昨日の午後のこと、カミサンが「タイヤの交換はいつ?」と聞く。「う~んと、いつだっけ」とちょっと思案して、あっと気づいた。前日の午後2時だ。すっかり忘れていた。というか、その前々日までは、いつタイヤを車に積み込むか考えていたのに、それもこれも頭から飛んでしまっていた。と同時に、そう言えば、今朝は歯医者の予約をしていた、それを忘れてすっぽかしたことも思い出した。しかも歯医者は、2月の末に予約していたのをお遍路帰りで忘れてしまってすっぽかし、そのリベンジで予約したものだったから、ダブル・ミスってワケだ。やれやれ。
タイヤ交換は、すぐに電話をして謝ったら、電話口の受付嬢ははははと軽く笑って「え~っと、次の交換可能な日を調べますからちょっとお待ちください」と言って、(よくあることと)さして気にしていない様子。ホッとする。歯医者はちょうど午後の休憩タイムだったので、電話をしそびれている。どうしよう。
なぜこうなったかに実は、心当たりがないわけではない。もっか近々刊行する本の校正をしている。全部で600ページを超えるかという分量があり、分冊にしましようかと話が持ち上がっている私の著書。校正もそれの半ばをやっとすぎたところ。1日取りかかって20ページ程度しかすすまない。寝ても起きてもというワケにはいかないが、起きて家に居る間は概ね校正をしている。昔からそうだが、何か一つ夢中になって取りかかると、ほかのことが頭から抜けてしまう。発達障害じゃないかと(カミサンに言われ、自分でもそう)思ったこともあったほどだ。カミサンは、仕事を片付けるのが早いと褒めてくれたこともあるが、早いというよりも、それをやり始めるとほかのことがすっ飛んでしまって気にとまらない。一つひとつ(思いついたときに)早く片付けておかないと、忘れてしまうと思っているから、とりかかったときに始末する。それが長期に亘る持久戦になったりすると、怪しくなるってワケだ。
頭の中を覗いてみても、ワタシの関心がどう移ろっていて、どこに、なぜ、どうやって焦点を合わせているのかもわからない。きっちり連続しているコトとか断続的に思い浮かぶコトとか、たとえば雪山に行こうと考えていて、そのために冬タイヤに交換するというモチーフがあれば、たぶん、忘れずに関心の胸中にとどめているだろう。つまり身を動かすアクションに繋がっていると、その下準備に当たることも忘れずに胸中の関心事としてとどめておけるのかもしれない。だから、歯が痛むので歯医者を予約していたのなら、忘れなったろう。だが、治療途中ではあるが安定してくると、つい、すっぽかすということかな。躰に聞けというワタシの身の習慣が、社会的関係と繋がらなくなった。身勝手になったといえようか。これを歳のせいにすることができるか私固有のことなのかはわからない。どちらにしても傘寿を過ぎたワタシのことであるのは違いない。
もう一つ感じていること。ワタシ自身が、じつはそれほど、このアクシデントをショックに思っていない。これにむしろ、驚いている。若い頃であれば、もうこうなるとどうしていいか分からず、思い煩ったであろう。それほどに大きな、失敗であった。ところが今、それほど深刻に受けとっていない。ま、そういうこともあるわなというか、そういう歳になったなと思っている。
そうやって居直るしか、身の処し方がないこともあるが、わが身がやっていることは事実として認めるしかない。大抵のことは、そう受け容れている。そんなことしてたら、どんどん劣化していくだけだよと、よく知る人はいうけれども、それも「自然(じねん)」。歳をとるってそういうことだと、近づいてくる遠近法的消失点の方から、素直にワタシを振り返っている。
0 件のコメント:
コメントを投稿