2023年4月30日日曜日

「ささらほうさら」の源流(6)顕現する世界

 ワタシを通じてセカイが現れていると感じるのが「ブンガク」だと私は思っている。いうまでもなく読む側のブンガクであって、世上一般に謂われる文学とは違うかどうかはワカラナイ。4月のささらほうさらの会で講師を務めた作家・鈴木正興が、その作品『〈戯作〉郁之亮江戸遊学始末録』に添付した《自称「小説」謹呈の御挨拶》で本作品以上に興味深い台詞を吐き記している。

《……さて、その後期高齢者界に入域したての頃、小生、これは何をどう血迷ったのか、己が卑小な分際や能力も弁えず、生涯にたった一度でもいい「小説」というものを書いてみたいと、まあいずれとんでもないことを思い立ったのであります。若い頃からごくごく狭い交流範囲内でいづれ拙い雑文、駄文の類いを結構書いてきた経験はあるのですが、何を今更耄碌し掛かっているこの期に及んで「小説」だなんて一体どういう風の吹き回しなのでせう。「おい、オメエ、小説ってのはなあ、今までのどうでもいいような雑文と違って創作の分野に入る歴としたゲージュツなんだぞ」と自分で自分の血迷いを思いとどまらせようとしたのですが、「なにおー、ゲージュツでねえ小説があったっていいじゃねえか。なあに、年寄りの冷や水と揶揄されようが構やあしねえさ」といっかな忠告を聞き入れてくれず、結局その抗弁の勢いに気圧された常識派の方の自分が寄り切られ、「勝手にさらせ」と匙を投げてくれた御蔭で内訌は収まり、斯くして自称「小説」の筆を執り始めた次第です。……》

 本作品以上に興味深いポイントを拾うと、こんなところが浮かび上がる。

(1)上記引用には(この作品に籠められた)この作家の全生涯が現れている。

(2)この後段の自問自答は、人がどのように物事の顚末をワタシの「自然(じねん)」にしようとしているか、その端緒が表現されている。

(3)このような径庭を経て読者の前に現れた「小説」は、すでに作家の生涯とは別物となり、それ自体として読者にも作者にも向き合っている。

 この(3)を「後始末記」として話したのが、今回のささらほうさらの会であった。

 まず(2)から解説する。

 私たちヒトがどういう風に物事を腑に落として納得しているか。実は作家自身は「なぜ小説を書くのか」を腑に落とす必要はない。(1)のような内発性が腑の裡から湧き出てくるのだから、(2)はまったく読者へのサービスである。読者は小説をどう読むか。これは作家が口を出す領域ではない。どう読まれようが、作品はそれ自体が社会的な他者であり、読まれずに神棚に飾ってあったって枕代わりの積ん読になっていても作品は作品である。だからその作品の出来に驚いて、

《さて質より量のこの大冊は……態々計測してくれた所によると厚さ、1.1×10ミリメートル、重さは6.5×10²グラムもあり、中味は寝っ転がって読むに相応しいお気軽なものなのに余りに厚いは重すぎるはでとてもじゃない寝っ転がっては腕が三分と持たないとの由》(「始末録」p1)

 と厚さ重さを量って驚きと歓びを表す人も現れる。この作家は、さらにそれを上回り、

《因みに偏執的なまでの統計数字の好きな私ゆえこの冊子に収容された蟻の如き文字の全長を計算したところ約2200メートルと出た。JR川口駅から南行車両に乗ると荒川、新河岸川両鉄橋を渡って東京都北区域に至る距離だ。またこれを水平方向でなく垂直方向で高さとして考えると雲取山の頂を下に見ることになる》

 と「小説」にびっしりと埋め込まれた文字列の距離の壮大さを計って戯(おど)けてみせる。このジョークもまた、この作家の身を挺した一面を反映しているのだが、それはまた後に記すことにする。

 ではなぜ読者は「どのように物事の顚末をワタシの「自然(じねん)」にしようと」するのだろうか。抑も「ワタシの自然(じねん)」というのは、何か?

 人が何かを納得する内的な経路には、そりゃあそうだよなあという共感というか心に響くものがなくてはならない。必ずしも同感というのではない。そうだよ人ってそういう異質なものへの関心がどこかに潜在しているんだよねと響くものがないと、まるで他人事になってしまう。人の納得の経路は単線ではない。複数の、相反する動きも人の胸中には組み込まれている。それは経験であったり、どこかで触れた知識であったり、何時知らず身に備わって身の裡に潜在しているコトゴトであったりする。小説を読むとその一つひとつが表現を通じて取り出されてくる。その感触が、自分の発見であったりするのが、面白い。むろん「発見」というのは言葉で意識することとは限らない。ワクワクするのも、ハハハと笑うのも、ヘエと感じるのも自分の発見である。こういうことがなくては、読む甲斐がない。

 いやこのワタシの「自然(じねん)」は、小説を読むことに限定した話ではない。人が世の中と接してそこに生起するモノゴトに関心を傾けるのは、ことごとくそのデキゴトにジブンが映し出されるといっても良いほど、ワタシと世界は深く関わり、緊密に相互の関係を紡いでいる。ワタシはセカイの現れなのだ。それが人の心裡と環境や情報との結びつきである。もしこれがなければ、その世界は単なる素知らぬ外部となりワタシにその存在すら感知されない。感知されると、見知らぬ世界となったりジブンにはワカラナイ世界となり、そのようなこととして身の裡に潜在するようになる。世にあふれる情報や専門知は、それを伝える「権威」に介在されて人の裡側に入り込み、さまざまなことが相乗していつしか人の無意識に定着する。それが「自然(しぜん)」である。それは、したがって、人の数だけ「しぜん」があることを意味する。私からすると、私のワタシ以外の他者のワタシが無数に(というか世界には80億人の数だけ)存在するわけだ。

 ところが読書というのは、意識的に私が触れる他者のワタシである。本を読むとき、最初の50ページくらいが一番力が要る。この本が何をなぜどう扱っているのか、まるで見知らぬ人とであって、その人とワタシとの接点を探るのに、思いが総動員されるからだ。ようやくその接点が感じられる頃、読者はその作品の世界にすっかり惹き込まれ夢中になっているか、イヤこれは読んでもしょうがないと見切りをつけるかしているというわけだ。もちろん小説に限らない。映画でもドラマでも、最初の部分で(制作者側から謂うが)接点をつくらなければ視聴者に見放されてしまうから、関心を惹き寄せるためのいろいろな仕掛けを講じる。それと同じだ。ここにワタシの「自然(じねん)」が介在している。

 作家・鈴木正興は「ごくごく狭い交流範囲内」の読者に向けて、手書きの《自称「小説」謹呈の御挨拶》を「まえがき」か「あとがき」かの代わりに添えたのは、作家としてのデビューを、ワタシの「自然(じねん)」と受けとってよという「近況報告」でもありました。そう受けとらないと、なんだよ「あとがき」を書くなんて、村上春樹と同じじゃんと(2年も村上に先んじているのに)思われてしまうことへの恥ずかしさ出合ったかと思うほどだ。作品は出来上がって読者の手に渡ったときには、作家とは別の人格を持つものだからですね。

 それを知っているから、作家・鈴木正興は「後始末記」で、読者から寄せられた「感想」などを記したを紹介しながら、その最末尾に《感想文の番外篇としてもしこの作品が誰か別の人が書いたものだとして私がその読者だとしたらどんな感想を持っただろうと考えるのも悪くはないのでそうしてみる》と前置きして、こう記す。

《私の場合はこいつはいけてるとばかりその日から数日間読み耽って早々に完読しちゃってると思う。なぜならこの小説、自分の書き方の流儀にぴったりだし、殊にはドレミファソラゴトの音感が私の身体的波長に符合しているからだ。早々の完読後こんなふううなものだったら儂にも書けるかもしんねえ、死ぬまでの執行猶予期間中に何とか書いてみてえもんだと寝不足気味の目をしょぼつかせながら独言(ひとりごつ)したものである》

 まだ子離れできない親のような風情が漂う。ひょっとするとこれは、わが子はわが人生畢生の作品と言いたい、この作家の無意識の心持ちが籠もっているのかもしれない。「生涯に一篇の小説を書いてみたい」という思いを成し遂げた全力投入の精華というに相応しい、慈しみ方である。いいなあこういう親父、と私は羨ましくも思う。いま私はこうして文章を書いているが、産みの苦しみを感じつつ絞り出すように作品を創り出したことがないからだ。しかもこの作家・鈴木正興は、この作品を「近代小説」のように読み取ろうとする私のワタシのクセを拒絶して《自称「小説」謹呈の御挨拶》で次のように謂う。

《「小説」と言うと、例えばこの世の不条理、社会の裏面、人間固有の宿痾、生と死の相剋、愛憎の悲喜劇、人生とは世界とは翻って己自身とは等々の抜き差しならぬ問題意識を内在させた仮構空間に違いなく、今そこにある現実の事象と人間の在り様を交叉させながら「ストーリー」として紡ぎ上げるものなのでせうけど、それはあくまで「近代小説」です。ゲージュツとしての「小説」です。考えてもみて下さい。そんな畏れ多いもの小生に書けるはずありません。能力的にも、また嗜好の面から。小生謂う所の「小説」はそうした近代的なものとは無縁の、まあいづれ自分の思い付きに任せて気儘に書き綴った単純読物と称すべく、世に問うもの、人に訴えるものはこれっぽっちもありません。自分は却ってその無近代的な所が取り柄とさえ思っています。》

 そうなのです。この作家は、作品の実在そのものが総体として「近代批判」だと位置づけています。イヤそう言うと、批判対象が狭くなる。「近代」とか「前近代」という「近代」を前提にした遣り取りではなく、それを超越した(その論議枠を取っ払った)「無近代」に位置づけて、「生涯畢生」の、つまり彼の全生涯を掛けたアクションとして突き出している。それを「近代批判」と読み取るのは、「近代」にどっぷり浸かっている自己意識の読者・ワタシの所業なのですね。

 そう考えてみると、作家・鈴木正興はその存在そのものが私にとっては、全身ワタシ批判と読み取れる。付き合い始めてもう16年になる。若い頃の、何処へ向かうかワカラナイ時期のことを思い起こしながら、長くも面白くも刺激的であったなあと振り返る。それが『〈戯作〉郁之亮江戸遊学始末録』を読んでいると、ふつふつと湧き起こってくる。江戸と場を映しているが、まさしくこれは「正興生涯遊學実録」というに相応しい場面に満ち満ちている。人は生涯に一冊は小説が書けると、どなたであったか言っていたが、なることならワタシも書いてみたいと、思ったりするのである。

2023年4月29日土曜日

賑わいが煩わしい

 今日からゴールデンウィーク。まだ現役の勤め人はこういうときしか休めないから、長旅を計画し混雑の中に身を置いて移動する。えっ待てよ、私もそうしたっけか?

 二度ほど計画したことがあったことを思い出す。一度は屋久島へ行こうと計画し、飛行機の切符もとった。カミサンが日本百名山制覇をやっていた頃だったので私も付き合おうとしたのだったが、飛行機に搭乗するのに新幹線に乗るような気持ちで言ったものだから、まだ20分も前だというのに、乗れなかったことがあった。3泊4日くらいの山登りの荷物を背負ってとぼとぼと家へ帰ってきたことを覚えている。

 また一度は、勤務して三十年に一度3日間の休みが取れるというのを連休につなげて東南アジアの最高峰・キナバル山に行ったことがあった。これも、すでに台湾の山を歩いていたカミサンの発案で旅行社の企画に乗ったつもりだった。私にとっては初めての外国旅行。ところが、参加者が4人しかいない。でもそのうちの一人、アラサーの女性が旅慣れているて、現地ガイドとのすべての交渉と乗り換えなどの世話をしてくれると事前の打ち合わせに行ったカミサンが安心した様子であった。マレーシアのクアラルンプールで乗り換えてボルネオ島に渡る。そこで現地ガイドと合流し、キナバル山に上ったあとオランウータンの森とウミガメの産卵を見る観光つきであった。標高4千メートルを超えるキナバル山は面白かった。高度障害にもならず溶岩ばかりの斜面を上る達成感は、後に海外の山へ向かう跳躍台になった。それ以上に印象深く記憶に残っているのは、案内役・アラサーの女性の母親が亡くなったと現地ガイドへ連絡が入っていたことだ。じつは山へ入る直前の山小屋で知らせを受けとった現地ガイドは下山後に彼女に知らせることにしてキナバルへ登った。下山後にそれを知った彼女はすぐに特別手配した便で帰ってしまった。その後の観光と帰国は、私のお役目になった。オランウータンもウミガメも興味深かったがそれ以上に帰国までの乗り換えや手続きなどすべてが初めてのことだったから、あれこれ訊ねながらの緊張した行程が思い出される。

 たぶんそれ以外のゴールデンウィークは、子どもを連れて近場の山へ行ったくらいの日帰りの旅。混雑を承知で飛び込むことはしてこなかった。退職後もこの連休期間は現役の勤め人に場を譲るような気分で、家にいて過ごしている。

 ひとつ気づいたことがある。先日バスツアーの日帰りに行ったときのことは記したが、そのときのこと。あしかがフラワーパークの散策の折、できるだけ人混みを避けて歩いたこと。振り返って考えてみると、ワタシはヒトの群れる中に身を置くことが嫌いなのだ。観光旅行へ行きたいと思わないのは、人混みがイヤなのではないか。ヒトと群れるというのがキライなのではないか。どうしてと問われると返答に困る。ご近所の散策というと、ついつい見沼田圃に足が向く。町歩きと行っても、人気の少ない住宅街の、それも樹木が植わっている森の気配が漂う場所を選ぶようにして歩く。あるいは山へ向かう。山があるからと言うよりはヒトがいないからそちらへ足が向くのではないかとワタシのクセに気づいたのだ。

 ヒトと語り合うのがキライというのではない。夜分トイレにいって戻ってみたら自分の寝る場所がなくなっていたというような山小屋で一夜を過ごすのは勘弁して貰いたいが、ほどよい数の登山者がともに過ごすのはイヤだと感じない。この感触は何だろう。

 男ばかり五人兄弟と狭い家の中で育ったことが身の体感をつくったと思うから、群れていることに忌避感はない。だがそれが、同じような熱狂を共にしているような場であると、できるだけ遠ざかっていたいと思う。映画や演劇は席は共にしているが、抱く感懐はまったくそれぞれのものだから気にならない。だがスポーツ観戦はご勘弁の方に入る。

 この対比が教えていることは、ワタシは他のヒトと興趣を共にするというのがイヤなのかもしれない。たくさんの兄弟の中にいると、序列は自ずから生まれる。言うまでもなく年の順が一番に身につき、兄の振る舞いを真似して弟が背伸びするということも、よくある話だ。兄弟それぞれの振る舞いが受ける周りの大人たちの賞賛も、序列に加わるか。つまり似たようなことなのに同じではないという振る舞いの美意識、価値意識が身に刻まれる。少し大きくなると、なぜか、周りの評価に反発したくなる。それも身の習いになる。

 それが一人のワタシだけではなく、多数の人々のワタシに、その置かれた「関係」の中に於いてそれぞれに刻まれ、身の習いとして無意識に沈んでいく。それはいずれ、ワタシって誰? ワタシって何? と自己を問う時節を迎え一人前になっていく。

 ワタシの固有性が際立つような振る舞い、技、際立つ感性・感覚・思索・言葉。状況把握や理屈、レトリックが語り口を通して、評価を受ける。それぞれに実は社会的な力関係が埋め込まれていて、それを感知しながら「かんけい」を紡ぐのが「空気を読む」ということになる。

 それが多くの人々の共有する「かんけい」となると、何時、何処から、誰がどのように見ているかによってその時、その場の固有性である語り(ナラティヴ)が、情況の連続性と時の流れを組み込みこんで物語り(シトーリー)となり、もっと長いスパンで組み立てて歴史(ヒストリー)になると、もはやヒトの固有性というよりは社会や時代の共有する規模の壮大さに気風や風潮、世界観と呼ばれるものとなる。

 また、そうした人類史的な歩みを、神の目で見るようにして鳥瞰した世界観や価値意識が、学校教育やTV家新聞・書籍などのメディアを通じて本人の意識することなく刷り込まれ、ヒトがジブンに気づいたときにはすでに身の裡深くに沈んで無意識になっている。だから実は、イイとかワルイとかいうことではないのだ。ジブンに世界が現象している。

 私を無化していえば、ワタシを借りてセカイが現れている。ワタシからいえば私がセカイだと。イイとかワルイというませに、ワタシが事実だということである。こう考えるところに「我思う故に我あり」を位置づけると、なるほどと腑に落ちる。

 そんなところから、賑わいがキライというワタシをみつめると、ヒトそれぞれのワタシを無化するようにして世界に熱狂することを忌避しているのかもしれないと感じる。他のヒトにも、ワタシの来歴に目をやって、人類史を背負ったヒトとしてのジブンを起ち上げなさいよと呼びかけたい気持ちになる。

 その反面で、そんな理屈はないよとワタシの内心が呟く。ヒトとしてのジブンを意識するというのは、ヒトをそのように限定することだ。ただ、いま、ここに存在するジブンをヒトとして承知することが、現実存在としてのワタシ=ヒトを受け容れることだ。意識することは、意識したストーリーやヒストリーにジブンを限定して世界を狭くしてしまう。消費的であると謂われようと謂われまいと、そのように振る舞うジブンが、人類史そのもののもたらしたヒトの姿だと訴えている。

 容易に一つの物語りに収めきれない。逆に収めようとする私のヘキを発見する。この問いは、堂々巡りになるが、問い続けなければならない自問自答のように感じている。

2023年4月28日金曜日

「ささらほうさら」の源流(5)ワタシの「自然(じねん)」

 こうして半世紀以上に亘るささらほうさらの源流を総覧していると、ワタシの学生の頃からの関心の傾け方が「浮世離れ」していたことに気づきました。目前に生じているコトゴトから一歩外して、そこに振る舞う人々を眺めているような面持ちです。どうしてそうなったか。上京してきて受けたカルチャーショックで、この人たちと競り合うよりも見てみようという心持ちになったことが大きく作用しているかな。そこへ60年安保の勢いに乗って政治的に活動する人たちの、言葉はむつかしく知的だが理屈に走って宙に浮いた姿が、なんか違うなあと感じられたこと。加えてステップアウトした立ち位置が事態がよく見えると宇野経済学を入口に学んだ方法論的哲学が影響していたかなあ。人の動きを鏡にしてワタシをみる視線は、そのようにしてゆっくりわが身の習いになって行ったように思います。

 二重焦点の空間の中で私は、ささらほうさらの源流グルーピングに於ける自分の立ち位置をマッピングして自ら振る舞うようになっていました。何もかも目の前で起きていることがすべてわが身の反照に思われて、退屈はしませんでした。後に、「突出した癖の強い思想家」の強烈な攻撃を受けたとき何故、このグループを辞めなかったのかと問われたこともありました。そうかそんなふうに彼を(そして私を)みているんだと、その人の受け止め方を鏡にしてワタシを感じている私の次元を意識したことを思い出します。他人事のように眺めていたのかもしれません。岡目八目というか、門前の小僧というか。

 先にも述べましたが、「突出した癖の強い思想家」は本当に率直に自分の印象や感想をすぐに言葉にして発してしまうワルイ癖がありました。自分に正直だったのは確かです。それがしばしば言葉を掛けられた人やその関係の人たちを痛く傷つけるのも目にしました。それで顔を出さなくなった人もいました。この思想家自身が自らの言葉で傷つけたことを何年も悔やんでいたこともありました。十数年以上経って、傷つけた人が重い病で入院したと聞いたとき見舞いに行くという「謝罪」の仕方をしたこともありました。彼は日頃からあれこれと細かく日誌をつけていたようで、それを読み返しては反省することを繰り返していたようです(それと同時に、相変わらず反省もしない自分の心底に似たような振る舞いをするヒトには強烈なパンチを繰り出していましたから、大変だったろうと思います)。つねに世界から押し寄せてくる鏡を前に、そこに映るわが身の無意識と向き合って呻吟していた彼の姿。それにワタシの知らない世界を感じて、私はワタシの卑小さを思っていたのでした。

 また彼に似て癖の強い文芸評論で後に大学教授になった私の親しくしていた人が、この「突出した癖の強い思想家」のことを、「あの人には用心した方がいいよ。底のところで信頼できない人だよ」と私に忠告してくれたこともありました。ああ、どこかで同じ匂いを嗅ぎつけているんだと、私はむしろ、ともどもに私の畏敬する人であったが故に、自分が対極ののほほんとした世界の匂いを持っているんだなあと気づかされたものでした。

 不惑、知命と十年単位でワタシの自己意識を先に記しましたが、仕事現場での関わり方について私が知命の頃に身につけようとしていたのは、本を読んでも映画やドラマを観ても、先ずできるだけそのまんまを受けとることでした。作家や制作者はソレを面白い、意味あることと思ってつくっているでしょうから、その面白い(と思っている)次元が何であるかを探り当て、ソレがワタシの考える次元とどう違うか、その違いは何に由来し、その違いは世の中にどういう効果の違いをもたらすかと思案するように努めました。作家や制作者ばかりでなく、ヒトのさまざまなる舞いをそのようにみていると、わが身の中にソレに似た衝動やその萌芽があることに気づきます。それを梃子にして共感し、何故そうするのだろうと考えていくと、アメリカのトランプにしても、それに強烈に反発する左翼インテリゲンチャにしても、ワタシのセカイに位置づけることができます。もちろんワタシのセカイに組み込めない要素が多々あることはワカリますから、いつもワタシの思案は「とりあえず、こうだ」という限定つきです。ワタシの(生きている)現場ではそうだと次元を限定しておけば、いつでも知らなかったコトを組み込んで再評価し再構成することができます。生きるというのは変わることですから。

 つまり、唯一絶対神的視線からすると、いつまでも揺れ動く、不確定の思案です。でもそれが生きていることだから、致し方がないとジブンをみています。これがワタシの「自然(じねん)」であり、空っぽの本体なんですね。この「自然(じねん)」がもっぱら気に入っています。神と仏の違いをいつか書いたことがありますが、この「自然(じねん)」がワタシの自然(しぜん)、つまり神です。小僧の神様ってことですね。ははは。と笑っているのは私がだんだん仏になっていっているのだと、ちょっと思っています。なんだただの好々爺じゃないかと、大黒さんのふくれたお腹を思い浮かべながら苦笑いしている毎日です。

2023年4月27日木曜日

「ささらほうさら」の源流(4)個が自律に向かう

 個々が起ち上がったというのには、私の目にはそう見えたという視点が伴う。それを抜きにして、あたかも神がみているように「個々が起ち上がった」と客観的なデキゴトのようにいうのが、その頃までの知識人の台詞であった。もし前回紹介した、一人いたという「突出した癖の強い思想家」がそうであったら、癖が強いとも言わないし、ひょっとすると思想家とも呼ばなかったろう。

 1968年に象徴的に集約される思想情況は吉本隆明の『自立の思想的拠点』に表現されている。思想的な軸が何によって支えられているかを、それまで人類史が蓄積してきた知的堆積物をひと度チャラにして、銘々各人が自問自答することを(知識人を自称する人たちに)要求するものであった。ささらほうさらの源流となるグルーピングの、一人の「突出した癖の強い思想家」は、いち早くそれを手がけ、必死に自分と格闘していた(と、出合って後の私は受け止めた)。

 千葉県九十九里の北の方に位置する田舎町の石材店に生まれ、中学を出てすぐに東京に出てきて新聞配達をしながら定時制高校に通って国立の四年制大学に学んだ彼は、「苦学生」という言葉に汲み尽くせない世の中の抑圧と非情とを身に刻んできたと思われた。1960年すでに大学に籍を置いていた彼にとって、60年安保の政治状況の中でいろいろな政治党派の言説の渦の中にいて、流通する言葉の不確かさと空疎さに苛まれていたのではないか(と知りあって後の私は想像している)。

 1960年代の後半に出合ったとき彼は、人の口から吐き出されるいろんな言説が、何を根拠にして(そう述べて)いるのかを恒に常に問いかけた。それはまるで、自立の思想的拠点(と吉本の言う「大衆の幻像」)を彼自身が探し求めているようであった。私からみると彼はすでに自立の思想的拠点を身に備えていた。私の育ったのほほんとした環境に比して、彼の舐めてきた辛酸は世の人に対する見極めを鋭くし辛辣であった。でもひょっとすると彼は、自身のそういう人柄を、苦々しく思い、その衣装を脱ぎ捨てたいと思っていたのかもしれない。彼が批判したり非難したり反問する対象が、何処に身を置きどのように状況を捉えそれがあなたにどう関係するのかを問う。その言説を身の裡に問い降ろし腑に落としてさらに胸中に構成し直して、鋭い槍を突き出すように言葉にしていった。批判や非難や怒りというか憤懣を繰り出すことによって自らの「幻像」を描き直そうとしていると、文化的にはまったくズレた岡山の地方都市から出てきた私は、自身の身に照らして感じていた。

 ささらほうさらの源流のグルーピングにかかわった人たちは、10年、20年というスパンで振り返ってみると、月2回の集まりの毎に何かを感じそれを反芻し、日々のわが身の在り様に問いかけ、自らが変わっていくことに挑戦していたのだと、わが身を重ねて思う。一つは自身の言説であり、もう一つは身の在り様であり、それらを繋ぐ感性や感覚、一つにまとめて関係を感知する「心」のイメージ。そしてそのようにして感受する情況に自らがどう位置しているかをマッピングして、自身の振る舞いを定め、どういう言葉を伝えるか思案する。細かく分節化するとそういうことになるが、それらをいちいち思案していたら、とても現場に起こる事態に即応できない。躰がほとんど反射的に反応するように身の習いにすることがワタシの習慣になった。

 ささらほうさらの源流のグルーピングは、この「突出した癖の強い思想家」がいたことによって、自分の言葉で喋ること、書くことが気風となり、ただ単に個々人は違うという個性次元の話ではなく、自分の得意技をもってこのグルーピングに位置することを各人に要求するものであった。

 それと同時に、「機関紙」の初代編集長を筆頭とする「遊びをせんとや生まれけむ」人たちの存在が大きかった。それを取り込んだ「遊事」や「運事」、作業変格活用によって社会的な気風とは異なる関係の風景をつくっていったのであった。軸になったのは身のこなし、立ち居振る舞いであった。己の抱く人に対する印象や感懐を口にしないではいられなかった「突出した癖の強い思想家」は、その動きによって逆に刺激を受け、面々との関係を作り上げ、自らの身に蓄積された身の習いを浄化再編しようとしていたと、ワタシは言葉の端々に感じていた。

 いま振り返って図式化してみると、ささらほうさらのグルーピングは二つの焦点をもって楕円軌道の気風を描いていたと空間的には言える。それに時間軸が加わり螺旋軌道となってここまでの半世紀を辿ってきた。二つの焦点の一つは思索言説の固有性、もう一つの焦点は躰に刻まれた無意識あるいは習慣化されて意識の奥深くに潜在する身の習いであった。

 前者は「学事」と呼ばれ、後者は「遊事」とか「運事」を含む作業変格活用、「遊び」であった。前者は知の世界の地平に繋がり、後者は血の命脈に結びついていた。当時それを、知意識人と血意識人と表現して面白がり遊んでいたのだが、この二重焦点の動きと関係があったから、ささらほうさらの源流のグルーピングは長く続いたのだと私はワタシの位置づけと変容を振り返って思っている。

 簡略に十年単位で私のグルーピング内での位置づけの変容を言い表すとどうなるだろうか。アラフォーのころワタシは自身の存在領域を限定して生きることに専念していた。まさしく「不惑」であった。仕事もそうだが日々の暮らしも含めて、一つひとつ、いまその現場で起こっていること、そこでの私の振る舞いがワタシを問うていると受け止めた。自問自答である。もっと広い次元とかもっと高い次元でそれが持つ意味を思案するなどではなく、その現場でいま生じている事態がワタシのセカイであると自己限定することであった。

 それはワタシの外部に世界が屹立していることを承知することでもあった。それが普遍世界としてワタシのセカイに触れてくるところで私との関係が生まれ、私がそれを意識的に受け止めたところでワタシのセカイになる。その余はワカラナイ世界だ。そう位置づけてみると、いかにワタシがちっぽけな存在であるかが浮かび上がる。いや、ちっぽけと言うどころか、外部世界にとってはまったく取るに足らない存在である。ちょうどそのころどこかの気象学者がバタフライ・エフェクトと発表しているのを読んだ。一羽の蝶の羽ばたきがメキシコだかテキサスだかに竜巻を起こす。つまり世界は微細にかかわっているという学説だったが、これは私にとって神は微細に宿るという言葉のエビデンスのように響いた。私の現場でワタシは何をしているのか、なぜそうしているのか。そう自問自答することが世界にかかわる私の立ち位置である、と。

 これがアラフィフの頃にもう一皮剝けたと振り返ってさらに思う。二重焦点の螺旋運動の中で「知命」を知った。天命を知ると50歳を別称するがこれは、自身の「在り様の現在」が「天命」であると見極めることだと気づいた。これは仏教用語でいう諦念ではなく、全き自己肯定を意味した。自身の身の裡に湧いてくる欲望ではなく、今此処に於ける自身の在り様がワタシなのだという見極め。これは演繹的な思考法の毒気がすっかりわが身から抜け、現象論的なコトの受け止め方へ転換していたことを示している。ワタシが何をしたいのかと問うと、それは空っぽ。身を置く現場の成り行き任せ。わが感性の赴くままに振る舞い、それに反応する人々の姿が変わるのと応答しつつ、向かうところへ向かう。それは私の自然感にも相応する境地へと退職後に向かう素地を築くものであった。

 そのころ「突出した癖の強い思想家」は何冊もの著書を上梓して教育社会学会に招かれるなど、知意識人としての階梯を上っていた。彼の持つ言説の特異性もあって、論壇の若手哲学者や教育学者立ちにも「何かに依拠するのではなく、あなた自身の言説で十分論壇に通用する」とけしかけられていたのを、私は傍らにいて耳にしていた。彼自身は、しかし、教育現場から繰り出す人間論、社会論、政治論を紡ぐ立ち位置を崩すことなく、ささらほうさらの源流のグルーピングに身を置いていた。

 ところがもう一つの焦点を為していた「遊び」の初代編集長は、70年代の前半で高校教師という型にはまった立ち位置に身が耐えられず、さっさと退職して不動産屋に転身していた。言うまでもなく活計を立てる身過ぎ世過ぎ。その後塾の教師や建設工事現場の作業員、中学校の用務員などを転々とし、そこでもエクリチュールの剰余を排出して「あそび」を貫き通して「ささらほうさら」にしていたのであった。これは私の暮らし感覚が全くの小市民であることを反照することでもあった。これまでも折に触れて述べてきたように作家・鈴木正興の実存は、つねにワタシの在り様に対して批判的に定立し、畏敬の念を呼び覚ます。

 こうして私は、ささらほうさらにおいては、おしゃべりな好々爺として、いま籍を置いている。言葉を交わす面々が私の物書きの原動力になっているのである。

2023年4月26日水曜日

風景全体が見所という公園(2)装う射爆場跡

 さて、栃木県「フラワーパーク」から茨城県「国立ひたち海浜公園」へ移りました。高速道路があってこその「日帰りツアー」です。

 海浜公園は広い。海に面して、南北二つの区画に分かれ、真ん中を高速からの連絡道路が貫いています。その半周ぐるりを回って駐車場に入ったから、その大きさがわかります。「国立の公園」だとその時気づきました。どうしてこんなところに? よく足を運ぶ東松山の「森林公園」も国営ですが、これは1974年設立の明治百年記念事業でした。立川の昭和記念公園は冠通りの記念事業。この「国立ひたち海浜公園」は何なのでしょうね。中央部近くに大きな観覧車が目に止まります。遊園地を意図したのでしょうか。帰ってきてから調べたら元米軍の射爆場であった土地が1973年に返還されて、「公園」とされたとありました。50年も前のこと。古い来歴を持っていたのですね。

 この時期TVや新聞で報道される如く、春のネモフィラと秋のコキアで知られています。後で考えてみると、観覧車はこの公園の象徴的なものでしたね。ネモフィラも一本一本はブルーポピーを小さくしたような花です。薄青いのが一般的。白いのもあります。一つずつをみる花というよりは、丘全面をこの花が覆って彩る景観がウリ。ここも、足利のフラワーパーク同様、風景全体がポイントでした。

 ネモフィラが植わった高さ30mほどの丘の上へジグザグに続く歩道をたくさんの人が上っています。花は一年草、周りを浅緑色のスギナなどが生え、ネモフィラの生長に必要な日影をつくっているのだろうか。でもほとんどそれは今ネモフィラの花の背景を務めています。ネモフィラは一年草だそうですから、毎年植え替えているのでしょうか。秋のコキアもこの丘に植えられて、夏の黄緑から秋の朱色へと葉色を変えていくのがウリになっています。やはり毎年季節毎に植え替えられているのでしょう。人の手によって丁寧に育てられていて、全体としての風景をみるべきものとしてつくっているのですね。足利の藤の花同様、出来上がりを見越して植え付け、剪定していく。これはもはや自然ではありません。壮大な盆栽。囲われた日本庭園のセンス。「日本の縮減文化」と韓国の評論家が言っていたか。

 野草観察を得意とする師匠もそれを感じ取っているのか、手を入れる人の作業を思いやって風景を味わっているようです。そうだ、観覧車はそれを見せようと公園の中央に位置してゆっくりと回っているのだと全体構図を読み取ったわけです。でも残念ながら観覧車には辿り着けませんでした。

 ネモフィラの咲く「みはらしの丘」に上ると、東に太平洋に向かって南北に広がる茨城港常陸那珂港区が見おろせます。その陸側には、火力発電所、日立建機やコマツといった名の知れた工場が建ち並んで、この公園に抱きかかえられているようでした。

 そこを降りて、公園の北側エリアの西の橋に行ってから中央を走る道路に渡した橋を通って、バスの駐車場に行こうと考えたのですが、1時間半の散策タイムではとても回りきれません。歩いている途中でそれに気づき最短距離を通ってバスに戻ったのです。集合時刻の5分前に到着したときには、ほかの方々はすでに席に座っていて、何だか遅刻したようなばつの悪さを感じました。

 実は足を運べなかった南側エリアには観覧車のある公園全体の監理中枢部。その南向こうにいくつものフラワーガーデンが設えられています。さらにその南には、砂丘ガーデンとか香の谷と名付けられた散策道があり、また米軍の射爆場の後だったと思われる大砂丘が広がっていると案内地図には記されていました。おそらく倍の散策時間があってもやっと回れるかどうかだと思いました。エリアの西中央部には休憩所やお店が軒を連ね、子ども連れが遊ぶにも十分な場所でもあるようでした。月曜日というのに、若い人が多かったのも、高度消費社会に入ったサービス業の時代を象徴していることのように思いました。

 そうそう、このツアーには、「いば旅あんしんクーポン」という地域応援クーポンが2千円/人、付いていました。師匠に聞いて知ったのですが、ツアー代金そのものも2割引。とすると併せて4千円/人の税金が投入されていたわけです。だがクーポンを使う時間も使える場所もありません。ガイドもそれを知っていてクーポンが使える高速SAに30分間休憩を取って使うことになりました。何とか2千円分を使おうとあじやほっけの干物などを買い求め、う~んこれって、いいことなんでしょうかね。心配になりました。

2023年4月25日火曜日

風景全体が見所という公園(1)身の置き方

 師匠に誘われて「観光地」に日帰りで行ってきた。栃木県足利市の「あしかがフラワーパーク」と茨城県の「国営ひたち海浜公園」。前者は「ふじのはな物語」がウリ。後者はネモフィラが真っ盛り。TVの画面ではよく目にしていたが、行ってみようという気にはなったことがない。師匠は、一度は足を運んで感触をみておくものと思っているのか、ときどき新聞などに載るツアー企画をピックアップして、誘いを掛ける。私は自分から足を運ぶ動機を持たないが、折りあらば何でもみてやろうという前向きの気分はあるから、誘われて断ることをしない。

 朝6時過ぎに家を出て夕方7時頃に帰宅する一日バス・ツアー。日程からお弁当まで全部お任せ。その上、現地では時間を決めて自由散策だから、歩く分には目新しい分だけ面白い。東北道を走るバスからは奥日光の連山が春霞にかすんで見える。でもガイドはこれも見所として紹介に努める。意外だったのは、茨城県の北東部、ひたちなか市の方からみた筑波山。見事に美しい三角錐。いつもは南や西からみているから双耳峰だが、そうか、みる場所でこうも変わるかと思うほどの姿であった。

 あしかがフラワーパーク駅があるのを知った。小山駅から新前橋とを結ぶ両毛線で40分ほどの駅は大勢の乗り降りを想定して回廊が設えられている。だがマイカーで来訪する人が多く、駐車場に入る車列が道路を埋め尽くし、畑や空き地などありとある場所に石灰の白線が引かれて駐車場にしている。駐車は「無料」というので車での来客が多いのだとバスガイドは言う。バスはそれを予測して時間を早め、また予め駐車場所を予約していたこともあってスムーズであった。9時20分ころ入場。

 いや、実に丁寧につくられている。両毛線に沿う北側から南側の小高い山との間に、正面ゲートを先端にした紡錘形の広い敷地にびっしりと花木が植え込まれ、それを見て回る散策道が張り巡らされている。人が多い。「只今TV撮影中。お静かにお願いします」という紙を持ったNHKのスタッフがいて、カメラが回っている。至る所の藤が紫色の花を垂れ下げ、地面を散り落ちた花びらで染めて満開を過ぎていたり、山盛り真っ白のフジの花が3メートルほどの高さから地面まで埋め尽くすように咲き乱れる。その前で背中をはだけたモデルが向きを変えて微笑み、カメラを構えた男性が右や左へと動きながらシャッターを切る。素人のスマホは自撮り棒を取り付けて一人であるいは何人かで撮影に余念がない。色とりどりのシャクナゲもボタンも栽培して名がつけられたツツジも、大盛盆栽の寄せ集めのように敷地を埋める。

 風景全体がフラワー公園だ。その中心がフジの花。5種類ある。一つの株が30メートル四方の藤棚に枝を広げ、高さ4メートルほどからたわわに2メートル近い花の房が無数に垂れ下がり、透き通るような薄紫の見事なおおいをつくる。ほのかな香りが漂っている。大長藤と名がついている。何本かの幹が寄り集まって径3メートルほどの一本の幹をなす。

 あるいはやはり藤棚から垂れ下がる大藤の幹は、痩せ枯れて中心部はボロボロとなり、それでも半径20メートルほどに枝を広げて、もう一本の同じように広がる大藤と藤棚の上で繋がって花をつけ、房を垂れ下げる。ここまで育てるには余程の手入れとご苦労があると思わせる。樹齢が80年から90年というから年数だけは私と同じようだが、いやこれは、かなわない。葉が外のフジとは違うキフジの房はいま咲き始めたばかりの風情。いずれこれがトンネルをつくるようになるには十数年を要するのかもしれない。楚々として控え目な感じがした。

 三脚の上に15センチくらいのフィギュアを載せ、その手先を穂歩に当ててポーズを取らせている男性がいた。三十歳くらいか。背景は向こう何十㍍かの藤棚に垂れ下がる見事な薄紫の大藤。人形の指には青いマニキュアが塗られている。着ている和服の柄にもフジの花がデザインされていてシック.だが目は大きな洋顔の藤娘。被り物はない。少し傾げた首が何かもの言いたげなのに言葉が見つからない気配を湛えている。なるほどこういう写真を撮ってインスタグラムとやらに載せているのか。無理難題を言って憚らないカノジョよりもこういうフィギュアの方がいいって言う男たちが増えているのだろうか。ちょっと分かる気がした。

 2時間くらいでは回りきれない。ましてハンカチの木や何じゃもんじゃの花も咲いていて、野草にまで目を向けると1日、2日でも足りないくらいと思われた。むしろ風景全体を味わうようなフラワーパークであった。そう言えば、照明のセットがあちらこちらに備えられている。若ければ夕方以降に入園というのも面白いかもしれないが、年寄りにはむつかしい。(つづく)

2023年4月23日日曜日

「ささらほうさら」の源流(3)個々が起ち上がる

 源流に集った人たちは、教育関係者ばかりではなかった。小中高の教師をはじめ、実習助手、事務職もいた。さらには、建築現場の監督、後には不動産屋も塾の教師も建設作業員や中学校の用務員も加わることになった。そんな多種多様な人たちが、思想的な結集軸も持たず、どうして「機関紙発行」という作業で、半世紀以上に及ぶ長い年月グルーピングをつづけることができたのか。グルーピングを「遊び」とする作法が貫徹したからであったと私は考えている。

 突出した癖の強い思想家が一人いた。彼を思想家と私が呼ぶのは、彼の人に対する方法的な問いかけにあった。なぜそうするのか、なぜそう言うのかと、次元を変えて問い詰めていく。何かの党派的な荒波にもまれて鍛えられたかのように感じさせる喧嘩殺法。もしそれがドグマを提示して問うのであったら、たぶん鋭さが半減したであろう。だが、何が正解であるかを彼自身も知らない。問い詰められた人自身が自ら応えを引き出すしかない場の設定。1968年の世界的な思想軸の混沌時代を経て、私たちの存在理由を改めて問い直す時機でもあった。問うこと自体がつねに根源へ向かう刃を持っていた。もちろん回答もまた、次元を一つひとつ明らかにして誰が誰にどんな状況の中で、その言葉を発しているかを自問自答するように要求する厳しさを含んだ。もちろんそういう鋭い問いと受けとった者もいるし、何処か次元の違う言説としてするりと身を躱してきた者もいたと私はみている。半世紀の間にグルーピングを離れていったものも何人もいる。

 この思想家の癖の強さというのは、レトリックを駆使し、向き合う相手の言説の弱さを察知してキリキリと切り込む。考える隙を与えない深さを湛えていた。外面的には負けず嫌いで面目に拘る。喧嘩に強い。もし彼の言説が前面に押し出されていたら、このグルーピングは空中分解したであろう。救いであったのは、彼自身が問うている正解を知らない(と感じている)という問い方の感触にあった。

 その感触は、問いかけの裏側に彼自身の生育歴中に突き当たったさまざまなデキゴトと人に対する不信と、意に反して(相手をぶちのめすように)振る舞ってしまうこだわりにあると私は思っていた。彼固有の身に備えてきた執心が彼をそのように人に対して向かわせている。それは私にはワカラナイこだわりであり、私の田舎と異なる都会地に育ったが故に、身の裡に胚胎した(世間に対する)反逆心のように思えたのであった。

 前回も述べたように門前の小僧・近代人の私にとっては、プチブル・インテリゲンチャという「身につけてきた殻を脱がねばならな」かった。それが奇しくも集まった人たちの、社会的職業階層や職能、学歴、地方と東京という、経てきた経験や文化状況の違いと、それらが背負っている身体感覚の差異に現れ、その確執がワタシの内面に引き起こした心底に届くような壮大な渦巻であった。

 じつはそこに、「遊び」が作用した。「遊び」はかかわる人の職能や学歴、来歴を無化する。癖の強い思想家は相応の権威的ヒエラルヒーを身の習いとしても智慧としても身に備えていたから、誰が何処から何を発言するかにとても敏感であった。やはりセンスの良い実習助手が文化状況について述べたことを私は面白いと思い、その思想家も良く読みとっていると評価はしていたが、その実習助手という立ち位置をして、岡目八目というあしらいを崩さなかった。私にとっては意外であった。ああ、この人の権威はこういうことにも作用しているのだと、私はワタシとの違いに感嘆したのであった。

 初代編集長が原稿本数とガリ切り枚数をゲーム化したことは、そうした思想的な評価をも無化する目を育んだ。そしてこれは、身に刻まれた習いこそがヒトの核心であり、そこに足場をつけてはじめて言葉が通い始めると感じさせる、別件逮捕のような作用力を持っていた。

 同時に、身を以て言葉にかかわるという厳しさを目の当たりにして、面々はそれぞれに自分の内心との自問自答を続けた。と同時に、作業変格活用に於いては、自分の立ち位置を身計らって振る舞うことをもっぱらにした。1980年頃だったか、埼玉教育塾を起ち上げたとき、その公開講座に参加した人の中には、もっぱら裏方として働くメンバーを気遣って、何かとんでもない(時代錯誤的な)ヒエラルヒーがこのグルーピングにあるんじゃないかと問うた大学教師もいたくらいだ。

 こうも言えようか。人はさまざまであり多様ですと言っていたら、たぶん自身を位置づけることはできなかったであろう。ささらほうさらの源流という限定されたグルーピングの中で自らの立ち位置を自らマッピングする。それができたのは、「遊び」という仕掛けによって、全人格的な感触がそのままさらけ出されて表出し、受け容れられたからではなかったか。それによって、却って、職能や学歴や経てきた文化的径庭の違いを違いとして承知して、まさしく「遊び」の領域に於いて同等に位置するという立場を得た、と。個々が起ち上がったのである。

 私は初代編集長のことを「遊びをせんとや生まれけむ」人と評したことがある。まさにその存在自体が「無近代」を自称する如く、近代的生活にどっぷりと浸っている小市民(プチ・ブル)であるワタシに批評的であり、私の日常に突き刺さる振る舞いに満ちている。いま少し、その刺激的な部分に分け入ってみよう。(つづく)

2023年4月22日土曜日

「ささらほうさら」の源流(2)遊びという感性

 ささらほうさらは、実によく遊んだ。むろん遊ぶために集まったのではなかったから、「機関紙」の発行作業をメインに据え「作業変格活用」と称して「遊び」に変えたと前回述べた。そのときどきの「論題」に上がったのは、教育問題であり、学校現場の教師と生徒であり、教育行政であり、それらは政治経済情勢や文化状況と地続きであったから、1970年の頃の世相を反映して、ほぼすべての世界の問題が意識の上では主題となった。それを初代編集長は「学事」と名付けた。砂浜での三角ベースボールもソフトボールも「運事」となり、麻雀その他のゲームは「遊事」と呼ばれ、宴会・食事などと並んで集まりに欠かせないイベントとなった。

 いわば「ささらほうさら」の源流となる集まりがすべて「遊び」として受け止める気風が生まれていた。「機関紙」の発行というといかにもいかめしい集団のように思えよう。だがそこでは実務手配的な編集方針が提示されるだけ。せいぜい百号記念などの「特集タイトル」振るが、何を書くかは執筆者の勝手というちゃらんぽらん。殊に初代編集長のエクリチュールの「遊び」は際立っていた。初期の一ページ一文一千字の、最末尾に句点が一つあるだけ、読点なしでビッシリと書き連ねられたり、見開き2ページ分すべてを四字熟語で埋め尽くし、評論家の中森明菜氏をして「エクリチュールの剰余」と絶賛せしめるという「遊び」の境地を体現して見せた。これは、文字を書くという人の行為そのものを「遊び」として突き放し、大真面目に何かを論じることを根源に於いて揶揄うアナーキーな所業でもあった。つまりそれによって、ありきたりのコトをありきたりに書き記すのが如何に馬鹿馬鹿しいことか、世の中の論題としていることが狭い世界のこざかしい料簡に満ちあふれて如何に滑稽であるかを反省せしめるほどの皮肉に満ち満ちていた。

 それはつまり、ものを書いていること、考えている主体であるワタシは一体何者かを恒に常に問い続ける呼びかけにもなった。そういう意味で、作業変格活用に集う人たちの全人格的な交わりになる作風を形づくっていくことになったのである。

 遊びの精神は、しかし、それにとどまらない。いまや畢生の作品『〈戯作〉郁之亮江戸遊学始末録』の作家・鈴木正興となった初代編集長は、その「後始末記」において、こう述べている。

    《……左様な文字密集軍団を速やかに行進させる上で心したのが一種自律性を帯びた文体、身体性を有した文体と言い換えてもいいかもしれない。その律動乃至諧調が調子こいたテンポ感で以て密集文字軍団を丸ごと前進せしめたと思うのだが、その際助っ人として任務を果たしたのが所謂だじゃれ、うがち、もじり、なぞらえ等の言葉遊びでもうこれはふんだんに挿し入れられている》

 つまり「遊び」は、その場に魂を釘付けにして味わう一発勝負。余計な解釈を寄せ付けないで笑い、愉しみ、悲しみ、鬱勃たる気分を味わい、ホッと安堵する設えと先行きどうなるのかという開かれた心地にさせる。それだけでいいのだと、この作家は述べる。これは、それ自体が近代批判である。近代は、集積された過去を未来に向けて組み立て直す人の営みを現在のワタシの視点を主体として描こうとする思考法である。遠近法的視野が、人の数だけ入り乱れ、ドイツ観念論哲学はそれを精神世界の普遍理性として描き出そうとした。唯物論哲学もまた理性の罠から自由ではなく、唯一絶対神に代わる権威を科学と人に求めて、特殊・個別性を捨象して人間を単純化してしまった。その結果「神は微細に宿る」を普遍化しようと文化的には、イマ、ココのコトゴトを大切に感じ取り大事にしようと、取って付けたような人生訓に変換してしまっている。八百万の神という自然信仰の土壌で育ったわたしたちは、近代先進欧米の圧倒的な力に押されて「普遍」が統合されている唯一絶対神を知らないままに、人生訓を解釈して「普遍」に辿り着こうともがいている。私のワタシも、その一人であった。

 それを鈴木正興の「遊び」は笑い飛ばす。彼は音楽を聴くように、ものを書き落とす。彼の「戯作」も「近代小説」ではない、読んで面白ければいい、「立ち止まって考えては作者の本意に反する」とまで懇願して、「無近代小説」と自称する。

 だが、「遊び人」でない門前の小僧近代人(プチ・ブルジョワ)であるワタシは、これをアナーキーと受け止めることによって欧米近代との端境を明確にし、八百万の神・自然信仰への橋渡しを試みようとしている。普遍はワタシの遠近法的消失点にある。そこまでは八百万の神の如く、ありとあるコトがワタシの普遍である。ありとあるコトが普遍というのは、つまり「混沌」である。ありとあることを混沌/アナーキーと捉えることによって、絶対矛盾的自己同一という西田幾多郎の足場としようとしたことを、門前の小僧の身の裡に築けるかなと思っているのである。

 遊びという感性が、欧米的近代の鋳型に嵌められて育ってきたワタシの脱出口に見えている。そのために私は、まだまだ「立ち止まって考える」ことによって着てきた殻を脱がねばならないのである。(つづく)

2023年4月21日金曜日

「ささらほうさら」の源流(1)身体感

 足掛け3年、精確には2年と10ヶ月ぶりに「ささらほうさら」の集まりがあった。半世紀以上、毎月親しく付き合ってきた、いまは年寄りの老人会。80歳団子を筆頭に70歳以上が集う。いうまでもなく、サザエさんやののちゃんと違って、昔から老人だったわけではない。集まりの名も渾名も、向き合う場面によって代わっていた。面々も世の平均年齢のご多分に漏れず彼岸に渡ったものも何人かいて、限界集落ならぬ限界集団の態を為している。

 17年前までは月に2回、それ以降は月に1回のペースで集まっておしゃべりの会をもってきた。集まる人の数も二桁を維持し、時には三桁になることもあった。どうしてこんなに長続きしたのだろうか。

 何か使命感があったわけではない。雲の中の水分が空気中の塵などを核にして雨粒になり雨となって降るように、核になる塵があった。それを半月間で出していた「機関紙」があったからと、初めのうちは考えてきたが、ではどうして機関紙の発行作業が続いたのかと問いを深めると応えは雲散霧消してしまう。

 機関紙の主たる問題領域は「教育」であったが、実際の記事を眺めてみると教育領野に限らない。本に関するコメントあり、メディアの報道に対する批評があり、仕事現場の日常にみられる年齢や性や職能にまつわる問題も、事象に関するとらえ方、その感覚や思索など、言葉を軸にして遣り取りすることのできることが盛り込まれていた。しかしそれが記事になったからといって批評するわけでもなく、ああ、彼奴はこういう風に考えてんだ、此奴はこんなことを思ってるんだと、人それぞれの身に抱えている感覚や思索の感触を、これまた受けとる人それぞれに感じ取っていただけであった。何しろ初代の編集長が、「出すことに意義がある。内容は問わない」と言明してスタートしたから、その気風が染み通っていた。

 だが、当初の3年間くらい無料で3千部ほど配っていたガリ刷り十数ページの隔週刊誌は、受けとった教育関係の現場では「メイワクだ」と言われるほど刺激的であった。簡略にいうと、啓蒙的・平等的・民主的風潮が覆っていた教育現場に、はたしてそうなのかと疑問符を突きつけていたのであった。教師と生徒の位置関係を巡って教師は管理的であることを放棄できるのか。むしろ権力的に振る舞っているし、そうしなければ学校lは維持できないのではないか。「教える-教わる」という関係には、権力関係を抜きにできない「大人-子ども」関係もあろうし、「指導-被指導」関係が予めセットされている。それを抜きにしては教師-生徒という関係は成り立たないと切り込んでいたからだ。「メイワク」だから無料にもかかわらずカンパが寄せられていた。だが、発足当初に、支援を受けた義理を果たした後は「有料」にして、無料の押しつけ配布を止めた。発行部数は3分の1になったが、そのころから書く側も主たる論題から目を離すことができなくなり、集まってのおしゃべりにもテーマが現れるようになった。ほんの中心軸の数名がそのような言葉を交わすだけで、集まった人たちはそれを小耳に挟む程度。遣り取りに加わったわけではないが、その気風が身体感に伝わっていったといおうか。誰が意図したわけではないが、主たる論題を直接議題にして遣り取りしたことは殆どない。そもそれを直に論題にしていたら、十年も持たない内に消えていたろう。

 では、なにが長続きした主因か。

 これは初代編集長の仕掛けであるが、機関紙の発行に「遊び」を取り入れた。異議有馬記念という競馬模様のファクトを、原稿執筆本数、ガリ切り担当頁数などに絞って統計的に取り込み、面々を騎手に見立てて競わせたのであった。実はこれを動機にして原稿執筆数が増えたという事実は、まったく何処にも見られなかったが、原稿本数とガリきりを前面に押し出すことによって、書かれている内容は二の次という身体感を培ったのだと、いまになって私は思っている。何が問題になっているかは、周辺にいれば分かる。「分かる」という次元がいろいろとあるように、言葉が分かるだけでは、躰がついていかない。躰が分かるには、自らの在り様を批判的に見る目が備わらなければならない。それには気風というか作風というか、その場にいることによって身に染み通るように伝わり受け継がれなければならない。その振る舞い方の中ですでに、誰もが同じように振る舞うべきだという平等主義的なセンスは取り払われていた。啓蒙的なセンスも誰が誰に向き合っているかによって千差万別であると、微細な関係の作法を通じて、否定的に広まっていった。それともに、しかし、啓蒙的な要素を欠くことは出来ず、そうするときの(人それぞれの互いの)立ち位置の違いを見極める必要があると、周辺の人たちの立ち居振る舞いが伝わっていった。これは、他人を鏡とするとともに、それを反照して自らを対象化してみることを必然化していった。

 誰かが意識してそうするというものではなかった。印刷したものを折り畳む、帳合いする、封筒に入れる、のり付けする。その間にお茶を出す、夕餉の支度をする、片付けをするなどなどを、誰かが指示して分担を決めてするというよりは、気づいてものが手近なものに取り付いて手早く済ませるという身のこなしが、伝染していったと私は思っている。それを初代編集長は「作業変格活用」と名付けて意識の目に止まるように図った。むろん作業ばかりではなかった。歌を歌い、ゲームをし、野球をやり、麻雀をやるなどの「遊び」を通じて、いわば全人格的な関わりの場面が展開したことによって、頭出考えるよりもまず躰に聞けという気風が生まれていた。これがあったから、月2回の集まり、日帰りから泊まり、年2回から3回の合宿というハードな関わりが頭でっかちにならず、身のこなしを通じて全人格的な相互浸透が常態化していたのであった。

 この「遊び」の仕掛け人・初代編集長が講師を務めた「ささらほうさら」の集まりが昨日あった。その講師の話を聞きながら私の身の裡に湧いてきた思いが、この「ささらほうさら」の源へと導かれていったのであった(つづく)

2023年4月20日木曜日

マンション価格の平均が1億4千万円!

 東京の新築マンションの価格が1室平均1億4千万円とTVが報道している。平均を押し上げているのは「新築」だけではない。オリンピックの選手村の(もはや中古物件といって良いような)販売も、不動産業者が買いあさりすでに転売しているものも出たという。6千万円余で手にしたものが9千万円余で売れる。こういうものが「平均」を押し上げている。

 何でこんなに高くなるのか。誰がこんなお金を持っているのか。そういう問いは、戦中生まれ戦後育ち・末期高齢者世代の金銭感覚。金融機関がお金を貸し、値上がりをも込んで転売することを目論めば、高いかどうかは「金利」の問題に見える。

 なにしろ金利は安い。政府の財布・日銀は金利をマイナスにまで持っていった。政府も景気刺激を意図して国債を発行し、日銀がその半数ほどを購入する。つまり市中にジャブジャブと紙幣を流してそれを「投資に」と誘いを掛ける。だが実体経済の中心である製造業は労働賃金の安さを目指して海外へ流れていく。日銀紙幣は不動産か株式への投資、あるいは外貨に換えて海外へ向かうしかない。米欧の景気と通貨の変動に不安を抱く欧米の投資家は円を逃避通貨と考えているのか、円を買って日本でやはり株式と不動産に投資する。株価が実体経済を反映していないといわれて久しい。東京の不動産バブルも、三十数年前のバブルの崩壊を再現するかのように、引き起こされている。短期的な視野のグローバル経済の成長論者は、実体経済がどうなっていようとも株価が上がっている間はほくほくとして資産の増加を喜んでいる。

 ところがこれが、日本だけの話ではない。欧米でもこうした金融バブルの到来が始まっている。シリコンバレーバンクやクレディスイス銀行の倒産がその始まりの予兆のように聞こえる。そこへ持ってきてコロナウイルス禍だ。政府はワクチンを買いあさる。医薬品業界は湯水の如く流れ込む世界大の資金集中に笑いが止まらない。日本も何百兆円を注ぎ込んだ。アメリカは景気刺激を含めて4千兆円規模の市場へのドル供給をしてしまった。それがまた、4年ごとの大統領選まで持ち越すことを時間的目安にするから、とどめを知らない。FRBが金利引き上げをしても一向に気にせずにアメリカの株価は上昇気分を崩さない。

 そこへまた、ロシアのウクライナ侵攻が始まった。医薬品業界ばかりか軍産複合体も勢いを取り戻した。アメリカの石油などエネルギー産業界も、ロシアを封じ込め中東と手を組んで行こうとした。だが、細く長くでもいいから石油資源を上手に用いて石油以外の産業基盤へ移行しようとしていたサウジアラビアは、ロシア締め出しによって高騰する石油価格を好機とみて、ウクライナ戦争=ロシアへの経済制裁状態の継続を歓迎した。さらにアメリカの凋落を見越して、サウジアラビアはオイルダラーを中国元に切り替えて行こうとしている。当然中国もそれを歓迎してスイスの金融機関を舞台にそれをすすめる。それにお灸を据えたのがクレディスイスの破綻だったともっぱらの噂である。中東の中央銀行がバックボーンであるクレディスイス銀行が半値で買い取られたということは、オイルマネーの価値が半減したことを意味する。中東の資金がドルを見放して中国元にリンクされるのも潰す。それによって、中東のオイルマネーの存在感を一旦白紙に戻して目を覚まさせてやろうとするアメリカの陰謀だという論調がまことしやかに流れている。事実はそうなっているから、その情報が後付けの物語なのか、そうシナリオを書いて運ぶ手立てがアメリカにあるのかと、リテラシーのない私などはなるほどそうだったかと、ついつい腑に落としそうになる。

 不動産売買価格の高騰だけではない。IRの許認可によって世界の資金を集めようという大阪の発想は、まさしく有り余って浮遊する世界中の資金の落とし場所をつくろうという狙い。岸田政権が防衛予算の極大化を口にしはじめたことも、アメリカの軍産複合体の再興と無関係ではない。また日本の武器輸出を策定し、軍事研究を進めて独自の軍需産業を成長させようとするのも、その先鞭として有無をいさわず日本学術会議を席捲しようとするのも、防衛のためというイデオロギーに引きずられてではない。それよりも軍需産業を引き鉄として成長経済を何としてでも延命しようと「すがる懸命の藁」なのである。バブルの夢よ再びというか、すでにバブルに向かっている泡(あぶく)のような経済政策は、庶民の実態生活とはかけ離れ、中味はスカスカになってきている。

 GDPの成長と庶民の暮らしがかけ離れていて、どのような経済政策がいいのか悪いのか、もうワカラナイくらい次元を異にする話になっている。それを紐付けて話すとすれば、わたしたちの暮らしの実体が何であるのか。その実態はどう展開しているのか。そこから話し始めなければならない。経世済民は、随分遠くなってしまった。

2023年4月19日水曜日

夏日のハイキング

 佐野市の唐沢山。この名を冠する山は随分たくさんある。スマホで検索しても佐野市のこれは出て来ない。『栃木県の山』(山と溪谷社)に紹介されていたから、地理院地図でそのルートを取りだし、コースを確認して出かけた。

 露垂根(つゆしね)神社が唐沢山の登山口。鳥居をくぐったところに5台ほどの駐車場とトイレがある。それ以上に「唐沢山神社」の案内看板が目につく。この地の御神体という扱いだ。すぐに樹木の覆った昇り道になる。と言っても地理院地図に記された唐沢山の標高は241m。なだらかな斜面が長く続く。

 歩き始めてすぐに気づいた。脚の筋力が随分へたっている。四国のお遍路をしているときは、30km/日歩いてけっこう脚力は丈夫だと思っていたのに、こうして山に入ると、たちまちボロが出る。あるいは、デスクワークをしている日が続くと、筋力はすぐに衰えるのか。平地が多いお遍路に比べて山の投降は、低山といえども侮れないってことか。

 唐沢山神社は戦国期の山城であったようだ。本丸や二の丸、北の丸、土塁、堀切、車井戸という深さ25mもの井戸跡も残されている。江戸初期に廃城となり明治初期に城跡に神社を建てたと由緒書きに記す。探してみたが唐沢山の山頂標識は見当たらなかった。神社そのものが山の頂上ってことか。

「京路戸峠→」の標識が要所にある。いまの栃木市と佐野市の往来に使われた峠のようだが、唐沢山から北の諏訪岳324mへ続く稜線上には、各所に佐野市方面への下山路が分岐している。この標識があって迷わず峠に行き着き、その先の諏訪岳や村檜神社への踏路をとることができた。

 気温が上がると聞いていたが、山を下りるまではそう思わなかった。スギやヒノキばかりでなく、ツツジなどの灌木や落葉広葉樹の樹林に日ざしが遮られて、心地よく歩けた。下山して車を置いた登山口までに辿った県道などに入って、照りつける日ざしの強さが夏を感じさせた。去年はこの頃からお遍路に向かったことを思い出した。この暑さでは今年3月のように歩けなかったのは無理もないと汗ばむのを拭いながら思った。帰るとき車に乗って外気温をチェックしたら28℃であった。百葉箱のTVでいう気温とは違う。町はとっくに夏になっている。

 アカヤシオ、ヤマツツジ、ホツヅジ、名を知らない小さい赤い花を密集してつけているようなツツジ、フジ、ヤエザクラなどが道筋を彩る。樹林が切れる所々から佐野市の市外に通じる平地が見えるが、山稜に囲まれた盆地はほぼ全部がソーラーパネルで埋められ、これがメガソーラーかと思わせる景観。興ざめであった。

 一つ以外であったのは、諏訪岳の登り。京路戸峠から村檜神社へのルートの途中から別れて上るが、地理院地図に書かれていたほど短い距離ではなく、けっこう登りでがあった。山頂に上ったら二組6人の人たちがお昼を摂っていて、これは今日初めての登山者であった。後から一人息せき切って上ってきた70年配の人は、着くとすぐに下山するという。どうしてと問うと、この山の下の会社に勤めていて、毎日お昼にここへ上ってきているのだそうだ。往復すると1時間かからないくらいなのか。まさしく里山だと思った。

 4時間の行動時間。車の往復で3時間くらい掛けている。午後4時前に帰着。ビールを飲み、一眠りして夕食を摂り、いまこうして山行記録を書いている。いい一日であった。

2023年4月18日火曜日

体感の構造

 いい季節になった。過ごしやすい気温が心地よい。部屋の寒暖計を見るとほぼ20℃。起きてパジャマを着替えるとき、おや今日はちょっと肌寒いかなと思った。半袖の下着ではなく長袖にした。その上に着るものもTシャツではなく長袖。昨日の昼間より冷えているのかな。

 ちょっと不思議に思うのは、冬場の室温と同じなのに肌寒く感じるのはなぜなのだろう。冬場、室温が17℃あたりになると空調の暖房を入れる。温める室温は20℃に設定している。だから今朝の室温は暖かいと感じてもいいはずなのに、なぜか冬場とは違って身体が受け止めている。

 この体感て、何だろう。寒いところから帰ってきて暖かいが部屋に入ると、ああ、暖かいと感じるのは、相対的温度としてよくわかる。逆の場合もそうだ。だが、外気に触れる前に室温に感じる体感は、外気に触れた記憶が相対的実感の反照になっているのだろうか。とすると体感というのも、随分観念的な要素を含み込んでいるように思える。

 季節的な変化への身体の順応も関係しているであろう。外を歩いて汗ばむか心地よいか。あさ3、4℃の冷気の中を歩き始めるときに身に感じる軽い緊張は、さあ、これから今日も歩くぞと身を引き締めることにもなって、私はうれしく思ったのは先月のお遍路のときであった。身体は寒暖計のように客観数値で感知していない。どちらかというと音を聞くように、リズムやメロディやその調性のテンポやズレの醸し出す響きが皮膚表面や骨や鼓膜に届いて何某かのイメージを湧き立たせる。それが心のふくらみとして身体の隅々に行き渡り、世界と交歓する感触として意識される。交歓というと、いいことばかりのように思うかもしれないが、そうではない。気色の悪い感覚、恐ろしい響きというような違和感、気温でいうと寒気がしたり、寒いわけではないが身の裡が怖気を振るったりすることもある。それは、外部の気温という空気の気配が、わが身の裡に堆積している何某かの経験値と相乗して醸し出されてくる感触である。だから外からの刺激に(良くも悪くも)応えて裡側が呼応しているのだ。

 その呼応に、身の習いというか習慣的に身体に刻んだイメージのようなものが絡んで、心持ちをポジティブにさせたりグリーフにさせたりするように、身の感官が働いているのかな。と同時にいまの私には年々その感度が鈍くなっていっている。だから以前にはそれほど感じなかった、冬場と春めいた3月と初夏に移行する現在の寒暖差の体感が、おやそう言えば違っているなあと頭で気が付くのかもしれない。

 つまり元気な若い頃には、外気温の多少の変動に気づくこともなくわが身の裡の熱処理装置の調整で片付いていたものが、肌着や上着や靴下や襟巻きなどで一つひとつを外部的に調整しなくちゃならないほど身体の自動調整能力が鈍くなってきた。そうしている自分に気づいたのが、今朝の「発見」であったということか。

 とすると体感ということも、外部環境との交通というか往来を通じて動態的に変容し、やはり無意識にその径庭を身に刻み、ふと気づいたときに何か新しいコトを発見したように意識世界に送り出していると言える。感官機能とそれを受け止めて「体感」として意識に送り届ける間をつないでいる「こころ」とはどういう構造というか、機能的な関係を持っているのだろうか。これもまた、面白そうに思える。

2023年4月17日月曜日

模倣の片割れかモンダイの引き継ぎか

 去年のa銃撃のyの模倣犯だろうか、選挙中の首相が襲撃された。それに関して、a銃撃を持ち上げたり、yに対する世論が甘いからだと(橋下徹などから)非難する声が上がっているという。簡略な速報ニュースでは、誰に対するどのような論脈の非難なのかワカラナイから、そう非難されるに値する気分を持っていた一知半解の門前の小僧として、それってそうか? と自問自答している。

 yの犯罪に関して私は、統一教会に対するyの怨念が教会の宣伝活動に一役買っているとみなされたaに向けられたとみていた。統一教会の活動がyの家族に及ぼした結果に関しては(その責任が誰にあるかは別とすれば)yが怨念を抱き、それを晴らしたいと思うのは(短絡かどうかは別として)よく理解できる。もちろんその私の感じた感懐が、yの起こした銃撃に対して「甘い反応」になるということもよくわかる。でもそれは、非難されるようなことなのだろうか。それが模倣犯罪の土壌になるという指摘は、yの犯罪がなぜ起こったのかを究めていくのとは違った、表面的なデキゴトの連なりに文句を言っているだけではないのか。

 yの犯行動機が判ってきた後に、統一教会の活動とaとの繋がり、さらにaが率いる党派や派閥の政治家たちがひとかたならぬ関係を持ち、教会の宣伝活動に深く関わっていたことも明らかにされてきた。ところが、その党派の総裁であるkは、政治家一人一人が対処することとしてほとんど放置するに等しい向き合い方しかしていない。当の政治家たちも「関係を断ち切る」と口では言っているが、それが本当に為されているのかどうか、また、これまで関わっていたことがどうモンダイであったかを、ほとんどの政治家は言葉にしていない。岡目八目の私が見ても、当の政治家が誠実に対処しているとはまったく思えない。

 なるほど井戸端メディアも含めてメディアは、よく調査取材して追求していたように感じる。私たちにはそれしか知る手立てがないから特にそう感じる。それに比して政治家たちの動きは「嵐が過ぎる」のをただただ待つように鈍い。見方によっては、関係する政治家たちはスクラムを組んで、このモンダイを一過性のデキゴトとあしらおうとしているのではないか。そう見える。今の日本社会の問題として位置づけ、政治家ばかりかyの母親のような心の行方がなぜ生まれたかにも関心をとどめていない。つまり現在の日本社会のモンダイとして捉えようとしていない。まるで他人事。お役所の仕事に転化しただけで、ほぼ傍観して、今度の統一地方選挙にも臨んだとみている。

 もし今度のk襲撃がyに触発された模倣犯だとしたら、yに対して「甘い反応」をしたのは、統一教会と関わってきた政治家たちであり、目下名目的であれそれを率いているkたちではないのか。それを、yの犯行動機に同情的な人たちに向けて非難しているのだとしたら、やはりそれも他人事扱い。見当違いといわねばならない。

 ひょっとすると模倣犯と言うよりも、yの衝撃的なモンダイ提起にもかかわらず、鈍い反応しか示さない世情に、再びカツを入れる意図があったかもしれないとさえ思う。とするとこれは引き続きのモンダイ提起。模倣犯罪と呼ぶのかどうか。yが提起したモンダイは、統一教会と政権党の当時のトップとが結託し、それを引きずった孫の代になって噴き出したように、その間の半世紀以上に及ぶ日本社会の歩んだ道と深く関わっているんじゃないか。

 日本の1950年代後半から現在に至るまでの経済的成長と爛熟と失速。冷戦の終結や一極支配への突入とグローバル化の世界。それがもたらした大いなる不均衡とほぼ捨て置かれ、資源的に搾取されるばかりのように扱われた未開発や発展途上国の人々。それらの動態的絡まりが生み出した日本社会の中の貧困と搾取と苛烈な競争、それが生み出す不安と鬱屈。その捌け口もない。高齢者はバブルの余剰を食い潰して、まだ余裕があるかもしれないが、その分「失われた*十年」のツケが若い人たちに被さってくる。この時代を生きた誰もが当事者である。

 yの犯行も、この世代の不安や鬱屈が臨界点に達したからだと見ると、彼の去年の犯行の始末が、社会的には少しも為されていない。まだ臨界点は引き続いている。yのモンダイ提起を繰り返し突き出してくる若い人が今後も陸続することは十分考えられる。

2023年4月16日日曜日

身の裡と外

 朝起きるとまずお茶を飲みコーヒーを淹れる。お茶は毎日持ち歩いたりできるように豆茶とか17茶というのを煎じたのが2㍑ほどつくってある。冬場はそれを軽く温める。4、50℃くらいかな、熱くはなく冷たくない程度。コーヒーを淹れるお湯は90℃がいいと思っているが、いちいち温度計で測るわけではない。小さい薬缶がコトコトと音を立て始めたら95℃と思っていて、それで火を止め、少し経って入れはじめるとちょうどいいはずと思っている。

 そのお茶を温める間に、コーヒーのソーサーにドリップの用意をして、コーヒーミルにコーヒー豆を入れる。ここまででだいたいお茶は温まっている。カミサンと二人分のお茶をカップに移し、改めて小さい薬缶にコーヒー用の水を入れて火に掛ける。そうして、コーヒーミルのコードをコンセントに繋ぎ手に持ってスウィッチを入れる。ウィーンと立てる音が豆を砕く音から砕かれた粉をさらに挽く音へと微細に変わり軽く香り立つのを感じて止める。これがだいたい25秒くらい。胸に押しつけてもう片方の手でポンポンと叩きミルの内部にくっついた粉を引き剥がす。そうしてドリップペーパーに粉を移す。ミルにもそれを移す刷毛にも粉が残らないようにする頃、薬缶がコトコトと鳴る。火を止め、テーブルへ運ぶお盆にコーヒーカップを乗せ、ドリップに軽く湯を注ぐ。そのお湿りがゆっくりと粉に行き渡った頃、薬缶からお湯をドリップに注ぎはじめる。時計回りに、お湯に取り囲まれた粉がペーパーの中で右に左に上へ下へと踊るのを感じながらゆっくりと注ぐ。香りが起ち上がる。ああ今朝も鼻は大丈夫だとミルを回しているときに感じたコーヒーの微香がちょっと違って鼻腔に届くのをうれしく感じている。

 その間にカミサンは血圧を測りコーヒーのお供の甘みを用意し新聞を取ってきて温めたお茶を飲んでいる。コーヒーをソーサーのままお盆に載せてリビングに対面のカウンターに置く。そうして私は血圧を測り、カミサンがカップに移したコーヒーを、お供とともに頂戴する。

 これが私の毎朝のルーティンワークだ。ふと気づくと、音、手指に感じる振動、香り、いろいろな手順の合間に、火の通りとか粉の挽き具合とか粉が湯を含んで膨らんでいく感触を感じ取って頃合を測っている。ずうっと前、初めの頃には時計で計るようなことをしていた。それがいつしかミルを回しながら数を数えるようになり、いまはウィーンと鳴るミルの音を聞いて粉に成る具合を感じている。つまり、時計という外部にあった「時間」が湯が沸くまでの(ほかの手間に掛ける)手順とか振動や音、沸き立つ微香に代わってわが身の「とき」になっている。そう気づいて、これがまたうれしいと思っている。

 外部世界であった「時間」が身に染みこんでわが内部の「とき」になった。それがいいことかそうでないかは判らない。外部世界が身に染みこんできているというかワタシが世界に溶け込んで行っているというか、世界とワタシが一体のものになっていく感触である。善し悪しは別としてワタシはその感触を喜んでいる。もちろん世界はただ単にワタシが受け止めているセカイにすぎないことも判っている。

 外を意識することによって内が起ち上がり、さらにそれを意識しつつ身の習いにすることによって、外と内の端境が溶け合って一つに感じられる。これが「関係」の動態的感触だ。それを感じることが世界というワタシには未だ不可知の外部を認知することであり逆にそれによってワタシという内部がセカイとして屹立していることを感知する。もちろんなぜそうなっているのかと自問すると、ワタシの内部もまた不可知の世界に満ちているとワカル。つまり外も内も世界もセカイも、内にも外にも広がりと奥行きを持っている。ヒトはそれを恒に常に往き来することによって動態的に外と内を感知し続けることを通じて、わが身が何処からきて如何なる地点に立ちどこへ向かっているのかを、若干感知することができる。そこに、生きることへの自問の自答があるような気がする。

2023年4月14日金曜日

AIも根拠を語らない

 いま、対話型AI(人工知能/チャットGPT)を使った遣り取りが評判になっている。ごく自然な言葉が繰り出される。文章にしても、ヒトが応答するよりも簡にして要を得ていると好評のようだ。他人事のように言うことはない。スマホの音声検索を利用すると、wikipediaなどを用いて音声の回答が返ってくる。どこまでそれがこれまでの検索と違うかなどは調べていないから善し悪しは分からないが、文章検索に見劣りするところはない。

 国会質問を(条件を入れて)チャットGPTに作成させ、それへの回答も(野党の質問に担当大臣が答えると条件を入れて)求めたら、これまたきちんとした文章が打ち出されてきたと今回の質疑応答でも遣り取りが為されている。役人の長時間勤務を軽減できるんじゃないかと政府も前向きになっているようだが、となると今度は、AIの出力した回答に手を入れるなと、入れたとしたらどこを、なぜ、どう手直ししたのかと質問が繰り出されるようになるかもしれない。エリート役人の、政府の意向を忖度した回答よりも、AIのそれの方が誠実となると、何だエリート官僚は要らないじゃないか、それよりも、情報をAIに読ませる入力を手仕事でする下っ端の方が(なにを、なぜ、どれくらい、いつ入力したかという)大切な役割を果たすことになる。いや、いまの反っくり返っている上意下達型官僚組織より余程誠実、忠実ってことになるかもしれない。いや、かもしれないというより、すでにそれは始まっている。つまりシンギュラリティは進行しているのだが、人がソレに追いついていない。

 面白いのは、同じように条件付けて問いを発しても出て来る回答は同じものとはならない。なぜ異なるのかと聞くとどう応えるかなと興味は湧くが、同じにならないというのは、ワカル。対話型AIだって、どの情報をどう処理してこうなったと出力の径庭と来歴を対象化してみることを仕組んでいないからだ。そうする必要がない。

 なぜ? ヒトだってそうだ。自分がなぜそのように回答するのかと自問したら、ワカラナイと応えるのが、自然。もし誠実に回答しようとしたら、これまでの人生の総覧を開陳することになろうが、それはしようとしてもできる相談ではない。つまり、対話型AIだってブラックボックスなのだ。

 ところが為政者はワカラナイといって済ませるわけにはいかない。辻褄合わせにテキトーなことを言うと信用を失墜する。ヒトは、忘れちゃいましたととぼけることができる。ついうっかり、ということもないわけではない。つまりヒトは、それに立ち会うヒトの人間観も相乗して、「だってニンゲンだもの」と許してしまういい加減さを感覚としてもっていて、必要なところでそれを使いこなす。そうすることによって急場/窮場を切り抜ける。こういう誤魔化しやオトボケをAIがどう学習し、応答に繰り込むか、大変興味深い。

 哲学者の東浩紀が「憲法2・0」の中で、ITを用いた国会の議員の役割を大きく変える提案をしていたことを思い出す。ソレを最初に目にしたときは、ほんの冗談のように思って受けとっていた。だがそうじゃないんだね。もう目前のこと。とすると、憲法審査会を開いている国会議員たちも、本気でAIを用いた大改革を、国民投票法も含めて大元から引っ繰り返して考えて貰いたいものだ。

 早く手を付けないと、アメリカでいま騒いでいるTikTokのように、too big to ban (禁止するには大きすぎる)と言われるように、多くの人が関わり、それに利害関係が生じてきて、いまさら中国政府が情報収集しているからって、それで禁止にされちゃあ堪らないと反発が出て来る。つまり国際関係に不都合があっても、存在することがデファクト・スタンダードになってしまうかもしれない。根拠を語らない機械的な処理社会にヒトが生き延びるには、ちょっと知恵を絞らなくちゃならないのかもしれない。イヤそうじゃないか。少々知恵を絞ったくらいで太刀打ちできる事態じゃないのかもしれない。ま、アナログ世代が口を挟む領域じゃないけどね。

2023年4月13日木曜日

根拠を語らない強さ

  もう一つ「根拠を語らない権力」がなぜ強いのか自問しています。1年前に述べたように、(そうすることによって)権力に向き合うヒトに(権力の意向の)内面化を図るからですが、なぜ、そうして内面化が促進されるのでしょうか。それがヒトのクセだからと私は考えています。

 でもどうして、それが人のクセになったのか。

 なぜそうするの? とヒトが自問するからです。

 なぜそう自問するのか? ヒトの自意識が形づくられるまでの間に、ヒトの感性や思考の原型は刷り込まれているからです。ヒトの文化の継承は、その大半が生活習慣の中で受け継がれ形づくられていきます。歩くことから始まり、喜怒哀楽も、趣味嗜好も、成育中の環境からもたらされ、本人はソレが何であるかを意識することなく身につけていきます。無意識の人間形成でもあります。自意識というのは、そのわが身が周囲と違うことに気づいたところから芽生えはじめます。褒められたり叱られたりする毀誉褒貶が、違いを表すことが多いのですが、なぜ褒められているのか、なぜ叱られているのかを受け止めるときでさえ、そのワケを意識することなく何となくこうすると褒められる、こうすると叱られるとイメージで受けとって、それに対する適応を身につけていっています。

 心理学では第一反抗期、第二反抗期と時期を分けて、自意識の変化を規定していますが、そういう、いつ知らず身に付けた感覚や思考の原型が、意識して世界を学びはじめて後の、自分の身の裡の不思議として残りつづける。いやわが身の不思議と(対象化して)見ていればそれほど苦悶することはないでしょう。だがたいていは、人と比べてわが身の偏りをなげき、わが身の環境の拙さを悲運と見てそしり、煩悶し、わが身の実存がイヤになってしまのです。それを抜け出すには、何かをするときになぜそうするのかと(自問ばかりでなく人にも)問うほかありません。その習慣がクセになると言えましょうか。そう私は、自答しています。

 子どもにとって大人は(存在それ自体が)不可知の権威です。その大人と(関係的に)接するとき大人の意向は権力となります。なぜそうするの? と問えばいいと、優しい大人はいうかも知れません。でもそんなことをしたら、いつも子どもは「問い」ばかりを大人に向けなければなりません。うるさいなもうと叱られるか、自分で考えなさいと諭されるかになります。

 でも子どもがそれなりに大きくなると、大人もそう簡単に子どもの問いを退けるわけにはいかなくなります。単純な問いほど応えにくいものはありません。問われてはじめて大人も、自分自身もなぜかは分からないでそうしてきた「わが身の不思議」に出合うってこともあります。いや、たいていは「不思議」ばかりなんだと、80歳になる私は今でも日々実感しています。でもこの歳になると、わが身の不思議はワクワクするような関心事なのですが、世の中の真っ只中で活躍している大人や、これからそこへ飛び込んでいこうとしている青年たちは、そんな暢気なことを言ってはいられませんね。子どもに問われたら、何某かの答えを繰り出さなければなりません。その時、間に合わせの答えをすると、ほぼ間違いなくウソっぽくなります。「不可知の大人」(の権威)がその一言で崩れ去ります。権威も、それをベースにして発動される権力も、そうなっては立つ瀬がなくなります。

 権力を行使する立場に立った賢い大人は、それを熟知していますから、「根拠を語らない」。「有無を言わせない」。しかしそれでは皆さんの支持をうることはできないよということから、あれこれと弁舌爽やかに遣り取りをするようになったのが、ギリシャの直接民主主義の始まりでしたね。結局そこで、弁論術という口先ばかり、反駁し相手をへこました方が勝ちという、口舌の輩が蔓延って、ちっとも人としての在り様の根拠を問うのに対して答えが出て来ない。分かったフリをして勝手なことを言うんじゃないよと、命を張ったのがソクラテスでしたね。それを文字に残して体系的なテツガクとして世に伝えたのがプラントンでしたっけ。いや、今お話ししようというのは、テツガクの話じゃないんです。そのギリシャをモデルとして、近代になって復活したのが民主主義でしたから、そもそも民主主義というのは、ワケを明示し、根拠を示して政治方針を決定するということが運命づけられているわけです。

 では、民主主義国家の権力ってのは、端から立論の底を見せて「有無を言わせない」力を揮うってことになる。これって、そもそもが無理なんじゃないと、私ならずとも思いますよね。そこで一つ提出されたのが、法的に決定されたことには遵うという法治主義でした。こう言い換えるとよくわかります。私たち人は完璧じゃない。それどころか、ヨノナカバカナノヨといってもいいくらい、私たちはちゃらんぽらんに物事を決めている。でも、皆で決めたことには遵いましょうというのを根拠とすれば、そこをスタート地点として民主主義は成立する。もちろんヒトは誤ることもあります。その時は、決定を修正すればいい。そうしましょうというのが、神のいなくなった人間社会の自己統治のルールになったわけです。最善とは行かないが、次善の策です。

 これは、中国がいま採っている「法治主義」とは違います。中国の場合は、どちらかというとプラトン的な考え方に則っています。次善の策では、状況に左右される人々の気分の移ろいによって賢者を死刑に処すことまでやりかねない。世の真実を見きわめ真理を見ることのできる理性を持ったものが御者となって統治してこそ、理想の国家が築けるというのがプラントンの理想国家です。中国は、共産党という真理真実を見極めることのできる、謂わば理性の権化=共産党が指導してこそ、統治は理想的に展開できると論理立てをして、そこからすべての政治体制を導き出しています。これも、民衆の暮らしを最重要にした人民民主主義だというわけです。民が自身で統治するのではなく、理性を持った御者が知恵を発揮して民の幸せを中心に据えた統治をするというのですが、これって、お上に任せて過ごす民草って響き。それが民主主義なら、江戸時代の武士の統治に任せるほかないどこが違うのでしょうね。

 民の民による民のための統治というのが民主主義だと思うと、まず統治に必要な情報は民に開示して、どういう論理立てで、そういう維持決定になるのかを筋道立てて示さなくてはなりません。情報開示が不可欠。でもそうなると、不可知性は消えますから、「権威」は消えてしまいますね。その矛盾に苦しんでいるのが、今の日本の政治ってとこでしょうか。投票率が下がってるのは、愛想を尽かしている反面、どう転んでもそう悪くあるまいと高をくくっている姿でもあります。政治学者の一部には、強権的統治は東アジア民族の体質に合ってるんじゃないかという言説まで出るほどです。

 この状況を何とかしたいと思う為政者が、ついつい「根拠を語らない権力」の魅力に取り憑くかれるのは、わからなくもありません。アベ=スガ政権がそうでしたね。でもそのお陰で官僚機構のエリート意識は腐り始め、周りの政治家たちもすっかり陣笠に堕してしまっています。ソクラテスに死刑判決を出した市民たちのようです。プラトン・パラドクスとでもいいましょうか。テツガクなきソフィスト政治といいましょうか。中国式のプラトニズムもイヤですが、ソフィスト政治も御免被りたいですね。

2023年4月12日水曜日

わが身の不思議をみる面白さ

 1年前(2022-04-11)の当ブログ記事「権力は根拠を語らない」を読み返して、自問が浮かんだ。

《「根拠を語らない権力」が、受け止める側に(権力の意向の)内面化を促進し、忖度をもたらす。なぜそうなるのか。》

 有無を言わさず指示を実行させる。それが「権力」だからです。

「有無を言わさず」だって? 何だ、それでは同義反復(トートロジー)じゃないか。有無を言わさず指示を実行させることができるのは、なぜか。それに応えてよ。

「権力」は、限られた集団の中で作用する。だから国家権力に限らない。会社であれ組合であれ学校であっても、集団という集団で権力は働いている。いやそうじゃないよ。私の関係する集団は民主的で、そういう権力で動くまとまりではないからという方もいよう。それはそれで作用する権力の強弱濃淡はあろう。だが、主宰者とか責任者がいる集団は、何某かの力でまとまりをつくっている。それが「有無を言わさず」という形は取らなくとも、そりゃあそうだよねと面々が(暗黙に)合意するいう空気が、その作用をしている。

 えっ? それって、権威じゃないの? というかもしれない。そうです。暗黙の合意というのは、通常「権威」と呼ばれます。だが、長年のしきたりで、そうすることとなっているものも、あるいは文書化されて決まっていることも、権威であるとともに、それが作用するときには権力となると言えます。長年の社会の習慣も、そういう力の背景になるわけです。年功序列を当然としてきた社会習慣が「若輩者がだまっとれ」と年少者を叱る言葉になります。男社会の習慣が「女のくせに」と女性を誹る言葉になります。

 つまり社会のどこにでも、権威があるところ、権力は潜在しています。だが権力はそれが作動するまでは、皆さんの心裡に根源を保ちつつ身を潜めていますから、私たち庶民大衆は、自分が権力の片棒を担いでいるなんて思いも寄りません。かつて「空気読め/読めない」が話題にときの、「空気」を支えていたのは外ならぬ、その場に居合わせた庶民大衆です。1970年前後に「わが内なる権力を問え!」と論壇で遣り取りが為されましたが、それはココを問題にしていたわけですね。

 ということは逆に、権威の社会的動向によって、それが作用するときの「権力」は揺れ動くってことになる。そうなんです。ロシアのプーチンにしたって、ソビエトが崩壊し、ほかの国民国家と同一平場に立たされたときに、(ソビエト)ロシアという、かつて米国と肩を並べて世界の覇権を争った「国」の敬意が受けられないことに腹を立て、不安を感じたとウクライナ侵攻を分析する見解があります。中国と違って、民主的な手続きを残したロシアの政治・社会システムが、人々の支持する方向を自在にし、ヨーロッパ寄りになることに不安を覚えたのが、初発の動機のように私は考えています。ウクライナがNATO寄りになる。それは即ち、いずれロシア(の政治・社会)がヨーロッパ型になることへの傾きです。武力はともかく文化的な権威は、とっくに強権ロシアを見放してヨーロッパ型民主ロシアへ傾きかけていた。それを不安と察知したプーチン・ロシアは、早くから野党を弾圧し、反権力ジャーナリストを文字通り闇に葬り去り、懸命に大国ロシアを守ろうとしてきましたが、とうとう(NATO、あるいはウクライナという外に向かって)武力を行使するほかない瀬戸際に(心情的には)追い詰められていたのですね。

 権力の崩壊の前段で、権威の衰退があるのですね。

 では何によって「権威」は支えられているのか。なぜ揺れ動くのか。そう自問する問いが、内心のワタシから繰り出されています。長年の身の習慣は、骨がらみといって良いほど、ワタシの身に染み付いています。

 私はいまでも年功序列的なセンスを持っています。年功序列というのは、年を取っていることへの敬意です。なぜそういう「敬意」をもっているのか問うたこともあります。もちろん幼い頃のみた「大人」はまさしく偉大でした。親がそうであり、周りの大人たちも子どもの知らない世界を(体験として)かかえている。それは「みえないセカイ」、不可知の世界でした。つまり知らないことへの「恐れ」や「畏れ」が「敬意」に転化していたと言えます。

 ではだんだん大人になるに従って、年上への敬意は薄まってきたか。薄まってきたとも言えるし、相変わらずとも言えます。薄まってきたというのは、私自身が年寄りになってきたから。そうすると、子どもから見て不可知の体験でも、自分自身から見ると経てきた径庭ですから、振り返ってあれこれ考えることができます。ヒトとしての体験は、振り返って恐れ/畏れを感じるような特異なことではありません。当然、自らへの畏敬の念はどこを探してもありません。ただ長年の身の習慣が、じつは関わった世界の関係がもたらした集積だという実感です。

 それが、「恐れ/畏れ」の対象の変化へと向かわせます。「大人」への「恐れ/畏れ」ではなく、ヒトが体験することへの「恐れ/畏れ」です。世界は広いというと、ただの未体験領野が大きいという想像の感嘆です。だがじつは、知れば知るほど「知らない世界」があることを痛感します。宇宙の神秘を教わったとき、その「知らない世界」がわが身の外にあるのではなく、外にあると同時に、わが身の裡にあると知ったことです。はじめ、ヒトの世界の文化がわが身に堆積していると思っていました。それがなんと、地球における生命体の歴史の蓄積がわが身そのものだと思うようになりました。さらにそれが、ビッグバッとその後のミクロの世界の結合の結晶がわが身なのだと知られると、わが身そのものの中に不可知の世界があると思うようになりました。それは、ワタシという大きな不思議の発見でした。それは、ワクワクするほど面白い感触をもたらしています。

 知るというのは、知らない世界があることを知ることだと、身に染みて感じています。もちろんそれが、面白いから、ついついその先へと、門前の小僧でありながら踏み出してしまう悪いクセがわが身の習慣になってしまいました。ニンゲンて面白いなと、思っています。善いとか悪いとか、そんなことはどっちでもいいのです。ついつい考えてしまう。なぜワタシはそう感じるんだろう。どうしてそう考えるのか。何を根拠にそう判断しているんだろう、と。

 そんなこと、メンドクサイじゃないかと友人はいいます。その通りです。そんなことを知ろうと知るまいと、ワタシは存在しているし、生きていけます。でもそれが年を取る上では、ヒトのクセとして極上の味わいを持つと思えます。逆にこれは、年を取らなくては味わえなかったことです。しかもとどまるところをもちません。永遠の問い。そう感じることが、また、ますますワクワクに通じているのです。

 そういうヒトの存在に「恐れ/畏れ」と敬意を感じていることが、堪らなく生きていることを証し立てるように思われて愛しい。そう思う自分が、ラッキーだったと誰に感謝するともなく有難いと思う。それが今もワタシの年功序列センスを支えています。

2023年4月11日火曜日

すっかり同居?

 一昨日(4/9)のこと。校正作業をしていて、ふと、思い出した。そうだ、今日は弟の命日だ、と。もう9年にもなる。

 7年目には夢枕に立った。

 去年は、「今日はお釈迦さんの誕生日だね」と口にした私に、「明日は(Jの)命日ね」とカミサンが告げて思い出した。今年はほんとうに、(ふと、思い出した)。そう口にすると、カミサンはとっくに気づいていたように「早いものね」という。

 9年前には涙が止まらなかった。夢枕に立った7年目までは、弟の死をデキゴトと捉える感覚があったのかもしれない。それが、この変化。近親者の死を特別のことと感じなくなっているのかもしれない。(ふと、思い出す)ように変わっている。(遠くなりにけり)かというと、そんな感触ではない。

 私の周囲の知人も、次々と亡くなっている。コロナ禍もあって、お知らせだけとなる。(そうか、彼も亡くなったか)と10歳上、7歳上の知人の訃報を手にしている。あるいは私よりも若い身近な人が危篤になり、見舞いに行った翌々日に亡くなるということにも出遭った。亡くなるということが「普通」になったのかな。80歳を超えて、友人知人と会うとき(ひょっとするとこれが最後)と思うようになった。遠方に住む兄弟には、別用で近くへいくとき、必ず立ち寄って会うことにしている。顔を見るだけでいい。言葉をちょっと交わすだけで構わない。黙って酒を酌み交わすというのなら、もっと良い。そんな気分だ。

 特別なことと感じないというのは、こちらも彼岸に近づいているからでもある。彼岸と此岸の端境がグラデーションになって、身の感覚としては溶け合い始めている感触が近い。霊魂とを身とを分けて考えている人なら、魂が往き来するようになったというかもしれない。だが私は、心身一如。身と魂は恒に一緒とみている。つまり彼岸もわが身の裡にあると考えている。彼岸と此岸がわが身に於いて溶け合うというのは、ものを思うヒトの感性の側からいうと、身の裡に彼岸がはっきりと起ち上がり、此岸と同居し始めたと言えそうだ。これまで彼岸は、文字通りむこうにあった。こちらに棲まう身としては他人事であったといっても良い。

 そうか、そう考えると、弟の死を悲しんだのは文字通り「永久の別れ」と思って、会えないと感じていたからだ。だがじつは弟は、わが身の裡にいた。生きているときだって、そうだったではないか。弟Jのヒトとしての感触は恒にわが身の裡に湛えられ、現れたり消えたりしていた。実際に会って身の裡のJと違う弟の姿を感じたとき、それは、ワタシのしらないJ(の発見)であって、でも、(それまでは)、ワタシのしらないJが私の弟であった。逆にその感覚は、弟Jはカクカクシカジカのヒトだと感じ、みているのはワタシ一人の偏見でもあった。実存のJが、それと違うのは当たり前で、その違いを気づかないで向き合うと齟齬が生まれ、確執・葛藤となり、あるいは発見の元となる。

 だが弟が亡くなり、齟齬も確執も葛藤も発見もなくなって、実はわが身の裡にいたとワカルようになった。彼岸もまた、わが身の裡にある。なんだJはいたんじゃないか。そう実感できるようになるのに、8年掛かったということか。 

 とすると死を悲しむことはない。もちろん齟齬や確執や葛藤、発見がある方が、生きている存在感があっていい。生きている当人からすると、実存が承知されている感触である。その実存感というのは(その人に向き合う)ワタシからすると、わが身の(知らないそのヒトの在り様)があって、わがイメージや感触や思い込みが修正される(動態的)可能性にあるということを意味する。

 動態的可能性は、しかし、死に伴って失せるものではない。Jを知る人の思い出話、彼の仕事が残した痕跡、それに触れるごとに、ワタシの中のJは修正されていく。それも実は、わが身の(そのときの)関心や傾きに左右されて思い起こされ、発見し修正されていくから、動態的関係を表している。そうなんだね。ヒトの文化が受け継いでいることっていうのは、そのようにして周囲の人との関係に記しとどめられ、ひょっとするとそれとして意識されないうちに継承・伝承され、人類史の刻む文化として受け継がれている。そういうものだと言える。

 これも蝶の羽ばたきと思えば、やはり最後の最期まで、羽ばたきつづけるしかない。そう思うのである。

2023年4月10日月曜日

他人事にする手続き

 一日中校正をしている。読むでもなく、読む。本当に読むと、誤字脱字に気づかないことが多くなる。文章を読むときには、文字を見るというより意味を汲み取っている。山行記録だから、頭の中に場面が起ち上がる。かつてわが身が体験したことだ。彷彿とするというが、まさしく再現されるかのよう。鬱蒼とした木々に囲まれた小径、ゴツゴツした岩をバランスを取りながら踏んで歩く様子が胸中に甦る。

 危ない岩場などを通過し終わって平地が見える九十九折れの一つの角を曲がるとき、躰が大きく迫り出して転落したことがあった。それほどボンヤリしていたわけではない。でも気が緩んでいたことは確かだなあと気分も湧き出す。なぜ足を踏み外したかは「わからない」と記している。細い道ではない。山道としてはわりと幅があった。にもかかわらず「わからない」というのが2019年の記録。だが、2021年の滑落事故後の今は、分かる気がする。手当てをした医者が診察後に「これは事故の結果じゃなくて原因だよ」といった頸随の圧迫。

 そんなことを思い巡らしながら校正をしていると、文字はどこかへ行ってしまう。読むでもなく読み、何を意味しているかは外さず、想像力を空にして文字列を目で追う。こういうのって、エクリチュール・ヴァーチャルを横に措くっていうだろうか。そんな埒もないことを考えながら、デスクワークをしている。

 校正をしていると、ものを書くときの私の欠点が露わに目に止まる。PCでタイピングをして書いているから、タイプミスや変換の誤字が多くなる。3年前まで使っていたPCのキーボードは、キーの文字がすり切れて見えなくなっていた。そこへもってきて根がせっかちなものだから、指が勝手に動く。昔はブラインドタッチといった。「ところが」が「とろこが」になったり「山行記録」が「参考記録」になっていたりする。加えて5年ほど前から、デュピュイトラン拘縮という、2百年前ナポレオンの主治医をしていた人の名がついた手掌の不都合を患ってきた。指が思うように動かない。自ずからブラインドタッチができなくなり、打ち間違いが多くなる。そんなことが胸中に彷彿とすると、ますます文字列を追えなくなる。

 時々垂れている首を後ろに反らせて首と肩の凝りをほぐす。そうして、ふと思う。ひょっとすると本にするって、この校正の味わいを身に染みこませるためにしているんじゃないか、と。

 校正の味わいって?

 かつて書き落としたものを、読むでもなく読むという行為を通じて、他人事のようにわが身から離れてゆくことの手続きなんじゃないか。誰が書いたか分からないものの、文字列を追い、意味することの喚起するイメージを脇に措いて、でもこの表現で(世に流通するセンテンスとして)いいのかなと、クールに見る。山の名など、案外我流のものが多い。尾瀬の「燧岳」が「燧ヶ岳」だと、山と溪谷社の「日本の山」にはある。「赤鞍が岳」と表記した山名が「赤鞍ヶ岳」なのか「赤鞍ガ岳」なのかわからない。山と溪谷社の「東京周辺の山」にも載っていない。地図から拾って「赤鞍ヶ岳」であると確認する。私的記録だと、「赤鞍が岳」で一向に構わないのだが、本にするとなるとそう言って済ませるわけにはいかない。わが身から突き放して、他人事にする。つまり私的なエクリチュールも、公的なものとするには、それだけの手続きが必要になる。

 人と言葉を交わすってのにも、こういう校正の味わいのような手続きが必要なのではないか。一旦湧いてきた言葉を口にする前に胸中で吟味する。なぜそう感じるのか。そう思うのか。それらの根拠を確認する。言葉を交わすというからには、いちいち立ち止まって考えているワケにはいかない。これを癖にする。そうすることによって、慥かな意思表明ができる。そんな感じがする。メンドクサイね、人間て。

2023年4月9日日曜日

失われたのは国民的一体感

 WBCに日本チームが優勝して後のTV番組を見ていると、もう大谷翔平しかいないのかよと言うほどに、オオタニ・ショウヘイ、一本槍。あるいはその余波である、野球、または大リーグ。企画の貧困というか、誇らしさのよりどころがココしかないと謂わんばかり。これって、ナショナル・アイデンティティが消失間近な反照なのかと感じさせる。失われた*十年というのは、ひょっとすると国民的一体感を感じる「誇らしさ」の喪失じゃないかと思った。

 暮らしにおける国民的な一体感はどういう盛衰をたどったのか。

 大方が等し並みに貧しい時代には、経済的に豊かになること、衣食足る暮らしのできることが国民共通の希望であったと、先に述べた。高度経済成長のはじまった頃のことだ。それはナショナル・アイデンティティと呼んでもいい気分の共有であった。「芸術は爆発だ」という岡本太郎がもてはやされたのは、重厚長大と言われた産業的な生産活動の頂点の頃、1970年の大阪万博のころのことだ。安かろう悪かろうといわれた生産活動に品質管理が持ち込まれた。エネルギー資源の乏しかった日本の工業が、石油危機を経て環境汚染と省エネに取り組み、自動車産業においてアメリカを追い越し、一躍世界のトップに躍り出たのは1980年のことであった。繊維産業中心だった日米貿易摩擦の焦点は、鉄鋼や自動車に移ってきていた。

 それは同時に後から考えると(国内的にも、先進国間に於いても)、重厚長大型産業から多品種少量生産へ移行していく時代になっていた。労働賃金が高くなり、人々の暮らしは食べていけるかどうかではなく、「おいしい生活」(1982年)に移っていっていた。好みも多様化し、サービス業が主軸になり、国内交通網が整備され流通業が増えていった。

 そのころから加速した物質的な豊かさの進行に伴い、共有していた一体感がさまざまに別れ、「人生いろいろ」と島倉千代子が歌ったのは1987年。学校の教育における画一化が非難を浴び、多様化が推奨され、文科省が「ゆとり教育」を提唱したのは1980年であった。暮らしにゆとりが出てきた。生き方もワンパターンでなくなった。それと同時に、豊かな家庭に育てられた子どもたちにも、変化がみられるようになった。非行、暴力、不登校からはじまり、「ふつうの子どもたちが変だ」といわれ、学級崩壊が広く報道されるようになったのも、1980年代であった。

 皮肉にも、1960年代初頭の国民的な共通の希望が実現することによって、同じようなものを着て、似たような暮らしをすることへの疑問が生じてきた。高度経済成長からバブル時代を通じて進行した暮らし(感覚)の変容は、人々の紐帯を地方行政へ明け渡し、個人が単体で社会に投げ出されるような個人主義の時代を生み出したのであった。

 思い起こすのは三十数年前。1980年代の一億総中流と呼ばれた経済的バブルは、大方の国民が日本の勁さを豊かさに実感し、鼻高々だった。これはナショナル・アイデンティティの最後の照り輝きだったと言えよう。大蔵官僚が主導するエリート統治は、もっとも成功した「(革命なき)社会主義」として欧米知識人の常識となった。日本の終身雇用、会社勤めと人生とが一体化している昇給制度とか、株主よりも従業員との一体感を重視する)日本的経営の利点が、盛んに取り沙汰された。社会文化を含む社会関係の欧米との違いが肯定的に評価され、ナショナル・アイデンティティとして受け容れられた。WWⅡに勝ったのはどっちだと巷の評判であった。これが1991年頃まで続いたバブル経済にみるナショナル・アイデンティティの最後の輝きであった。

 それが、1990年代半ばから変わってきた。世界の経済競争のトップランナーになったと言われたバブル経済が1991年~1996年にかけて崩壊して以降、なぜか日本経済は影を潜めた。単なる(日銀や政府の)金利・金融政策の誤りといえないさまざまな要因が絡んでいる。

 それが1989年に始まる東西対立の終了、その後に続くソビエトの崩壊とどう関連しているのか。「歴史は終わった」とアメリカのフランシス・フクヤマに言わしめたアメリカの一極支配体制とどう関連して、どう世界政治が動いたのか、分からない。父ブッシュ米大統領が日本を訪問して600兆円の日本の国内需要喚起策を要請し実現したことはよく知られている。なぜそれが受け容れられたのか、私たちにはわからない。それで「なぜか」と言ったのだが、アメリカの強い要請があったことは当時の外交官が証言しているが、なぜ日本の為政者がそれに合意したのかは、分からない。陰謀説も繰り出されていた。

 符節を合わせるのが、IT時代の到来であった。アメリカのゴア副大統領が全米にITネットワークを張り巡らしたのが1993年、たちまちそれは世界を席巻し、アメリカン・スタンダードが世界を覆うようになった。日本の政財界に対して陰に陽にさまざまな働きかけが為され、日本はそれに対応する経済的な改変を行わざるを得なかったと、大方のエコノミストは指摘する。産業社会の発展段階の前期である高度経済成長が終わって高度消費社会に突入したとき、経済のフィールドは大きな転換に入っていた。日本より一歩(約20年)先んじていたアメリカや経済統合することによって進展のばらつきを補正してきたヨーロッパと同じ道をたどることは出来ないにしても、高度消費社会における産業へ大きく転換する時を向かえていることを意識しなければならなかった。

 表だって目に見えたのは、1990年代半ばから急速に進んだ経済のグローバル化と金融市場の流動性の活発化である。会社法が改定され、企業の会計基準を世界標準に合わせるなど、株主の利益を主体とした経営へと改められていった。企業買収(M&A)や企業の吸収・合併が盛んに行われるようになったのはそれに少し遅れてから。コンプライアンスという言葉が駆け巡った。総会屋が閉め出され、経営者と暴力団との関係が断ち切られた。企業は収益を上げることが最優先され、株価の推移が経営や経済政策の最優先関心指標となったのもこの頃からであった。

 これは単にアメリカ式経営へ移行すればいいというものではなかった。アメリカン・スタンダードの適用に順応するためには、旧来の日本的システムと齟齬する部分を改革するほかなかった。だが、それには旧来の家族制度や社会の気風に手を付ける必要もあった。日本の「終身雇用」と呼ばれる仕組みは、人の生涯の変化に合わせて昇給もし昇進もしていくものであった。それに伴う昇進や昇給、雇用や転職やのシステムを抜本的に変えるしかない。しかし、そんな社会意識とシステムの改革が政府の政策で変えられようはずもなかった。保守政治家は古い社会通念に基盤を置いている。経営者はグローバルな競争に備えて身を護ろうと備えを固める。

 リーマンショックの後だったか、ニューノーマルという言葉が経済誌を賑わした。新しい事態が定着して、新しい社会の常態になったことをそう呼んだ。だが、どれほどの企業経営者がそう意識していただろうか。

 コンプライアンス(法令遵守)を(不正が)見つからなければ守られていると考える経営者たちは、旧来のセンスのままで新しい事態に向き合っていたと言える。会計も、製品検査も、誤魔化し、隠蔽し、内部告発によって初めて、公的な場で頭を下げる。しかし見つかったのを悪かったとは思っても、やったことが悪かったとは必ずしも思っていない。自分のために不正をしたのではないとわかると、それだけで「不正」を許容する空気が会社にも、社会にもある。ここでも視野が、ごく身近に、そして短期的に狭窄されている。万一に備えて、賃金を削ってでも社内留保金を蓄える。大企業は、下請け企業への生産価格圧力を強め、安価な海外への発注へ舵を切る。関係部所や人は切り捨てる。雇用制度がそのように変わってきた。正規社員は調整しやすい非正規社員に代えていく。中小企業も中核の技術者を引き連れて、労働力の安い海外へ出て行くほかない。当然のように、日本の国内でそれなりに創造的な仕事をしていた技術は流出する。

 海外で安く生産して輸入すればいいじゃないかと考える産業家、エコノミストや為政者も多くなる。しかしそれが経済関係だけで(機能的に)考えればいい問題でないことに後になって気づく。国内の優秀な技術者も海外へと出て行ってしまう事態となった。輸出産業中心に政策が組まれ、大企業中心に施策が練られ、国内全体を見通した構造改革の戦略は、どこかに祀られてしまっている。30年経って気づけば、それでもまだ、ましだ。いまだにGDPの成長が滴り落ちることで国民皆が豊かになると信じているエコノミストが、その分野だけの狭い了見だと気づくのは、何を契機にしてだろうか。

 すでに人々の心持ちの中では、国民として一体性を感じる要素は1980年代を通じて崩れてきていた。しかしそれも、バブルのシャショナル・アイデンティティが効果を持っている間は表面化しない。それが崩壊して、一気に噴き出したようにとりあげられる。1996年に文科省は学校の儀式における国旗掲揚・国歌斉唱を義務づけり指示を出し、1999年には「国旗・国歌法」を成立させて、現場では「口パク」を禁じて管理職がチェックするということまで知りようになった。これは、そうでもしなければ保持できないほど、国民としての一体性が薄れてしまっていたのである。

  失われた三十年。失われたのはナショナル・アイデンティティだ。

2023年4月8日土曜日

自然(じねん)の劣化

  昨日の午後のこと、カミサンが「タイヤの交換はいつ?」と聞く。「う~んと、いつだっけ」とちょっと思案して、あっと気づいた。前日の午後2時だ。すっかり忘れていた。というか、その前々日までは、いつタイヤを車に積み込むか考えていたのに、それもこれも頭から飛んでしまっていた。と同時に、そう言えば、今朝は歯医者の予約をしていた、それを忘れてすっぽかしたことも思い出した。しかも歯医者は、2月の末に予約していたのをお遍路帰りで忘れてしまってすっぽかし、そのリベンジで予約したものだったから、ダブル・ミスってワケだ。やれやれ。

 タイヤ交換は、すぐに電話をして謝ったら、電話口の受付嬢ははははと軽く笑って「え~っと、次の交換可能な日を調べますからちょっとお待ちください」と言って、(よくあることと)さして気にしていない様子。ホッとする。歯医者はちょうど午後の休憩タイムだったので、電話をしそびれている。どうしよう。

 なぜこうなったかに実は、心当たりがないわけではない。もっか近々刊行する本の校正をしている。全部で600ページを超えるかという分量があり、分冊にしましようかと話が持ち上がっている私の著書。校正もそれの半ばをやっとすぎたところ。1日取りかかって20ページ程度しかすすまない。寝ても起きてもというワケにはいかないが、起きて家に居る間は概ね校正をしている。昔からそうだが、何か一つ夢中になって取りかかると、ほかのことが頭から抜けてしまう。発達障害じゃないかと(カミサンに言われ、自分でもそう)思ったこともあったほどだ。カミサンは、仕事を片付けるのが早いと褒めてくれたこともあるが、早いというよりも、それをやり始めるとほかのことがすっ飛んでしまって気にとまらない。一つひとつ(思いついたときに)早く片付けておかないと、忘れてしまうと思っているから、とりかかったときに始末する。それが長期に亘る持久戦になったりすると、怪しくなるってワケだ。

 頭の中を覗いてみても、ワタシの関心がどう移ろっていて、どこに、なぜ、どうやって焦点を合わせているのかもわからない。きっちり連続しているコトとか断続的に思い浮かぶコトとか、たとえば雪山に行こうと考えていて、そのために冬タイヤに交換するというモチーフがあれば、たぶん、忘れずに関心の胸中にとどめているだろう。つまり身を動かすアクションに繋がっていると、その下準備に当たることも忘れずに胸中の関心事としてとどめておけるのかもしれない。だから、歯が痛むので歯医者を予約していたのなら、忘れなったろう。だが、治療途中ではあるが安定してくると、つい、すっぽかすということかな。躰に聞けというワタシの身の習慣が、社会的関係と繋がらなくなった。身勝手になったといえようか。これを歳のせいにすることができるか私固有のことなのかはわからない。どちらにしても傘寿を過ぎたワタシのことであるのは違いない。

 もう一つ感じていること。ワタシ自身が、じつはそれほど、このアクシデントをショックに思っていない。これにむしろ、驚いている。若い頃であれば、もうこうなるとどうしていいか分からず、思い煩ったであろう。それほどに大きな、失敗であった。ところが今、それほど深刻に受けとっていない。ま、そういうこともあるわなというか、そういう歳になったなと思っている。

 そうやって居直るしか、身の処し方がないこともあるが、わが身がやっていることは事実として認めるしかない。大抵のことは、そう受け容れている。そんなことしてたら、どんどん劣化していくだけだよと、よく知る人はいうけれども、それも「自然(じねん)」。歳をとるってそういうことだと、近づいてくる遠近法的消失点の方から、素直にワタシを振り返っている。

2023年4月6日木曜日

資本主義市場経済の限界

 seminarのときにkeiさんが「GDPが増えたら私たちの暮らしにどういう影響が出るの?」という質問に、「分からない」と応えたワケを説明しておかねばならない。

 お遍路中の感懐の中でも記したが、資本家社会的市場経済の枠組みに含まれない経済活動を目にすることが多くあった。お遍路への「お接待」もそうだ。むしろお遍路が自ら購入しなければならないものを無償で提供するわけだから、商品市場経済の阻害行為ですらある。あるいは柑橘類の市場に送る箱に収まらない規格外のものは商品にならないと生産者はいう。自家消費や路端での勝手売買はまだしも、大量に廃棄されている。この生産活動も、市場経済と消費とのミスマッチと言って良い。

 細かく言うとこの、箱に収まるかどうかという規格は市場が大きくなるにつれて広まった。地産地消は当然という「生もの」扱いをしていたときは、当然のように果実の大小はさほど問題ではなかった。ところが全国に、あるいは海外に輸送される商品となり、それに応じた大量輸送もともなって、規格ができあがった。

 さらに、そうなったのには消費環境の変化があった。まだ食糧生産が追いつかないといわれるほどの産業段階の成長初期(1960年代頃まで)には、捨てるなんてもったいないというセンスが、消費者にも生産者にも共有されていた。ところが、高度消費社会になって、見てくれの悪いものは市場では売れなくなった。むろん味を良くするために柑橘類の生産農家は、受粉を人の手仕事でやる。それが実を作ると、摘果して数を調整する。ひとつひとつの実に袋かけをして丁寧に熟すのを助ける。掛ける手間暇も多くなる。

 暖冷房・冷凍技術の変化に伴って、商品市場も大きく変化が起こる。季節外れの生鮮産品が出回るのは周知のことだ。果物も嗜好品というよりは高級贅沢品というほどになっているものもある。多品種少量生産になった。それに伴って消費行動も変わる。社会的には、ますます贅沢な消費になり、店頭に陳列されるものも多くなり、廃棄されるものも多くなった。これらの時代的な変化は「豊かな暮らし」に直結しているだろうか。

 むろんそういった社会の変容をくぐり抜ける生産者や流通関係者の工夫も行われている。情報社会化に伴って、マスメディアだけでなく情報ネットが広まるにつれて、生産と消費とそれを仲介するサービス業の連携がみられるようになった。漁港で水揚げされたものの廃棄されていた珍奇な種類の魚があることが知られ、その調理法が紹介され、ならばすべて買い取って顧客に提供しようという流通ネットがつくられていく。食品ロスも取り上げられ、「ワケあり」と明記された商品も出回るようになった。

 だがそれらの工夫は「ニッチ」と言われる。簡略に言うなら、大企業中心の市場経済の動向の隙間を縫って小規模零細企業や生産者、小売企業が工夫を凝らしている姿である。なぜか。GDPの成長もそうだが、国の経済政策は国単位の大きな視野で展開されている。経済が「経世済民」と言われていたのは、それ故であった。中央集権国家では、いっそうその政策を考える単位が大きくなる。地方単位は、立場が薄くなる。それが明治維新後の日本社会では、さらに加速された。地産地消は影が薄い。

 そこへグローバル化の時代だ。当然のように彼ら為政者やそれに関わる専門家たちの目に入るのは、日本の国際的な位置であり、それと競争関係に入っている大企業の業態であり、有力者の言動である。中小零細企業はその大企業の振る舞いの仕方を受けて様子を変えるとみなされている。大規模企業は、したがって、政治家とも緊密に連携を凝らし、利害関係のスクラムをがっちりと組む。GDPと株価の動向に目が凝らされる。為政者の目も、そうした中央集権的な統治的視線に絞られてくる。憲法もそうだが、統治的視線で国民を一つにしようというメンタルな作用をしてきた。それを学校教育は「国民化」と呼んだ。それも時代的な変化によって、多様化の時代へと移り変わる。しかし、資本家社会的な市場経済のシステムはグローバル化に伴ってますます、高度消費社会の上澄みである贅沢品へと向かう。情報ネットもまた、高度成長期以来のスタンスで人々の嗜好を操り、高度消費社会の上澄みである贅沢品へと向かう刺激を日々散布する。こうして経済政策は、人々の暮らしから離陸してきた。

 それに一撃を加えたのが、コロナ禍であったと私は、2020年5月に刊行した『うちらぁの人生 わいらぁの時代』で記した。「天啓」である、と。今回の「ふらっと遍路の旅」は、それをわが目で見て取るような旅でもあった。

 keiさんに「GDPの成長は私たちの暮らしにどんな影響があるの?」と問われたとき、「わからない」と私が応じたのは、「経済」と「暮らし」が断裂しているからだ。いや、「経済」と「政治」も、またそれらと「文化」も、「科学技術」も、人々の好みも、善悪の価値判断も、誰がどこに立ってどのような状況に於いて言葉を発しているかで、意味するところが異なってきてしまっている。

 経済に絞っていえば、こう言えようか。資本家社会的市場経済は、敗戦後の1960年代にはまだ、暮らしと一体になった(国民が共有する)イメージをもっていた。池田勇人が「所得倍増」と掛け声を掛け、当時の歳代野党・社会党が「毎日牛乳1合を飲める社会」と看板を掲げたのは、その程度の貧しさが「共有」されていたからだ。それが(たまたま現憲法の戦争放棄条項によって)経済に先進するしか方途がなかったことが幸いして、高度経済成長へと歩を進め、環境汚染や諸種の労働問題を生み出しながらも、欧米に追いつき追い越せと邁進することができた。つまり、資本家社会の市場経済一本槍で突き進むことがナショナル・インタレストであると言える程度に、国民的共感を得ていたのであった。

 だがそれは、バブルまでであったと言えようか。

 1990年代に入って後、経済成長が成し遂げた社会の変化がもたらした人々の欲求・欲望の変化、国際関係の変貌、それに伴う一強大国からの強いグローバル化の要請、それがもたらす国内社会関係の変化などに、為政者も産業界も適応することができないまま、バブルの夢よ再びと旧来の成長路線を継続することに躍起となった。

 もうその時すでに、国際関係は東西冷戦の片方の正義は崩壊し、ということは、残るもう片方の正義も理念的な基盤を見失っていた。つまり、WWⅡの人類史的反省の結晶としての「日本国憲法」が書き記している「国民国家」の理念的方針は、戦争を放棄し、暮らしを前面に押し出して人権を保障し、文化的生活をすべての国民に保障する男女平等の社会をつくるという、謂わば人類史的夢に突入する時代を迎えたという理想型であった。

 それを、共産主義という強権主義ではなく、資本家社会的市場経済でもって実現しようという道を日本は歩んでいたのであった。政策的にいえば、東側・社会主義国が存在することによって西側・資本家社会的市場経済もまた、労働者という人々の暮らしを常に視野に入れ、それへの暮らしの保障を策定せざるを得なかった。それが1989年の冷戦の終結で、すっかり崩れ、戦後的理念はどんどん空洞化していった。いうまでもなく、労働側も、もはや社会主義的政策を良しとする理念の共有点を見失い、大規模企業の労働者の専有物として「権力」を持ちはしたが、庶民大衆の大勢を占める人々の暮らしは、どこも代表することはなくなった。かろうじて、政党の一部が選挙のときの支持を得、代理して声を上げる程度であった。それでも庶民は、一億総中流というバブルで潤った資産を食いつないで(それなりに)豊かになっていたから、その後の30年間を凌いできたと言えようか。

 つまりすでにして、三十数年前に「経済」「政治」「文化」「科学技術」と私たちの生活は分裂してしまっていた。それを総合的に観る視点は、気象変動や温暖化という「環境破壊」の負の形で示されているものだけになっている。資本家社会的市場経済システムがそれと対立する地点を通過しつつある。人々の暮らしをどこでどう紡げばいいのか、トータルにはわからない。断片に於いて懸命に紡いでいる姿があちらこちらに見える。

 その資本家社会的市場経済の驀進がようやくにして、終わろうとしている。それを知らしめたのが、コロナ禍であり、ロシアによるウクライナ侵攻とそれに対する経済制裁とエネルギーの不足であった。これを天啓として受け止めないで、どうこれからの世の中を見ていったらいいのか、私にはわからない。

2023年4月5日水曜日

裏高尾植物散歩

 ひょんなことから高尾山の植物観察の下見に行くカミサンに付き添った。付き添うというと、何となく介助者の優位性を感じるが、そうではない。独りで山へ入るにはまだ不安を感じる私が、たまたま下見をする相棒が急用で行けなくなったので、私が山歩きの代わりに一緒について行っただけ。門前の小僧という位置からすれば、師匠のお供をしたわけだ。

 ラッシュのピークを避けるというので8時33分の電車に乗る。なるほど、ひと駅先で座席に座れた。しょっちゅう利用している師匠は微妙な頃合いを心得ている。私はこの路線に乗って高尾へ行くのは3年ぶりになろうか。

 高尾駅は大変な混雑。階段を上がるのに列をなす。一番西の端の階段を使えば、トイレにも近いと考えて階段の脇を進むと、なんとそのまま改札口に出られる。じゃあ、あの混雑の人たちはみな、京王線に乗り換えるか南出口に出るのか。いつも北口しか使っていなかった私からすると、高尾のまだみていない顔があるのかと思った。

 北口のバス乗り場はこの3年の間に様子を変えていた。その脇の小径を通って西へ向かう。浅川を超える。師匠はその道々でも立ち止まってはコンクリートの隙間から顔を見せる花までチェックする。どこにどんな花があるか、まだ咲いてはいないが蕾になっている、花の咲く気配はないが茎と葉が群落をなしているとみて、マッピンングしているのであろう。これ、ジロボウエンゴサク、あっこれ、ヒメオドリコソウと門前の小僧にも習わぬ経を聞かせる。何種かのスミレの名もあげる。

 高尾山口へ抜ける車道に出て、小仏川の左岸へ踏み込む。一組の老夫婦が草花を覗き込みながら先を歩く。カメラを構えてしゃがみ込む70年配の男性がいる。何を撮っているのだろう。やがて土手の斜面は川の側が鉄製の柵に代わり、板敷の上を歩くようになる。ニリンソウの群落がある。カラスノエンドウやスズメノエンドウが足元を埋めるように広がる。ヤマブキが黄色の花をいっぱい付けている。花期が長いのだろうか。5月下旬になっても山では見掛ける。

 橋を渡って小仏川の右岸へ移り、樹林の間を縫う道は山道風に変わる。ミミガタテンナンショウ、ミヤマキケマン、ムラサキケマン、カキドオシ、歩を進めながら次々と名を告げる。私はカメラを構えシャッターを押す。ああこれ、ヤマエンゴサク、さっきのジロボウとちょっと色が違うでしょといいつつ、だからさっきジロウボウエンゴサクをみておいたのよと口にする。

 右岸の少し広くなった樹林と河原の間に、踏み込まないようにテープを張り渡し、ぐるりと見て回る観察地が設えられている。花はないがニリンソウと明らかに違う葉のイチリンソウの群落がある。アズマイチゲ、ミヤマハコベ、ナツトウダイ、ミヤマカタバミ、葉っぱだけのウラシマソウも教わる。「キバナノアマナ探して」と師匠が言う。アマナのような葉を探せばいいかと見て回る。「あった、あった。これよ」と師匠は手を伸ばし、掬うように持ち上げる。何輪かある。ダラリと垂れた葉から伸びた茎下にまだ花が見えないのか終わったのか。一眼レフカメラを提げた男たち何人かとすれ違う。

 こんな辺鄙なというか、山でもない植物観察ルートの平日に、こんなに人が来るものかというほど、人影がある。しゃがみ込んで、これは**よとおしゃべりしている女性のペアもいる。一人はカメラをもって背を屈めている。

 追い越してゆく80歳近い年寄りが「何がお目当て」と私に聞く。「?・・・」と振り返ると師匠をみて「ああ、付き添い?」と言って、師匠に同じように尋ねる。何か応えて同じことを問い返すと、「キバナノアマナ」と言っている。「ああそれ、さきほどありましたよ」と師匠。ここに来るとソレがあると、知る人ぞ知る世界なのだ。師匠は花の咲いているもの、咲いていないが葉などを確認できるもの、見つからないものと分けてメモを取っている。向こうからやってきたのだろう6人ほどの高齢者グループが、広くなった日差しの下でお昼を摂っている。

 いつしか上の方に圏央道のこれから高尾山に突入するトンネルへの高架が見える。なんと2時間も歩いている。川向こうに特別養護老人ホームの建物があり、手前の高架下に広場があり、三々五々という風情でベンチも設えられている。お昼にする。右岸を歩いてきた7人くらいのグループも、離れた別のベンチを占める。この人たちも植物観察なのだろうか。広いから気にならないが、いつの間にか30人くらいになっていた。

 トイレを済ませて小仏へのバス道をしばらく歩く。その間にも、斜面を登りスミレを確認する。住宅の石垣に生えるオキナグサやフデリンドウを観ながら日影バス停の先から再び小仏川右岸への小径へ入る。コチャルメルソウ、ツルカノコ、レンプクソウとカメラに収めていて、妙な表示が出ていることに気づいた。えっ! 慌ててカメラの裏蓋を開ける。なんと、記録SDが入っていない。お遍路をしたSDの写真をPCに移したときにとり外して、そのままにしてしまったんだ。ははは、笑っちゃうね。

 川縁に突き出す岩の上にあるトウゴクサバノヲを教わる。進んでいると後ろから、「トウゴクサバノヲがあった」と女の人の声が聞こえる。振り返ると高齢のペアがやってきている。この右岸の道は一部崩れかけていて、師匠は「この先へはいかない」と引き返す。山ならば、これくらい何でもないと進むのだが、師匠は週末に案内する人たちのことをイメージしてルートを決めているようだ。

 小仏川を渡った橋の根方に戻り、その先城山へ向かう林道を進む。左側には城山から流れてくる小沢が流れ、右側は高尾山の山体が大きく起ち上がっている。両サイドに植物は繁茂し、それをいちいち見ながらスミレを探す。ヨゴレネコノメ、キランソウ、ラショウモンカヅラ、カテンソウなどを拾いながら、ヒメスミレ、ナガバノスミレサイシン、タカオスミレ(ヒカゲスミレ)、エイザンスミレ、マルバスミレを見つけ、ヒナスミレと思われるものを見つけたが、その葉の根形がくっきりと食い込んで丸くなっていないから同定できないという。そうか、こんな風に厳密に取り扱うから師匠としての権威を持っているんだと思う。また、アオイスミレの葉は見つけたが花が咲いていないのも、リストから除外している。案内する人の関心度合いを見極めて案内しているんだと、門前の小僧は奥行きの深さを感知して、黙ってついて歩いた。

 こうして、4時間半ほどの散策をして、日影バス停から高尾駅までのバスに乗って帰ってきた。13800余歩、10㌔余、2時間40分の散策であった。座らないで立っていたという

のが歩行時間だ。こんなにゆっくり歩いたのは、久しぶり。でも歩いた距離に比して草臥れた。面白い世界の入り口をみた思いだ。やっぱり門前の小僧だね。

2023年4月4日火曜日

あっ、これだ!

 1年前の、このブログ記事「自己限定したときの勁さ」(2022-04-03)を読んで、「あっ、これだ!」と思った。台湾の作家・李琴峰がウクライナへのロシアの侵攻に直面して「個人が国家に領有されている」と感懐を綴った文章。「自由」を信じていた「自分」が国家の所有物だったと実感させられた学校時代の軍事訓練を振り返って思い浮かべている。

《自由というものをひとまず、「何者にも領有され支配されない感覚」や「自分の生から死まで自分で決められる状態」と定義しよう》

 と作家は自己限定して語り出しているのだが、この感触は私たちが日本で感じている「自由」と同じようなものと受けとった。だから私は、「国家が(ワタシを)領有している」というのは、国家に囲われて生きてきた「自分」のデファクト・スタンダード(既に確立されている既定の事実)の(自己による)発見と読み取った。つまり、(領有されるのはいやだ、自由がいい)という感懐は、戦争状態、あるいは戦争予想状態(の軍事訓練)になって領有されるのではなく、自らの身体に刻まれていることの「発見」とみて次のように記した。

《いや、むしろ「自由」と「国家」への幻想を対立させて考えるより、国家の領有する身体という「事実」は、李琴峰の身に刻まれているはず。それをどう脱ぎ捨てて自由への信仰に飛翔したのか、そこを語らないと、ただ単なる自己規定(自己限定)した宣言でしかない》

《大切なのは、身に刻まれた「事実」をどう剥ぎ取って「自由への信仰」に至ったのか、そこまで言及しないと、人々へのメッセージとはなり得ない。ただ「信じなさい」という呼びかけにしかならない》

 と言いつつ、しかし、「自己限定したときの勁さ」をこの作家の文章から感じ取っている。これが、3月seminarで私が突き当たっていたモヤモヤ(3/27、3/28記事参照)と感じ、「あっ、これだ!」と発見したような気分だったのである。

 BBC東京特派員氏の感じた「過去にこだわる日本人の不思議」は、統治的にモノゴトをみる視線のもたらしたものと私が指摘したのに対して、トキくんは「オレはその時の感じたそのままを書いただけで、別に統治的にものをみたりしてないよ」と応じた。それに対して私は「そうですよね。その体に刻まれて意識されていない視線が統治的だということなんですよ」と応え、少し後で、「小中学校で教わりワタシたちの世界をみる理念にもなった日本国憲法もまた統治的な視線を国民に刷り込むものだった」と話した。たぶんトキくんは、強く非難されたように感じたのだろう、いつもはにこやかに別れの挨拶を交わすのに、黙って帰ってしまった。憤然として……、と私は感じた。

 もうひとつ、キミコさんの無邪気奔放な振る舞い。この作家の「自由」の自己限定の言葉、「自分の生から死まで自分で決められる状態」のように感じて生きてきたことが如実に現れていた。これが国民の身の裡に「統治的視線」を培うものであったとしても「日本国憲法の理念」によって私たちの身の裡に埋め込まれてきた感性の発露であったから、同じ空気を吸って育ってきた同窓同期のワタシたちにはよくわかる。その共感性の広がりが「勁さ」である。止めようがない。

 上記の二つ、トキくんの憤然とキミコさんの無邪気奔放とが、ひょっとするとseminarの意図してきたこと、自己を対象としてみて「日本人の不思議」を切り分けてみようという運びそのものを堰き止める役割を担った。そのことへの、ワタシの失望、慨嘆、でもそれもそうだよなあという(土台にある身の裡の)共感性に溶け込んでいく私の気分、それらの混沌とした感触が、傘寿を越えて(時代と人生を振り返る)「当事者研究」をするのはもう無理だと思わせたのだと思った。

 でも、1年前の記事を読んでひとつ「発見」があった。自分を対象として身の裡を見つめるということを、そうすることによって「他者」との(社会)関係を築くという風に、どちらかというと社会道徳的な必要からみていたのだが、そうではないと判った。我知らず、受け継いできたデファクト・スタンダードを切り分けてわが身から引きずり出すことによって、わが身の(無意識に)感じている「窮屈さ」の源に迫ること、これこそが、「自由」への第一歩だということに至った。作家の「自分の生から死まで自分で決められる状態」という「定義」も中空に浮いた「観念」である。その中空に浮いた観念自体を、社会関係の中に位置づけて動態的に捉えるところに、より「自由」の概念をわがコトとして捉える勁さがあると思う「発見」であった

2023年4月2日日曜日

ふらっと遍路の旅(6)神仏

 四万十町・窪川から西条市・壬生川まで歩くというのは、鉄アレイのような形の四国の西側の出っ張りを全部踏破することになるから、お遍路道全体の1/3ほどを歩いたことになろうか。海際まで迫り出した山を上り下りしながら太平洋を一望し、中ほどには豊後水道を目にし、後には瀬戸内海を眺めるという、四国の輪郭をたどりつつ、三原村という数少ない山間の「村」を経て、四国山脈の北側の久万高原へも入り込む今回のお遍路は、「遍路道」ならずとも日本の地理地勢を十分に感じさせる行程であった。

 本四架橋を三本もかけることはなかったという今治の古いホテル主人が昔日を思って慨嘆するように、いうまでもなく高速道が四通八達し、なおかつ鉄道が細々ながら生き延びて走り続けている姿は、人の暮らしの健気さと成長経済の習慣的見当違いを感じさせ、来し方行く末を考えさせるものでもあった。古い「遍路道」は各地で寸断され、掘り抜かれたトンネルでショートカットされている。

 山間僻地にまで行き渡る車道は、しかし、人の通過を促進したものの、地元に止まる若い人をことごとくといって良いほど地方中核都市や都会地へ吸収させてしまい、村に残るのは高齢者ばかり。まるでかつて栄えたという伝説的風情を語るようであった。久万高原を走り抜ける立派な二車線道路の高台、山の斜面に並ぶ家並みは、賑わいを見せるようにみえたが、大半は空き家。「50軒あったが、いまは10人だけよ。皆子どものところへ行ってしもうたわ」と、腰を曲げながらも、しっかりした足取りで散歩をしていたお婆さんが話す。

 そういえば、ネットで採った「お遍路地図」には各地に小学校や中学校の名が記されていた。だが、まだそう古びてもいない建物の小学校を脇を通っていても、子どもの声が聞こえない。「避難場所」に変わっている。中学校も統廃合で「空き家」になっている。バス停に立つ中学生が「おはようございます」と挨拶をする。聞くとスクールバスを待っていると話す。こうなるとますます若い人たちは、生まれ故郷に居着かなくなる。子育ても、もう少し子どもの多いところでと思うのは、親として当然の心情。こうして過疎は加速度的に進む。それをまざまざと見せつけられたようであった。

 思えば、私が小中学生の頃には、日本は人口が多すぎると学校で教えられていた。村ごと南米へ移民する船が出たとも報じられていた。その頃の日本の人口は8千万人くらいであった。それがいま、1億2千万人を切るようになるぞと人口減少が問題視されている。人口が減ると経済成長も規模が小さくなるというのだが、それの何がモンダイなのか。逆立ちしてるんじゃないかという疑問が、私の胸中には湧き起こる。高度消費社会というのがヒトの暮らしから離陸してしまったのか。

 ちょうどその季節でもあって柑橘類の収穫が行われている。「お接待」のところで記したが、大きなポンカンやデコポン、文旦などが「規格外」として捨てられるという。高度消費社会と謂われる時代の商品経済は、熟しているか、美味しいかどうかではなく、既定の箱に巧く入るかどうかが「規格」になる。大きすぎても駄目、小さいのも論外。こうして収穫の半分くらいが捨てられることになる。というか、都会地に運ばれることなく、地元の道路端の無人販売所に置かれる。大きな文旦が三つ300円とか、ポンカンが五つ200円とか、大きな蜜柑が袋いっぱいで100円と表示されておかれている。車は目にも留めず走り抜けている。「市場」と「交換」と「食べ物」とが噛み合わなくなっている。でもこれで「GDPの成長」を云々しても、果たして私たちの暮らしにどこまで影響するのかわからない。どこかでボタンを掛け違ったというか、商品市場だけを見てなぜその品を生産をしているのか見失っている。木を見て森を見ない。全体を見てとって考えていくテツガクを忘れてんじゃないか。いやそうじゃないか。根本をみる余裕もないほど、日常の稼ぎに追われているのか。そんなことを思いながら歩いた。

 もちろん、鉄道駅から5時間も掛かっていた山間部にトンネルと道路が整備され1時間で往き来できるようになったことは、人の交通ばかりでなく、品物の流通にも大きく影響し、暮らしを変えた。しかしその土建的成功をバカの一つ覚えのように土建業界を中心に相変わらず資本投下を繰り返すのは、目前の利権を保持しようとする業界経済の論理であって、何の為にそれをしているのかわからなくなっているんじゃないか。今治の宿亭主が「この上四国に新幹線なんていらないよ」と言うのを聞いて初めて、えっ、新幹線誘致なんて騒いでいるんだ。時代錯誤も極みだと思った。

 そうだねえ。高度成長の記憶が残像として残って、資本主義的市場経済が唯一の道と考えているのかね。グローバル化が日本経済に何をもたらしたか。失われた三十年というとき、なにが「失われた」というのか。そこを見きわめもしないで、ただただGDPとか成長率とか株価に目をやって、嘆いたりじゃぶじゃぶと紙幣を繰り出してきた。経世済民という根本を見失ってる。それも社会の構造がそうなっているのかと思うほど、それぞれの立場の人々の感性や思考に食い込んでいる。カネ、カネ、カネ。神も仏もあったもんじゃない。

 お遍路は、そういう風潮から取り残された社会を見ているようであった。そうか、それでお接待かとも思う。私は信仰心は亡いと分かったが、神仏のみて取り方を忘れたわけではない。大抵の札所には、すぐ近くや境内の奥に、神社がある。むしろ神社の方が大きな表示をしていて、札所が霞むようなお寺さんもあった。神仏と一緒くたにして皆さんは謂うが、私は別のことだと思っている。神というのは八百万の神、つまりありとある大自然に対する畏れと敬意を意味している。良いことばかりとは限らない。鬼神という如く、善いことも悪いことも人の意にならぬまま勝手に猛威を揮う。猛威の中には、生物の命を育み生長をさせる不可思議も含まれる。だから、その脅威を恐れるとともに畏敬してきた。

 では仏って何だ? その神々の勝手な猛威の下に暮らす人々に、その大自然をどう解釈するかを解くのが仏である。さらにすすんで、大自然の元で、その恩恵に浴しながら、しかし、気儘な大自然の振る舞いに右往左往し心揺さぶられて我を忘れてしまうヒトの生きる知恵を授けもする。修験道とか修業とか謂うのもどちらかというと、単なる大自然の解釈ではなく、それに翻弄されて生きていくしかないヒトの克服法を教え諭すもの。つまり理知的な大自然の認識は、同時に非力な人の力という実存を知らしめ、その立ち位置に応じた向き合い方の方法と限界を摑みなさいよと謂う智慧が、仏である。

 つまり神と仏では、解釈がどうであろうと揺るぎなく存在して私たちを包み込むのが神であり、その中にいて大自然全体の姿を仮構し、その中に人自らを位置づけて存在の仕方を教え諭すのが、仏。余計なことを謂うと、明治初めの廃仏毀釈は、神と仏が一緒では具合が悪いと見当違いをしながら、なお、神を唯一神として西欧の絶対神になぞらえた浅知恵の促成天皇信仰であった。その悪しき伝統を、一向に改めることなく、未だに堅持しているのが、靖国信仰とも言える。これも、この「くに」に暮らす人々の、身に染み付いた宗教的信条を国家が創ることができるという錯誤から始まっている。統治的精神が、逆立ちしているのだ。庶民大衆の身に染み付いた心情とそれを言葉にした信条とは、暮らしの中から芽生え、暮らしの中に根を生やし、暮らしをつくっていく形で再生されて受け継いできている。資本家社会的市場経済で席捲させてしまうわけにはいかない根っこを、普段の暮らしの中に持ってきてるんだよと四国のお遍路道は諭してくれるようであった。

 札所の数でいえば、残すは後、34ヶ寺。石鎚山の中腹にあるという横峰寺からの最後のお遍路区切りは、たぶんあと十日くらいで終えることができる。さて、いつ、それを終えるか。最後の香川県は「涅槃の場」と言われている。さて、宗教心のない私にも「涅槃」の境地は訪れるのであろうか。楽しみと謂えば、楽しみ、ちょっと怖いといえば怖い「お遍路」。私をよく知る友人は、♭(ふらっと)が二つの調性「変ロ」(変路)に代えて、もう一つ♭(ふらっと)が加えられる「変ホ」(変歩)になって、足を挫いたりしませんようにと揶揄っている。

 ま、それくらいの軽い気持ちで、そう遠くない時を見計らって出かけるとしようか。

2023年4月1日土曜日

ふらっと遍路の旅(5)お接待

 お遍路といえば、お接待。帰ってからも、「どんなお接待うけた?」と何人かから訊ねられた。もちろんあれこれをあげることはできるが、振り返って考えてみると、「歩き遍路」という放浪者の姿が、しっかりと四国の人々の暮らしに組み込まれていて、違和感なく受け容れられているのが、なによりの「お接待」に思えた。

 受け容れてくれる宿がある。それが先ず有難いと思いった。風呂を立て、洗濯ができ、布団に寝ることができる。疲れを取り清潔に身を保つ。もう野宿する力はない。それに加えて食事まで用意して下さる、片付けもしなくていい宿というのは、「お遍路」というより「旅」であった。二箇所では、お弁当まで用意してくれた。

 民宿からペンションや観光ホテルまで、また素泊まりからBB、即ち朝食とベッド付きから二食付きまである。素泊まりは、夕食と朝食を自分で持っていかねばならないが、ご馳走ばかりよりは、レトルトのお粥とか、ヨーグルト/牛乳とパンという質素な食事が胃腸を休める為にも良かったと思う。

 また、暖かいお茶のサービスが、歩いて乾いた身体に何よりの活性剤になった。歩いているときにはアクエリアスとかポカリスウェットとか水を摂るようにした。でもスポーツ飲料も甘くて喉に引っかかるようになり、水も力が抜けるようで美味しく感じなくなってくる。その時の喉越しの温かいお茶は、ほうじ茶や麦茶の方が緑茶よりもじわじわと細胞の隅々に行き渡って、疲れから恢復していく感触を味わうことになった。

 お昼が取れないことが多く、歩いている途中で頂戴した栗饅頭やどら焼きを食べたり、飴をなめてカロリー補給して済ますことが多くなった。朝夕をしっかり摂っていればお昼はその程度で済ませても何でもないと感じていた。一度だけ、歩き始めた所の「道の駅」でお弁当を買ったら、支払い担当の方が「浅漬け」のパック(200円)を同封してくれていたのが、後でわかった。お遍路傘を被っていたからであろう。ああ、こういう気遣いがさらりと為されるんだと食べながら感嘆したことを思い出す。

 お接待カフェがあるのも分かった。足摺岬から竜串の方へ海沿いに歩いて松尾の古い遍路道へ踏み込んだ五日目、声をかけられ振り返ると道沿いの家から顔を出した古希世代の方が「コーヒーでも飲んでいかんかい」という。まだ9時頃だったと思う。扉が開けられ、かつては食堂でも営んでいたのか、土間にテーブルと椅子が置かれ、ご近所の方も座っている。コーヒーをご馳走になり、どこから来たか、なぜお遍路に出たかあれこれ訊ねられ応えていると、また一人若いお遍路が入ってきた。先程から私の先になり後になり、歩いていた方だ。このカフェの方とは顔見知りらしく、「あんた何回目かな」と声をかけている。8回目だそうだ。へえ、こんな若い方が8回目となると病膏肓にいるってところだな、何か深いわけがあるんだろうなと思う。被り物をとると彼は、頭を丸めている。何だお坊さんか。「あんたまた今度も剃ってきてるんか。感心やな」とカフェの亭主は口にする。お坊さんではないらしい。重い荷を背負って野宿をして歩いている。コーヒーをご馳走になり、じゃあこれも持っていき、足しになるやろと、お菓子のパックをあげている。私にもどうぞといったが、荷物になるからと丁重に断った。このとき私のルートは高い峠を越える、難儀やでといろんな「遍路情報」をくれた。野宿の彼は、峠を越えない東側へ戻る道を取るといっていた。なるほど地図を見ると、海に突き出した半島がくびれていて距離的にも短くなるとわかる。

 今治の古い素泊まりホテルのご亭主も、手書きの、今治市内のお遍路概念地図をつくって、道を教えてくれた。これは新しい道が作られ入り組んでしまった道筋を朴訥にまっすぐ行くと次の札所に行けるという極意を秘めていて、面白かった。こういうお接待もあるのだと、後になって気づいた。

 呼び止められてお接待を受けることは何度かあった。軽トラが止まり、水のペットボトルを貰ったこともある。ダンプを止め、缶コーヒーを手渡し、気をつけてねと言葉を掛けてくれた運転手もいた。13日目に久万高原の山中を歩いていたときには25トントレーラーを路肩に止めアラフォーの運転手が温かい缶コーヒーを手渡し、暫くおしゃべりをしたこともあった。コロナ禍やロシアのウクライナ侵攻があって木材の国際的流通が妨げられ、国内の木材需要が急増し、バイヤーはウハウハだと笑っている。大型のトレーラーの数が足りず、彼は仕事に追われているとか、この25トンの木材チップは製紙工場の原料だとか、原料の買い入れは水分を取った実重量、10トンになってしまう。水を運んでいるようなものだと、自嘲的に笑う。四国山脈の山奥にもこうして世界情勢がビンビン響いているのだ。

 宇和島の車道を歩いていたお昼を少し過ぎた時間、うどん屋を見つけた。入ると一人女性が食事をしている。その人の向こうの席に背を向けて座りきつねうどんを注文した。5時間ほど歩き続けていたから私もすっかり草臥れている。うどん屋の女将がどちらからと話しかけ、背中の女性も「わたしも仕事に区切りがついて回りはじめたんよ」と話しかけ、「はあそうですか」と力の無い返事を交わしたが、背中の方が「お接待させていただきます」といい、女将があの方が支払ってくれましたと言うのを聞いて、えっ、そういうのってあるのかと、初めて自分の迂闊に気づいた。女将に聞くとその女の方は最近退職してお遍路を(区切りながら)はじめたらしい。如何に世間話が苦手とは言え、背中の方へ向かって「ありがとうございます」という言葉だけを返して済ませたのは、いかにも粗忽。どうして回っているのかと聞くべきじゃなかったのかとワタシの粗末さに、あらためて気づかされた。

 松山市内の52番札所・太山寺の傍で車を止めた60歳くらいの女性から、お接待を受けた。300円と飴三つ。53番札所の本堂天井にある龍の一木作りを見ていけという。本堂の正面にそれを写真に撮った「案内」は目にしたが、覗き込んでも暗いところに不自由するようになった私の目には、見つからなかった。

 松山市の北端、北条の町に近い宿の手前5キロくらいで、床屋に入り髪を切り髭を剃ってもらった。6時間ほど歩き続けすっかり疲れていたのであろう、散髪をしている間の1時間ほどウトウトと休み、気力を恢復したこともあった。髭をあたり肩をもみほぐして散髪が終わった後、缶コーヒーでもとお接待を受け、ソファに座らせて貰って飲ませて貰った。その時の柔らかな応対も「お接待だったなあ」といま思い出す。

 歩いているときにポンカンを貰ったり、文旦やデコポンをいくら食べてもいいよと出してくれた宿もあった。高知も愛媛も、柑橘類の栽培は盛ん。ことに商品として出すものを仕分けした後の大量の規格外品は、大きすぎたり小さすぎたりするだけ。味に問題はないのに捨てられるのかもしれない。歩いている途中で「いくつでも持っていって」と言われても、荷になるから三つが精一杯だったが、美味しかった。

 道に迷っているのに気づいて教えて貰ったことも二度あった。というか、基本的に歩き遍路は(どこのルートを取っているか勝手だから)放っておかれるのだが、明らかにうろうろしているとわかるのであろう、次の札所の寺を口にして「こっちだよ」と指さしてくれることもあった。一度は、「お遍路道→」が、古いトンネルを抜ける最短距離を取っていないと思い、車道沿いに歩いていたのだが、飲み物を買おうと入った雑貨屋の主人が「そのお遍路道なら山越えで7㌔だが、こちらは山裾を回り込むから14㌔になるね、ははは」と笑っていた。いまさら戻るわけにも行かず、歩き通して41㌔/日と言う最高記録を出した日のことだ。

 そうそう、一つ不思議に思うことがあった。コロナ禍に振る舞われる「地元クーポン」。「ワクチン接種3回以上してますか」と聞かれ、照明を見せると宿泊料は2割引になり、地元で使えるクーポン券を2000円分もらえるというもの。高知県で2回、愛媛県で2回もらった。ところが予約のときに「ワクチン接種」のことを聞かれ「証明は持ってます」と応えたのに、フロントでは「電話予約の方には適用していない」といわれたことがあった。「えっ。どうして?」と私が聞いたものだからフロントの女性は裏方へ姿を消し相談したのだろう、「特例」としてクーポン適用してくれたことがあった。また、「じゃらんとかJTBとか業者を通して、インターネットで申し込んで貰わないと適用しない」というホテルは複数あった。どうしてなんだろう。何も言わないのに、クーポンを出してくれたところが、民宿もホテルでも(19日のうちの)4回あったことも逆に、不思議といえば不思議になる。この旅支援制度は一体どういう風に運用されているのだろう。いちいち調べる気にもならないが、旅行業界の大手支援制度かいなとか、デジタル世代のみが利用できる制度かいと思ったりもしたのであった。アナログ傘寿の愚痴である。