2023年4月12日水曜日

わが身の不思議をみる面白さ

 1年前(2022-04-11)の当ブログ記事「権力は根拠を語らない」を読み返して、自問が浮かんだ。

《「根拠を語らない権力」が、受け止める側に(権力の意向の)内面化を促進し、忖度をもたらす。なぜそうなるのか。》

 有無を言わさず指示を実行させる。それが「権力」だからです。

「有無を言わさず」だって? 何だ、それでは同義反復(トートロジー)じゃないか。有無を言わさず指示を実行させることができるのは、なぜか。それに応えてよ。

「権力」は、限られた集団の中で作用する。だから国家権力に限らない。会社であれ組合であれ学校であっても、集団という集団で権力は働いている。いやそうじゃないよ。私の関係する集団は民主的で、そういう権力で動くまとまりではないからという方もいよう。それはそれで作用する権力の強弱濃淡はあろう。だが、主宰者とか責任者がいる集団は、何某かの力でまとまりをつくっている。それが「有無を言わさず」という形は取らなくとも、そりゃあそうだよねと面々が(暗黙に)合意するいう空気が、その作用をしている。

 えっ? それって、権威じゃないの? というかもしれない。そうです。暗黙の合意というのは、通常「権威」と呼ばれます。だが、長年のしきたりで、そうすることとなっているものも、あるいは文書化されて決まっていることも、権威であるとともに、それが作用するときには権力となると言えます。長年の社会の習慣も、そういう力の背景になるわけです。年功序列を当然としてきた社会習慣が「若輩者がだまっとれ」と年少者を叱る言葉になります。男社会の習慣が「女のくせに」と女性を誹る言葉になります。

 つまり社会のどこにでも、権威があるところ、権力は潜在しています。だが権力はそれが作動するまでは、皆さんの心裡に根源を保ちつつ身を潜めていますから、私たち庶民大衆は、自分が権力の片棒を担いでいるなんて思いも寄りません。かつて「空気読め/読めない」が話題にときの、「空気」を支えていたのは外ならぬ、その場に居合わせた庶民大衆です。1970年前後に「わが内なる権力を問え!」と論壇で遣り取りが為されましたが、それはココを問題にしていたわけですね。

 ということは逆に、権威の社会的動向によって、それが作用するときの「権力」は揺れ動くってことになる。そうなんです。ロシアのプーチンにしたって、ソビエトが崩壊し、ほかの国民国家と同一平場に立たされたときに、(ソビエト)ロシアという、かつて米国と肩を並べて世界の覇権を争った「国」の敬意が受けられないことに腹を立て、不安を感じたとウクライナ侵攻を分析する見解があります。中国と違って、民主的な手続きを残したロシアの政治・社会システムが、人々の支持する方向を自在にし、ヨーロッパ寄りになることに不安を覚えたのが、初発の動機のように私は考えています。ウクライナがNATO寄りになる。それは即ち、いずれロシア(の政治・社会)がヨーロッパ型になることへの傾きです。武力はともかく文化的な権威は、とっくに強権ロシアを見放してヨーロッパ型民主ロシアへ傾きかけていた。それを不安と察知したプーチン・ロシアは、早くから野党を弾圧し、反権力ジャーナリストを文字通り闇に葬り去り、懸命に大国ロシアを守ろうとしてきましたが、とうとう(NATO、あるいはウクライナという外に向かって)武力を行使するほかない瀬戸際に(心情的には)追い詰められていたのですね。

 権力の崩壊の前段で、権威の衰退があるのですね。

 では何によって「権威」は支えられているのか。なぜ揺れ動くのか。そう自問する問いが、内心のワタシから繰り出されています。長年の身の習慣は、骨がらみといって良いほど、ワタシの身に染み付いています。

 私はいまでも年功序列的なセンスを持っています。年功序列というのは、年を取っていることへの敬意です。なぜそういう「敬意」をもっているのか問うたこともあります。もちろん幼い頃のみた「大人」はまさしく偉大でした。親がそうであり、周りの大人たちも子どもの知らない世界を(体験として)かかえている。それは「みえないセカイ」、不可知の世界でした。つまり知らないことへの「恐れ」や「畏れ」が「敬意」に転化していたと言えます。

 ではだんだん大人になるに従って、年上への敬意は薄まってきたか。薄まってきたとも言えるし、相変わらずとも言えます。薄まってきたというのは、私自身が年寄りになってきたから。そうすると、子どもから見て不可知の体験でも、自分自身から見ると経てきた径庭ですから、振り返ってあれこれ考えることができます。ヒトとしての体験は、振り返って恐れ/畏れを感じるような特異なことではありません。当然、自らへの畏敬の念はどこを探してもありません。ただ長年の身の習慣が、じつは関わった世界の関係がもたらした集積だという実感です。

 それが、「恐れ/畏れ」の対象の変化へと向かわせます。「大人」への「恐れ/畏れ」ではなく、ヒトが体験することへの「恐れ/畏れ」です。世界は広いというと、ただの未体験領野が大きいという想像の感嘆です。だがじつは、知れば知るほど「知らない世界」があることを痛感します。宇宙の神秘を教わったとき、その「知らない世界」がわが身の外にあるのではなく、外にあると同時に、わが身の裡にあると知ったことです。はじめ、ヒトの世界の文化がわが身に堆積していると思っていました。それがなんと、地球における生命体の歴史の蓄積がわが身そのものだと思うようになりました。さらにそれが、ビッグバッとその後のミクロの世界の結合の結晶がわが身なのだと知られると、わが身そのものの中に不可知の世界があると思うようになりました。それは、ワタシという大きな不思議の発見でした。それは、ワクワクするほど面白い感触をもたらしています。

 知るというのは、知らない世界があることを知ることだと、身に染みて感じています。もちろんそれが、面白いから、ついついその先へと、門前の小僧でありながら踏み出してしまう悪いクセがわが身の習慣になってしまいました。ニンゲンて面白いなと、思っています。善いとか悪いとか、そんなことはどっちでもいいのです。ついつい考えてしまう。なぜワタシはそう感じるんだろう。どうしてそう考えるのか。何を根拠にそう判断しているんだろう、と。

 そんなこと、メンドクサイじゃないかと友人はいいます。その通りです。そんなことを知ろうと知るまいと、ワタシは存在しているし、生きていけます。でもそれが年を取る上では、ヒトのクセとして極上の味わいを持つと思えます。逆にこれは、年を取らなくては味わえなかったことです。しかもとどまるところをもちません。永遠の問い。そう感じることが、また、ますますワクワクに通じているのです。

 そういうヒトの存在に「恐れ/畏れ」と敬意を感じていることが、堪らなく生きていることを証し立てるように思われて愛しい。そう思う自分が、ラッキーだったと誰に感謝するともなく有難いと思う。それが今もワタシの年功序列センスを支えています。

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