2023年2月24日金曜日

世間話と鬱憤晴らし

 3月seminarの「お題」をどう整えようかと、相変わらず思案している。

 これまでの面々からの「返信」5通をみていて、「オモシロイ」と「論議にならない」とを分けているのは何だろうと考えていて、例えば、2023-02-11の記事「これぞ成熟老人の箴言」の【返信4】のオオガくんの所感は、井戸端会議seminarの素材になると感じている。だが、2023-02-22の記事「高齢者の不思議?」のマンちゃんや【返信2】のトキくんの応答は、BBC東京特派員ヘイズさんの「日本人の不思議」に対面してはいるが、鬱憤晴らしの「お説賜りました」の態で、遣り取りにならないと感じる。この違いは何だろう。

 男たちのそれらに対し、女性陣の【返信1】keiさんはヘイズさんのコメントをわかりやすくオモシロイと表明している。【返信3】ミドリさんはクイーズ・イングリッシュこそ正統と押し出してくるイギリス人に閉口した話で(ヘイズさんに)反発している。つまり性別による展開の話ではない。

 むしろ前回seminarの遣り取りを聞いていると、ご自分の亭主を介護する話や仕事を辞めると引き籠もりの様になるご亭主の尻を叩く女性陣の話は、まさしく当事者としての切迫感が籠もる。それらにコメントする他の女性たちも、自身がそういう立場に置かれた経験を加えて、介護的立場とご亭主との距離の取り方を言葉にしている。世間話の様に交わされるが、当事者としての向き合い方を直に取り出している。

 一つ印象深い言葉があった。ご亭主が歳をとって動きが鈍くなり、同時に自分も歳をとるから面倒見切れないと思うことが出来して腹立たしく感じていると話す方に、認知症の初期段階にあるご亭主の世話をする方が、「ハグしてやるとね、(振る舞いが柔らかくなって、わたしが誰か)わかるんよ」と話していた。ああ、これが「当事者研究」なんだと思った。人との関係を紡いでいる。そう意識することが、人と接する基本姿勢の要諦だ。この方の振るまいが、対する人の在り様を引き出す。こうした動態的平衡を取ろうとする感覚が、人それぞれの内心をかたちづくり、見合う反応/レスポンスを引き出す。動態的平衡という関係の展開に身を置いて、言葉を紡ぎ出す。それが当事者の振る舞い。それについて語り合う、それが研究なのだ。

 ヘイズさんのコメントに対してトキくんの「何もわかっちゃいねえ」という毒づきは、関係を断ち切る言葉だ。マンちゃんの「イギリス人よ! よく覚えておけ!!」というのも、鬱憤晴らしの啖呵ではあっても、ヘイズさんが提起しているモンダイを当事者として研究していこうというスタンスではない。売り言葉に買い言葉じゃないが、こうやって罵声を浴びせ、敵意を剥き出しにすると、交わされる言葉も自ずから刺々しくなるに違いありません。研究どころか、モンダイはどこへやら、心裡に降り積もる鬱憤晴らしのショータイムになってしまう。これはseminarの「お題」にはならない。

 ところが【返信4】オオガくんがヘイズさんのコメントを「家内にも読んでもらい珍しく夫婦で話し合いをしました」というのは、彼のモンダイ提起を正面から受け止めています。加えて、娘さんがフランス人と結婚し、海外に暮らしていることを披露して、「30年近くも海外生活を続けるとまったく異邦人です」と娘さんのことを語る口調には、異質さを素直に受け容れている穏やかな感触が漂い出てきます。

 1年前(2022-02-23)のブログ記事「井戸端こそが当事者研究の場」は、二人の若い哲学者の対談から受けた刺激を記している。


《「論議」というよりも「いま」「ここ」で向き合っている者たちが「いま・ここ・をめぐって言葉を交わす」ように切り替えていけば、「当事者研究」が緒に着く》

《「井戸端メディア」が消費的になるのは、そこで問題にしている「事象」の「当事者」として自らを組み込んで喋らないからだ》

《世間話が苦手な私は、そういう意味では、自問自答が似合っていて、井戸端会議は苦手なのかもしれない。でも、国分功一郎と熊谷晋一郎という二人の達者がちょっと扉を見せてくれただけで、自問自答がそれなりに進んでいる。ありがたいことだ》


 鬱憤晴らしも実は一つの「当事者」性を持っている。マンちゃんのトキくんも、ガイジンが日本の将来のことを提言していると聞いただけで、肚が治まらない様子だ。余程それなりのきつい体験が身の裡に降り積もっているからであろう。外からエラそうにあれこれ指図がましいことを言うな、「我が国のことは我々が解決する」と啖呵を切るのも、当事者だからこそ腹立たしいのであろう。むしろ私のように、価値中立的にヘイズさんの言葉を聞いてそうだねえと反応するのは、わが身をどこか第三者的な非当事者の立場に置いて眺めていると批判を受けるかもしれない。ただ、ヘイズさんのモンダイ提起に、そうそうそういうことってあるよねと共感する身の響きを感じるから、他人事とは思わず反応している。これは当事者性じゃないかと自身のことを評価はしている。

 これらの子細な違いをさらに探求して、何とかseminarの「お題」に仕立て上げたい。

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