個々が起ち上がったというのには、私の目にはそう見えたという視点が伴う。それを抜きにして、あたかも神がみているように「個々が起ち上がった」と客観的なデキゴトのようにいうのが、その頃までの知識人の台詞であった。もし前回紹介した、一人いたという「突出した癖の強い思想家」がそうであったら、癖が強いとも言わないし、ひょっとすると思想家とも呼ばなかったろう。
1968年に象徴的に集約される思想情況は吉本隆明の『自立の思想的拠点』に表現されている。思想的な軸が何によって支えられているかを、それまで人類史が蓄積してきた知的堆積物をひと度チャラにして、銘々各人が自問自答することを(知識人を自称する人たちに)要求するものであった。ささらほうさらの源流となるグルーピングの、一人の「突出した癖の強い思想家」は、いち早くそれを手がけ、必死に自分と格闘していた(と、出合って後の私は受け止めた)。
千葉県九十九里の北の方に位置する田舎町の石材店に生まれ、中学を出てすぐに東京に出てきて新聞配達をしながら定時制高校に通って国立の四年制大学に学んだ彼は、「苦学生」という言葉に汲み尽くせない世の中の抑圧と非情とを身に刻んできたと思われた。1960年すでに大学に籍を置いていた彼にとって、60年安保の政治状況の中でいろいろな政治党派の言説の渦の中にいて、流通する言葉の不確かさと空疎さに苛まれていたのではないか(と知りあって後の私は想像している)。
1960年代の後半に出合ったとき彼は、人の口から吐き出されるいろんな言説が、何を根拠にして(そう述べて)いるのかを恒に常に問いかけた。それはまるで、自立の思想的拠点(と吉本の言う「大衆の幻像」)を彼自身が探し求めているようであった。私からみると彼はすでに自立の思想的拠点を身に備えていた。私の育ったのほほんとした環境に比して、彼の舐めてきた辛酸は世の人に対する見極めを鋭くし辛辣であった。でもひょっとすると彼は、自身のそういう人柄を、苦々しく思い、その衣装を脱ぎ捨てたいと思っていたのかもしれない。彼が批判したり非難したり反問する対象が、何処に身を置きどのように状況を捉えそれがあなたにどう関係するのかを問う。その言説を身の裡に問い降ろし腑に落としてさらに胸中に構成し直して、鋭い槍を突き出すように言葉にしていった。批判や非難や怒りというか憤懣を繰り出すことによって自らの「幻像」を描き直そうとしていると、文化的にはまったくズレた岡山の地方都市から出てきた私は、自身の身に照らして感じていた。
ささらほうさらの源流のグルーピングにかかわった人たちは、10年、20年というスパンで振り返ってみると、月2回の集まりの毎に何かを感じそれを反芻し、日々のわが身の在り様に問いかけ、自らが変わっていくことに挑戦していたのだと、わが身を重ねて思う。一つは自身の言説であり、もう一つは身の在り様であり、それらを繋ぐ感性や感覚、一つにまとめて関係を感知する「心」のイメージ。そしてそのようにして感受する情況に自らがどう位置しているかをマッピングして、自身の振る舞いを定め、どういう言葉を伝えるか思案する。細かく分節化するとそういうことになるが、それらをいちいち思案していたら、とても現場に起こる事態に即応できない。躰がほとんど反射的に反応するように身の習いにすることがワタシの習慣になった。
ささらほうさらの源流のグルーピングは、この「突出した癖の強い思想家」がいたことによって、自分の言葉で喋ること、書くことが気風となり、ただ単に個々人は違うという個性次元の話ではなく、自分の得意技をもってこのグルーピングに位置することを各人に要求するものであった。
それと同時に、「機関紙」の初代編集長を筆頭とする「遊びをせんとや生まれけむ」人たちの存在が大きかった。それを取り込んだ「遊事」や「運事」、作業変格活用によって社会的な気風とは異なる関係の風景をつくっていったのであった。軸になったのは身のこなし、立ち居振る舞いであった。己の抱く人に対する印象や感懐を口にしないではいられなかった「突出した癖の強い思想家」は、その動きによって逆に刺激を受け、面々との関係を作り上げ、自らの身に蓄積された身の習いを浄化再編しようとしていたと、ワタシは言葉の端々に感じていた。
いま振り返って図式化してみると、ささらほうさらのグルーピングは二つの焦点をもって楕円軌道の気風を描いていたと空間的には言える。それに時間軸が加わり螺旋軌道となってここまでの半世紀を辿ってきた。二つの焦点の一つは思索言説の固有性、もう一つの焦点は躰に刻まれた無意識あるいは習慣化されて意識の奥深くに潜在する身の習いであった。
前者は「学事」と呼ばれ、後者は「遊事」とか「運事」を含む作業変格活用、「遊び」であった。前者は知の世界の地平に繋がり、後者は血の命脈に結びついていた。当時それを、知意識人と血意識人と表現して面白がり遊んでいたのだが、この二重焦点の動きと関係があったから、ささらほうさらの源流のグルーピングは長く続いたのだと私はワタシの位置づけと変容を振り返って思っている。
簡略に十年単位で私のグルーピング内での位置づけの変容を言い表すとどうなるだろうか。アラフォーのころワタシは自身の存在領域を限定して生きることに専念していた。まさしく「不惑」であった。仕事もそうだが日々の暮らしも含めて、一つひとつ、いまその現場で起こっていること、そこでの私の振る舞いがワタシを問うていると受け止めた。自問自答である。もっと広い次元とかもっと高い次元でそれが持つ意味を思案するなどではなく、その現場でいま生じている事態がワタシのセカイであると自己限定することであった。
それはワタシの外部に世界が屹立していることを承知することでもあった。それが普遍世界としてワタシのセカイに触れてくるところで私との関係が生まれ、私がそれを意識的に受け止めたところでワタシのセカイになる。その余はワカラナイ世界だ。そう位置づけてみると、いかにワタシがちっぽけな存在であるかが浮かび上がる。いや、ちっぽけと言うどころか、外部世界にとってはまったく取るに足らない存在である。ちょうどそのころどこかの気象学者がバタフライ・エフェクトと発表しているのを読んだ。一羽の蝶の羽ばたきがメキシコだかテキサスだかに竜巻を起こす。つまり世界は微細にかかわっているという学説だったが、これは私にとって神は微細に宿るという言葉のエビデンスのように響いた。私の現場でワタシは何をしているのか、なぜそうしているのか。そう自問自答することが世界にかかわる私の立ち位置である、と。
これがアラフィフの頃にもう一皮剝けたと振り返ってさらに思う。二重焦点の螺旋運動の中で「知命」を知った。天命を知ると50歳を別称するがこれは、自身の「在り様の現在」が「天命」であると見極めることだと気づいた。これは仏教用語でいう諦念ではなく、全き自己肯定を意味した。自身の身の裡に湧いてくる欲望ではなく、今此処に於ける自身の在り様がワタシなのだという見極め。これは演繹的な思考法の毒気がすっかりわが身から抜け、現象論的なコトの受け止め方へ転換していたことを示している。ワタシが何をしたいのかと問うと、それは空っぽ。身を置く現場の成り行き任せ。わが感性の赴くままに振る舞い、それに反応する人々の姿が変わるのと応答しつつ、向かうところへ向かう。それは私の自然感にも相応する境地へと退職後に向かう素地を築くものであった。
そのころ「突出した癖の強い思想家」は何冊もの著書を上梓して教育社会学会に招かれるなど、知意識人としての階梯を上っていた。彼の持つ言説の特異性もあって、論壇の若手哲学者や教育学者立ちにも「何かに依拠するのではなく、あなた自身の言説で十分論壇に通用する」とけしかけられていたのを、私は傍らにいて耳にしていた。彼自身は、しかし、教育現場から繰り出す人間論、社会論、政治論を紡ぐ立ち位置を崩すことなく、ささらほうさらの源流のグルーピングに身を置いていた。
ところがもう一つの焦点を為していた「遊び」の初代編集長は、70年代の前半で高校教師という型にはまった立ち位置に身が耐えられず、さっさと退職して不動産屋に転身していた。言うまでもなく活計を立てる身過ぎ世過ぎ。その後塾の教師や建設工事現場の作業員、中学校の用務員などを転々とし、そこでもエクリチュールの剰余を排出して「あそび」を貫き通して「ささらほうさら」にしていたのであった。これは私の暮らし感覚が全くの小市民であることを反照することでもあった。これまでも折に触れて述べてきたように作家・鈴木正興の実存は、つねにワタシの在り様に対して批判的に定立し、畏敬の念を呼び覚ます。
こうして私は、ささらほうさらにおいては、おしゃべりな好々爺として、いま籍を置いている。言葉を交わす面々が私の物書きの原動力になっているのである。
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