ禍は、ヒトの世界には国境がなく、ひとつであることを実感させました。しかし人の知恵はそれに追いつかず、国民国家的な枠組みに固執し、チャイナ・ウイルスだの、アメリカの陰謀などと非難の応酬をするとか、先行的な台湾の施策を(国民国家的な枠組みに囚われて)封じ込めて排除するという姿をさらけ出しました。WWⅡの結果を結晶化した国連保健機関の国際体制はあったのに、それも政治的対立に巻き込まれて、お粗末な展開を見せています。
台湾の取り組みは、ちょっとオモシロイ問題提起をしています。なぜ台湾が、感染症に対して敏速に対応できたのか。
(1)コロナ以前の感染症、SARS(2002年頃~)、MERS(2012年)に際して、中国によって(国際関係の防疫体制から)閉め出されていた台湾は、自ら防疫体制をつくるための研究に重点を置いていた。それが幸いして、COVID-19が世界に蔓延するより前にその危険性に気づきWHOに通告するとともに防疫体制を敷いた。
(2)島国であること、国の規模がコンパクトであることが、幸いしている。
(3)ITのネットワークが確立している。それを駆使するにたる製造業とソフトパワーがある。
(4)政府への信頼が(大陸との緊張が継続していることもあって)あった。
日本との対比になるが、要は精神的にも文化的にも、(国際関係すら)独立性をきっちりと保っていることが、上記四点からも推察できる。むろんそれが政治的安定として、どれほど定着しているかは、その後の台湾情勢を見ていると流動的だとみえてくる。
ウクライナの状況を見て、台湾の人たちがどれほど自国の行く末を懸念しているかわからない。だが私の身に感じられる危惧は、台湾がただ単なる「自律的経済圏」の浮沈というモンダイではないということである。現在中国の統治体制が強権的独裁であることもあって、台湾の自律性が脅かされることは、日本という国の独立性にかかわるだけでなく、日本列島に暮らす私たちの暮らしの自律性にも深く関わって脅威であるということだ。つまり台湾の浮沈は、国民国家の独立性の問題というよりも、ヒトの暮らしの自律性を脅かす(普遍的な)モンダイになったと言える。
そう考えると、台湾がCOVID-19発生以降に取ってきた外交的な振る舞いは、まったく置かれている状況は異なるといえども、日本国家の参照点として、重要になる。軍事装備の(アメリカからの購入・援助)もさることながら、基本的に自律的に中国には敵しえない「自律的小国」が、どのようにして巨大な軍事的脅威から防衛を果たそうとするのか。そのために隣国であり、かつ社会的体制が似通った日本が、どのように援護できるのか。ただ単に、軍事的な対決構図だけで応戦体制を整えるというのではなく、知恵を振り絞って軍事力の発動を差し止める外交的な関わりの力を総動員する地点に来ていると思う。
今メディアを通じて喧伝されている「台湾モンダイ」をめぐる日本政府の対応は、ほとんど軍事的な事態が発生したときにどうするかに限定されている。「状況適応的」と日本人の気質を分析する知見が過去に流行ったが、今のような状況になると、視野が狭窄されたようになって、目下の緊張的推移しか目に入らなくなる特性を、私たちはもっている。太平洋戦争直前の状況がそうであったことを、猪瀬直樹「昭和16年夏の敗戦」が明らかにしている。半年はもつがそれ以上は敗北するという結論を、開戦前、昭和16年夏のシミュレーションで得ていながら、半年経って仲裁講和が入ることを期待していたり、戦争というのは(戦力だけではない)戦ってみなければわからないと、成り行きに期待した。そういう悪いクセをもっている。それをこそ教訓化して、国際関係が今のような状況になったとき、軍事的な対応関係でないところで、どれほどの力を使えるのか、思案の為所に立っている。
つまり今こそ意識的に視野を広く取って、(国民国家という枠組みに縛られるとはいえ)国際関係の力比べを見て取る必要があるように思う。武力ばかりではない。戦闘に於ける戦略戦術ばかりでもない。国民国家的な枠組みさえ取っ払って、文化的な関わりや経済的なモノ・カネの交通、なによりヒトの往来と交流の堆積がどうであったかをつぶさに拾って、活かしていかねばならない。
政府の「外交」もさることながら、必ずしもそれが主要道というわけではない。ひと度グローバリズムを体験してきた、文化と民間往来の蓄積がある。文化的な交流はナショナリティで二分するワケにはいかない。動態的平衡と生物学者なら名付けるだろうが、文化往来の絡みは双方の間(あわい)として独特の色合いを帯びて揺蕩っている。言葉を換えれば、入会地のような、ナショナリティを取り払って生活者として交流する特性を有している。台湾の人々の日本人に対する好感・好意が、大陸からやってきた国民党中国人の圧政に対する批判精神に由来するとはいえ、基本的に暮らしに起点を据えてヒトの有り様をみてとっていることが根柢にある。それを勘案すれば、ヒトの基本的な存在の感触が、ナショナリティを超えることを示していると読み替えることが出来る。
COVID-19は、ヒトの暮らし次元に降りかかった大自然の脅威である。しかしそれへの対応は、今の世界が国民国家のナショナリティで分け隔てられている、その作法に遵って対応する閉鎖性を体現した。逆にそれによって、専門家による国際共同の取り組みはリモートでの研究と情報交換と共同開発によって世界がしっかりと手を結びあっていることも明らかにした。ヒトの暮らしは、ナショナリティに囚われた籠の鳥である。それによって大きく分断されていることも露わになった。
COVID-19に対する優れた台湾の取り組みが、「中国」という政治的締め付けによって排除されたことは、現代世界が何によって疎外されているかを如実に示してみせた。あるいはまた、世界の最強国アメリカのトップがトランプというトンデモ大統領だった所為で、ナショナリティという怪物がますます威勢を得ることになって、大自然の脅威と真っ直ぐ向き合うことを阻んでしまった。ああ、ヒトの社会って、選挙という人民の目先の人気取りのために、意図的に敵をつくりだし、フェイクだファクトチェックだと何と愚かしい次元で(未だに)遣り取りしてるんだろう。
ヒトの暮らしという基本点を押さえて、余計な装飾を剥ぎ取り、囚われた心を解き放って、もう一度最初から組み立て直すには、どうしたものだろうか。そういうモンダイを考えてみたい。
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