昨日紹介したオオガくんの【返信6】の末尾に「税と社会保険合算の国民負担率が46・8%と発表された」とあり、それが将来的に7割の水準に増えることを想定しているようだったので、表題のようなテーマを考える必要を感じた。
コロナ禍に際して先の首相が「自助」「共助」「公助」と分節化したので明らかになったのが、「共助」の少なさである。私たち日本人はと、いまとりあえず一括してしまうが、ご近所のネットワークで助け合うってことをすっかり忘れてしまったかのように、家族単位で身を固めて守りに入っているとみえる。家族と言っても大家族ではない。お役所のシステムでは未だに大家族単位で人々の暮らしが成り立っている社会想定をしている。たとえば、生活保護を受けようと申請してきた人の、親兄弟ばかりか叔父叔母従兄弟に援助は受けられないかと調査が行われるという。
どなたか社会学者の研究に「日本は昔から核家族であった」というのがあった。親兄弟だって成人すれば、それぞれの家庭を持って独立したら生計を営む。そうなると、昔の映画『東京物語』やそれをリメイクした『東京家族』じゃないが、互いに近況を交わし合うこともなくなるばかりか、たまさかに訪ねてきた田舎の親も、日常への闖入者となり、世話をするのは何かと大変と応じる。世話になる、迷惑を掛ける、気遣いをするという伝統的文化自体が、面倒を引き起こす。
それぞれの事情をわかり合って扶け合うということなど、想定できない「関係」になっている。暮らし方の大変化が起こっていたのだ。日頃疎遠であった家族たちが、ひと度何かあったら扶け合う関係を復活させるというのは、突然の事故で両親が亡くなった甥や姪を引き取って育てるとか、あるいはせいぜい、身元保証人になって就職などの手助けをすることくらいしか考えられない。それさえも物語の中の、昔風の繋がりをもった世界のデキゴトだ。
つまり社会生活の日常に於ける「家族」は、よくて二親等の結びつきである。伯父伯母・姪甥が親身になって世話をするというのは、思いもよらない。これは所有権とか相続権という社会制度も関係しているかもしれないが、いま、そこまで話を広げない。
遠くの親戚より近くの他人という俚諺の通り、暮らしの日常を知り合っている他人の方が頼りになるし、気持ちを交わしあって「共助」をすることもできる。だが、都会化がすっかりその「共助」さえも「公助」に一括するようにしてお役所にまとめられ、たとえば「共助」の単位であったはずの町内会が地方行政の下請け機関となっている。
これはインフラ整備と同じに考えているのかもしれない。都会に暮らす人たちのご近所空間を整えるのは地方行政の役割であり、不都合はなんでもかでも地方行政に訴えて手を打って貰うという感覚が、私たちの日常に染み付いてしまっている。つまり私たちの暮らしの独立単位は、よくて夫婦、あるいは独り暮らしの単身単位に限られた個人主義のセンスが行き渡っている。それを自由と考え、気持ちよく過ごす空間として人々は身に刻んできた。それが都会生活の心地よさであったと、今私は思っている。
その心地よさと引き換えに私たちは、「共助」を手放し、不備不都合を「公助」に要求し文句を言うようになった。お上の方も、何でもかでも指針を出して整えようとする。コロナ感染を防ぐ為にマスクをするかどうかまでお役所が提示する。「個々人の判断に委ねる」って指針が出る。笑わせんじゃない。インフルエンザと同列にするってのなら、そんなこと自分で考えろよといえば済む。そこまで政府が口出しするってのは、「共助」というセンスが蒸発してしまったからだろう。個々人がささら上にお役所に直結しているって格好か。
そういう個人主義が北欧でどうなのかは知らないが、日本の場合、家族感覚や所有感覚は(社会制度として)昔のままに残り、しかし社会生活に欠かせない「自助」「共助」「公助」の考え方も(実態はないまま)中途半端に残っている。お役所のというか、政府のセンスも古いままでやってるから、結局現実過程の不具合は個々人に全部押しつけるようになって、厳しい事態のおかれてしまう人たちが出来している。
日本のコミュニティ性のこういう現状から考えると、案外北欧の国民負担率7割というのは、私たちに合ってるかもしれないと私は思う。北欧の人たちが負担率の多さとと引き換えに、預貯金など己の懐具合を心配することなく暮らしていると耳にする。オオガくんの【返信6】は「セイフティーネット」と呼んだ。個々人の暮らしが万一に遭遇した時の「支え合い」の仕組みを、現状強を算入して考えると、国民負担率を上げて預貯金無しでも暮らしていける安心感を世の中にもたらすのが一番いいのではないか。
そんな感じがする。
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