田舎と都会という対比で「都会風を吹かすな」を考えてきた。
人の関係に於いてなぜ、田舎が窮屈なのか。ちょっとパターンをモデル化して考えてみよう。
農業や畜産業を基本的な産業とする田舎は、人口が少ない、人と人が顔見知りである、互いにお暮らしや人柄がみえている。言葉を交わさずとも、田畑のつくり様を眺めれば、人柄もクセもイイもワルイも剥き出しにしているようなものだ。良いことは口にするが悪いことは直にはいわない。陰湿と言えば陰湿だが、人付き合いのノウハウの一つ。それも気遣いとみれば、一概に悪いこととは言えない。そうした場で挨拶を交わし言葉を遣り取りすると、ますます親密になり、いわばプライバシーというものの端境がみえなくなる。
親密になるということは、善し悪しが周知になることでもある。人柄の悪い人にはそれなりの応対をする。もちろん、何を良しとし、何を悪しとするかは人によって異なるが、相応の付き合い方をするのは、都会でも田舎でも同じこと。ただ都会には蓼食う虫もいろいろというほど人の数が多いから、拾う神もあれば捨てる神もある。嫌われても生きていける。だが田舎は、親密さが好き嫌いをも公のものにして人々に共有される。偏見が人付き合いの具体的な力になって作用する。ひそひそと交わされる噂が息苦しくなる。これは、田舎の人たちが節度を心得ないからではない。人の成り立ちが集団的無意識に形づくられるからである。その根柢に、ホメオスタシスと近頃生物学でいう自己保存本能の働きがあることは、いうまでもない。
加えてヒトというのは、集団の中で人になっていく。言葉も立ち居振る舞いも、礼儀も作法も、家族や地域の中で育まれ身につけていく。アナタはワタシであり、ワタシはアナタだという共有世界が土台の出発点だ。これはもちろんモデル化した図柄に立っての物言いである。家族という単位があり、個人という自律した存在もいるから、それぞれに対応した向き合い方の規範も成立している。これは、都会も田舎も関係なくヒトの成長過程で誰もが向き合ってきた事実である。
上記した田舎の人付き合いのノウハウも、お節介というが、気遣いでもある。それが常態化すると、皆さん周知の振る舞いや作法とおもわれることが多くなる。それが田舎の密な気風をつくる。
親密な関係が何代も続いて周知されている田舎にいると、あいつは誰某の息子だ孫とお見通しである。蛙の子は蛙だというのもあれば、鳶が鷹を生んだと言われることもある。そうやって私たちは、人を見る目や世の中を見る目を育てている。みえないと思っているのは当人だけで、身包み剥がれたように周知の事実ってことも、よく出来する。
その密な気風が息苦しくて、田舎を出て都会に向かうというのは、親元から離れて自律する若者と同じだ。その若者側からみれば、こうも言えようか。気が付けば、自分の話す言葉も立ち居振る舞いも、ことごとく自分が生い育った場の人たちからいつ知らず与えられた/譲り受けたものばかりである。まるで自分の内心を覗かれているようなものだ。
だが、オレは誰? と思いが湧くのは、ジブンが他の人と違うという裂け目が感じられ始めるからだ。自我の誕生とか心理学では言うが、いきなり「誕生」にはならない。オレとかワタシという一人称の響きが、オマエとかアナタと違うという響きとなって身の裡にうずき始める。それはまだ、自我の萌芽だ。その感触である芽が言葉になったとき「誕生」となる。これは田舎で育とうが都会に暮らして大きくなろうが、関係なくヒトの成長にかかわって生じることだ。
萌芽が誕生となるプロセスには、人と人との関わりのぶつかり合いが挟まっている。つまり他人をワタシと違う他者と意識する契機として、わが身に感じ取る違和感が積み重なっている。なぜかわからないが、苛立たしい。誰に向けるわけではないが、ムッとする。なんだか落ち着かない。そうしたことが繰り返されることが多いのは、親であったり兄弟姉妹であったり、要するに身近な人。彼らとのあれやこれやに違和感を抱くようになって、ある日、ジブンはジブンだと思う。それが自我の誕生である。そのプロセスにはすでに、他者との関係は組み込まれている。
そこへもってきて人の関係世界は、規矩準縄が明白である。その当事者がそう考えるから明白というのもあれば、考えようと考えまいと、知らないのはオマエだけと言うことも多々ある。子どもの頃はそういった混沌の世界に身を浸し、いつしか規矩準縄を身につけて振る舞うようになる。しかもその手順手続きというメンドクサイものまで一緒になって身につける社会的規範が礼儀・作法である。違和感を契機に自我が誕生すると、押しつけられている外圧に思える。ただ単に、規矩準縄を知るだけでなく、ジブンがその序列のどこに位置しているか見て取ることも必要になる。ジブンの置かれている立場が、今風な若者にいわせると「親ガチャ」である。本人に選択余地のない運命。それは、縁でもあるし軛でもある。自我が誕生して世界が外部と感じられるようになると、軛は「同調圧力」となる。それに反発する内発する欲求は、自由への羨望である。これも、言葉にするまでは、よくわからない内心のモヤモヤ。ジブンの自己意識と世の中が受け容れる落差が齟齬して現れると、単なるモヤモヤでは済まず鬱屈する。対象が何であれ、外に対する攻撃的意志にまで昇華すると事件となる。
親元を出て都会で自立生活をするようになると、一挙に軛が断ち切れたように感じられる。実は切れていない。無意識の世界で連綿とつながっているのだが、外からは見えない。わが身の無意識に沈んでいる軛が都会に於いては他者にはみえない分、自由になったように感じる。むろんその反面では、孤立する。縁であろうと軛であろうと、独立する人と人との関係はどの世界に於いても、ぶつかり合うものだ。ことに都会の多様な文化にいると、共有される感性や感覚、思いや趣味嗜好が少なくなる。そのズレは自我が誕生後は、いっそう孤立感に結びつく。はじめから「孤立」と意識されれば、また対応のしようがあろうが、紐帯があると思っていた関係が切れているのかなと感じられる感触は、不安を呼び起こし、孤立感を深める。
もちろん、それなりの自分の世界を手にしているヒトにとっては、孤立は、何でもない、ヒトとしてごく普通の有り様だと感じる。歳をとるってことはそういうことだと、いま私は思っている。だが、自我が誕生はしたが成熟していない若い人たちにとっては、ヒトとの繋がりの状態はジブンの証しのようなことでもあるから、その不安定さはいっそう不安を掻き立て、オレって何だと自問自答することになる。その時一番手近にジブンを証すのは、他人と比較することだ。気の強いヒトは他者を攻撃する。気の弱いヒトは不安をかかえて内向し気鬱になる。都会には今、そうした若者の不安が蔓延している。
コロナ禍がそれを表に引きずり出した。ヒトとの距離、密を避ける。田舎への移住は、都会者の生物学的というか、生理的な次元の衝動が引き起こしている社会的動きではないかと私は推察している。都会暮らしのヒトがかかえる不安を、勝手にイメージした期待にすり替えて田舎に持ち込むなと、受け容れる田舎側が警戒するのも、よくわかる。都会風が田舎を侵食するように感じられているってことだ。ここではモデル化して、つまり極端に図式化して記述したが、いかに限界集落の高齢化人口減少社会が田舎で進んでいるとは言え、田舎の親密な関係がプライバシーを尊重しない閉鎖性と非難されることではなく、ヒトのクセが小さな規模の社会でそのように展開している自然と見て取らなければならない。
そこへ参入する方も、その土地の気風という自然に敬意を払って接しなければならないと思う。
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