2022/02/08「いまでも「村八分」にするか?」 を読んで考えた。
去年もこういうことを考えていたのだと、感慨深い。今も似たようなことを扱った本を読んだばかりだ。村山由佳『雪のなまえ』(徳間書店、2020年)。娘が学校でのいじめを苦に登校しなくなる。父親は広告会社の仕事を辞め、娘を連れて祖父母の暮らす実家へ帰って農業をやろうとする。母親は仕事を辞めるわけに行かず、通いの別居生活になる。その父娘の身を置いた実家や父親の子どもの頃の同窓生は喜んで迎え入れ、父の手がける試みを手伝い支援する。だが娘は,やはり学校へ行こうとしない。ま、それも良いかと曾祖父の農業の手伝いや曾祖母の家事を手伝い、父の試みるカフェにも携わる。
だが田舎の人達の口さがない関わりが、娘をいっそう気鬱に追い込む。そのご近所さんの描写が、なかなかうまい。というか、1年前の記事にあった私の育った地方都市の「村八分」に近い、厳しい目と言葉が突き刺さる。そうだ、こういう鬱陶しさと縁を切ることが出来ただけで、東京へ出てきた甲斐があったと、60数年前を思い出した。
その描写を手がかりに、なぜこうも外からの人達を拒むのかと考えてみた。村山由佳の描写で見ると、この父娘とたまさかやってきていた母に声をかけるご近所さんは、まったく自分の価値観で彼ら新来者を裁断し、良いとか悪いとか口にする。
何でこの子は学校に行かねえんだ。勉強嫌いなんか。母親がなんで一緒にいてやれねえんだ。そうじゃねえから娘っ子も落ちつかねくなるんでねえの。父親のやろうっていうカフェは誰が得すんだ? 納屋を改装したってえが、貸し賃も取らねえで、おめえ、同窓生だからって甘やかすんじゃねえよ。
という調子だ。まったく他者の内面がどうであるかに頓着せず、皆自分を同じ価値意識と思考様式をもっている筈だのに、どうしてこんなワケのわからない暮らし方をするのかと,酒も手伝ってぶちまける。
ああ、これじゃあ、イヤになるわな。この娘が何で学校へ行かなくなったのか、いちいち公表しなくちゃならないのか。母親が一緒に暮らせず、別居して毎週とか2週に一回とか通ってくるのをいるわけを、皆さんに明らかにしなくちゃならないのかい。人は、それぞれに違った事情をかかえて生きているということを、考えもしない。これが、あたかも皆同じように考え、同じように感じ、同じように振る舞うべきだという同調圧力ってやつかと思う。
この作品では、寄り合いの場で、その事情をさっぱりと打ち明けて、非難の口を封じていくのであるが、そういう機会を持てない人達は、衆人環視の白眼視に耐えて生きていかねばならない。いやだねえ。
もちろん寄り合いのような場をもっていれば、そこで、絡むご近所さんに、どうして事情を知らないあなたがそう言って決めつけるのかと議論を挑んでも良い。だがそれは、対立を深めるだけで事態を収める方向には向かわない。
人の口に戸は立てられぬと謂うが、そういう噂次元の喋々に、身をさらして事態を説明するほどの関係があれば、なるほど、聴く耳も現れようが、そもそも人の意見や事情を聞こうというスタンスではない。他者をあげつらって気晴らしをしているだけだ。村山の作品の「田舎」は、それほどには無責任じゃないから、寄り合いの場で表白された事情は、皆さんの沈黙と、イヤちょっと言いすぎたと後で反省を伴ってハッピーエンドに辿り着くのだが、現実の「田舎」は、そういう場すらなく、しかも口さがない人達は、自らの裡にかかえた鬱憤を晴らすために、手近な標的をあげつらっておしゃべりしているに過ぎない。さらに、どこで、どう向き合ったら良いのか、それさえわからない。
人が多様だというだけでなく、人はそれぞれにさまざまな事情をかかえて戸惑っていると受けとるだけの包容力を,人は持つ必要がある。それにはまず、自分自身を真摯に見つめて、オレはなぜ、こんなことをこんな風に感じ、考えているんだろうと,自信を疑う目をもつことだ。だが、それを他者に要求するのは、至難の業。
どうしたもんだろう。
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