2023年2月2日木曜日

私が知らないワタシ

 1年前(2022-02-01)の記事「2月になった」をみて、そうだ、2月になったと思った。ヘンなの。去年はコハクチョウの群れの一羽が首をもたげているのをみて「奴雁」という言葉を思い出し、庶民大衆に先駆けて警世の声を上げる知識人に触れた。若い頃は自分もその一人と思っていたし、それを矜持に本も読み、即物的な欲望・欲求ではなくモノゴトをより根源から考え,振る舞うことをより高貴なこととみていた。

 だが今は、どちらが気高いかわからない。どちらもわが身の感覚器官を通し、体験の肌身を通過させて、受けとるようにしているから、一概に決めつけるわけにはいかない。よほどの非道な振る舞いも、その人なりのワケがあってそうするほかなかったのだろうと受け止めて,考えるようになった。これって、「共感性が高い」というのだろうか。別にそのように振る舞う意図はないのだが、基本的にヒトの為すことはたいてい、我がことの身の裡に連なっていると思えるようになった。これは感官器官の情報集約の年の功と謂うべきか、耄(ほう)けはじめたと謂うべきか。

「……実はのほほんと運を天に任せて、なるようになる、なるようにしかならないと思って日々を過ごしているというワケ」

 と達観したようなことを口にしている。でも、「なるようになる、なるようにしかならない」という地点に、ようやく、流れ着くように着きましたよと言いたいのである。

 何かを発見し、悟りを開いてそう考えるようになったというのではない。懸命な思索の果てにそういう結論に達したというのでは、さらさら、ない。心身一如を心し、違和感をもったことを一つひとつ拾って、何だコレは? と思案する自問自答を繰り返し、積み重ねる。

 基本的にヒトを非難しない。非難したくなったら、オレは何を根拠にそのヒトに悪罵を投げつけようとしているのかと,まずわが身に問う。そうすると、たいていの非難は、わが身の感覚や感性、イメージや思いと齟齬を来していることに起因している。ではなぜオレは、コレに価値づけているのかと,自問は連なって続いてくる。そうやって思っていると、当初の非難の言葉は薄らぎ、どっちでも良くなり、忘れてしまう。あるいは、たぶんヤツはカクカクシカジカのレベルに彷徨っているから,あのような非道なことを口にして平然としているのだと、ワタシなりの「自然(じねん)」を繰り出して理解してしまう。そうすると、ひとつわがセカイが膨らみをもち、さらにその向こうにワカラナイ世界がちょっぴり顔を出す。ふ~ん、そうかと思う。かくしてきっかけになった憤懣はどうでも良くなって消えてしまう。

 ワタシがちゃらんぽらんだからだろうか。それとも、その先をきちんと詰めないのは、モノゴトを我がこととして考えていないからだろうか。そんな風に思うこともある。でもこの歳になって、我がこととして考えていないと言われても、どう応対して良いかワカラナイ。わたしの感性や感覚、思いをくぐらせて吐き出されている数々の言葉は、いまさら否定されても、いえそれは間違いなくワタシのものですというほかない。

 もちろんワタシは普遍的なことなど、これっぽっちも口にしていない。自慢じゃないが、普遍的なことなど、思考の俎上に上がった途端に胸中から揮発してしまっている。まさしく,いま、ココのこの事実がセカイのすべてとしての重みを持って現れている。それは真実じゃないよ、フェイクだよって言う方がいれば、どうしてそういうのかを聞いてみたい。そのワタシの実感するシンジツを、フェイクだという方の乗っかっている根拠が何であるか、聞き質した上で、なるほど、と私が知らないワタシを発見するかもしれない。それは、たぶん、この上なく昂奮する,刺激的な発見になるだろう。

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