朝起きるとまずお茶を飲みコーヒーを淹れる。お茶は毎日持ち歩いたりできるように豆茶とか17茶というのを煎じたのが2㍑ほどつくってある。冬場はそれを軽く温める。4、50℃くらいかな、熱くはなく冷たくない程度。コーヒーを淹れるお湯は90℃がいいと思っているが、いちいち温度計で測るわけではない。小さい薬缶がコトコトと音を立て始めたら95℃と思っていて、それで火を止め、少し経って入れはじめるとちょうどいいはずと思っている。
そのお茶を温める間に、コーヒーのソーサーにドリップの用意をして、コーヒーミルにコーヒー豆を入れる。ここまででだいたいお茶は温まっている。カミサンと二人分のお茶をカップに移し、改めて小さい薬缶にコーヒー用の水を入れて火に掛ける。そうして、コーヒーミルのコードをコンセントに繋ぎ手に持ってスウィッチを入れる。ウィーンと立てる音が豆を砕く音から砕かれた粉をさらに挽く音へと微細に変わり軽く香り立つのを感じて止める。これがだいたい25秒くらい。胸に押しつけてもう片方の手でポンポンと叩きミルの内部にくっついた粉を引き剥がす。そうしてドリップペーパーに粉を移す。ミルにもそれを移す刷毛にも粉が残らないようにする頃、薬缶がコトコトと鳴る。火を止め、テーブルへ運ぶお盆にコーヒーカップを乗せ、ドリップに軽く湯を注ぐ。そのお湿りがゆっくりと粉に行き渡った頃、薬缶からお湯をドリップに注ぎはじめる。時計回りに、お湯に取り囲まれた粉がペーパーの中で右に左に上へ下へと踊るのを感じながらゆっくりと注ぐ。香りが起ち上がる。ああ今朝も鼻は大丈夫だとミルを回しているときに感じたコーヒーの微香がちょっと違って鼻腔に届くのをうれしく感じている。
その間にカミサンは血圧を測りコーヒーのお供の甘みを用意し新聞を取ってきて温めたお茶を飲んでいる。コーヒーをソーサーのままお盆に載せてリビングに対面のカウンターに置く。そうして私は血圧を測り、カミサンがカップに移したコーヒーを、お供とともに頂戴する。
これが私の毎朝のルーティンワークだ。ふと気づくと、音、手指に感じる振動、香り、いろいろな手順の合間に、火の通りとか粉の挽き具合とか粉が湯を含んで膨らんでいく感触を感じ取って頃合を測っている。ずうっと前、初めの頃には時計で計るようなことをしていた。それがいつしかミルを回しながら数を数えるようになり、いまはウィーンと鳴るミルの音を聞いて粉に成る具合を感じている。つまり、時計という外部にあった「時間」が湯が沸くまでの(ほかの手間に掛ける)手順とか振動や音、沸き立つ微香に代わってわが身の「とき」になっている。そう気づいて、これがまたうれしいと思っている。
外部世界であった「時間」が身に染みこんでわが内部の「とき」になった。それがいいことかそうでないかは判らない。外部世界が身に染みこんできているというかワタシが世界に溶け込んで行っているというか、世界とワタシが一体のものになっていく感触である。善し悪しは別としてワタシはその感触を喜んでいる。もちろん世界はただ単にワタシが受け止めているセカイにすぎないことも判っている。
外を意識することによって内が起ち上がり、さらにそれを意識しつつ身の習いにすることによって、外と内の端境が溶け合って一つに感じられる。これが「関係」の動態的感触だ。それを感じることが世界というワタシには未だ不可知の外部を認知することであり逆にそれによってワタシという内部がセカイとして屹立していることを感知する。もちろんなぜそうなっているのかと自問すると、ワタシの内部もまた不可知の世界に満ちているとワカル。つまり外も内も世界もセカイも、内にも外にも広がりと奥行きを持っている。ヒトはそれを恒に常に往き来することによって動態的に外と内を感知し続けることを通じて、わが身が何処からきて如何なる地点に立ちどこへ向かっているのかを、若干感知することができる。そこに、生きることへの自問の自答があるような気がする。
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