もう一つ「根拠を語らない権力」がなぜ強いのか自問しています。1年前に述べたように、(そうすることによって)権力に向き合うヒトに(権力の意向の)内面化を図るからですが、なぜ、そうして内面化が促進されるのでしょうか。それがヒトのクセだからと私は考えています。
でもどうして、それが人のクセになったのか。
なぜそうするの? とヒトが自問するからです。
なぜそう自問するのか? ヒトの自意識が形づくられるまでの間に、ヒトの感性や思考の原型は刷り込まれているからです。ヒトの文化の継承は、その大半が生活習慣の中で受け継がれ形づくられていきます。歩くことから始まり、喜怒哀楽も、趣味嗜好も、成育中の環境からもたらされ、本人はソレが何であるかを意識することなく身につけていきます。無意識の人間形成でもあります。自意識というのは、そのわが身が周囲と違うことに気づいたところから芽生えはじめます。褒められたり叱られたりする毀誉褒貶が、違いを表すことが多いのですが、なぜ褒められているのか、なぜ叱られているのかを受け止めるときでさえ、そのワケを意識することなく何となくこうすると褒められる、こうすると叱られるとイメージで受けとって、それに対する適応を身につけていっています。
心理学では第一反抗期、第二反抗期と時期を分けて、自意識の変化を規定していますが、そういう、いつ知らず身に付けた感覚や思考の原型が、意識して世界を学びはじめて後の、自分の身の裡の不思議として残りつづける。いやわが身の不思議と(対象化して)見ていればそれほど苦悶することはないでしょう。だがたいていは、人と比べてわが身の偏りをなげき、わが身の環境の拙さを悲運と見てそしり、煩悶し、わが身の実存がイヤになってしまのです。それを抜け出すには、何かをするときになぜそうするのかと(自問ばかりでなく人にも)問うほかありません。その習慣がクセになると言えましょうか。そう私は、自答しています。
子どもにとって大人は(存在それ自体が)不可知の権威です。その大人と(関係的に)接するとき大人の意向は権力となります。なぜそうするの? と問えばいいと、優しい大人はいうかも知れません。でもそんなことをしたら、いつも子どもは「問い」ばかりを大人に向けなければなりません。うるさいなもうと叱られるか、自分で考えなさいと諭されるかになります。
でも子どもがそれなりに大きくなると、大人もそう簡単に子どもの問いを退けるわけにはいかなくなります。単純な問いほど応えにくいものはありません。問われてはじめて大人も、自分自身もなぜかは分からないでそうしてきた「わが身の不思議」に出合うってこともあります。いや、たいていは「不思議」ばかりなんだと、80歳になる私は今でも日々実感しています。でもこの歳になると、わが身の不思議はワクワクするような関心事なのですが、世の中の真っ只中で活躍している大人や、これからそこへ飛び込んでいこうとしている青年たちは、そんな暢気なことを言ってはいられませんね。子どもに問われたら、何某かの答えを繰り出さなければなりません。その時、間に合わせの答えをすると、ほぼ間違いなくウソっぽくなります。「不可知の大人」(の権威)がその一言で崩れ去ります。権威も、それをベースにして発動される権力も、そうなっては立つ瀬がなくなります。
権力を行使する立場に立った賢い大人は、それを熟知していますから、「根拠を語らない」。「有無を言わせない」。しかしそれでは皆さんの支持をうることはできないよということから、あれこれと弁舌爽やかに遣り取りをするようになったのが、ギリシャの直接民主主義の始まりでしたね。結局そこで、弁論術という口先ばかり、反駁し相手をへこました方が勝ちという、口舌の輩が蔓延って、ちっとも人としての在り様の根拠を問うのに対して答えが出て来ない。分かったフリをして勝手なことを言うんじゃないよと、命を張ったのがソクラテスでしたね。それを文字に残して体系的なテツガクとして世に伝えたのがプラントンでしたっけ。いや、今お話ししようというのは、テツガクの話じゃないんです。そのギリシャをモデルとして、近代になって復活したのが民主主義でしたから、そもそも民主主義というのは、ワケを明示し、根拠を示して政治方針を決定するということが運命づけられているわけです。
では、民主主義国家の権力ってのは、端から立論の底を見せて「有無を言わせない」力を揮うってことになる。これって、そもそもが無理なんじゃないと、私ならずとも思いますよね。そこで一つ提出されたのが、法的に決定されたことには遵うという法治主義でした。こう言い換えるとよくわかります。私たち人は完璧じゃない。それどころか、ヨノナカバカナノヨといってもいいくらい、私たちはちゃらんぽらんに物事を決めている。でも、皆で決めたことには遵いましょうというのを根拠とすれば、そこをスタート地点として民主主義は成立する。もちろんヒトは誤ることもあります。その時は、決定を修正すればいい。そうしましょうというのが、神のいなくなった人間社会の自己統治のルールになったわけです。最善とは行かないが、次善の策です。
これは、中国がいま採っている「法治主義」とは違います。中国の場合は、どちらかというとプラトン的な考え方に則っています。次善の策では、状況に左右される人々の気分の移ろいによって賢者を死刑に処すことまでやりかねない。世の真実を見きわめ真理を見ることのできる理性を持ったものが御者となって統治してこそ、理想の国家が築けるというのがプラントンの理想国家です。中国は、共産党という真理真実を見極めることのできる、謂わば理性の権化=共産党が指導してこそ、統治は理想的に展開できると論理立てをして、そこからすべての政治体制を導き出しています。これも、民衆の暮らしを最重要にした人民民主主義だというわけです。民が自身で統治するのではなく、理性を持った御者が知恵を発揮して民の幸せを中心に据えた統治をするというのですが、これって、お上に任せて過ごす民草って響き。それが民主主義なら、江戸時代の武士の統治に任せるほかないどこが違うのでしょうね。
民の民による民のための統治というのが民主主義だと思うと、まず統治に必要な情報は民に開示して、どういう論理立てで、そういう維持決定になるのかを筋道立てて示さなくてはなりません。情報開示が不可欠。でもそうなると、不可知性は消えますから、「権威」は消えてしまいますね。その矛盾に苦しんでいるのが、今の日本の政治ってとこでしょうか。投票率が下がってるのは、愛想を尽かしている反面、どう転んでもそう悪くあるまいと高をくくっている姿でもあります。政治学者の一部には、強権的統治は東アジア民族の体質に合ってるんじゃないかという言説まで出るほどです。
この状況を何とかしたいと思う為政者が、ついつい「根拠を語らない権力」の魅力に取り憑くかれるのは、わからなくもありません。アベ=スガ政権がそうでしたね。でもそのお陰で官僚機構のエリート意識は腐り始め、周りの政治家たちもすっかり陣笠に堕してしまっています。ソクラテスに死刑判決を出した市民たちのようです。プラトン・パラドクスとでもいいましょうか。テツガクなきソフィスト政治といいましょうか。中国式のプラトニズムもイヤですが、ソフィスト政治も御免被りたいですね。
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