2023年4月10日月曜日

他人事にする手続き

 一日中校正をしている。読むでもなく、読む。本当に読むと、誤字脱字に気づかないことが多くなる。文章を読むときには、文字を見るというより意味を汲み取っている。山行記録だから、頭の中に場面が起ち上がる。かつてわが身が体験したことだ。彷彿とするというが、まさしく再現されるかのよう。鬱蒼とした木々に囲まれた小径、ゴツゴツした岩をバランスを取りながら踏んで歩く様子が胸中に甦る。

 危ない岩場などを通過し終わって平地が見える九十九折れの一つの角を曲がるとき、躰が大きく迫り出して転落したことがあった。それほどボンヤリしていたわけではない。でも気が緩んでいたことは確かだなあと気分も湧き出す。なぜ足を踏み外したかは「わからない」と記している。細い道ではない。山道としてはわりと幅があった。にもかかわらず「わからない」というのが2019年の記録。だが、2021年の滑落事故後の今は、分かる気がする。手当てをした医者が診察後に「これは事故の結果じゃなくて原因だよ」といった頸随の圧迫。

 そんなことを思い巡らしながら校正をしていると、文字はどこかへ行ってしまう。読むでもなく読み、何を意味しているかは外さず、想像力を空にして文字列を目で追う。こういうのって、エクリチュール・ヴァーチャルを横に措くっていうだろうか。そんな埒もないことを考えながら、デスクワークをしている。

 校正をしていると、ものを書くときの私の欠点が露わに目に止まる。PCでタイピングをして書いているから、タイプミスや変換の誤字が多くなる。3年前まで使っていたPCのキーボードは、キーの文字がすり切れて見えなくなっていた。そこへもってきて根がせっかちなものだから、指が勝手に動く。昔はブラインドタッチといった。「ところが」が「とろこが」になったり「山行記録」が「参考記録」になっていたりする。加えて5年ほど前から、デュピュイトラン拘縮という、2百年前ナポレオンの主治医をしていた人の名がついた手掌の不都合を患ってきた。指が思うように動かない。自ずからブラインドタッチができなくなり、打ち間違いが多くなる。そんなことが胸中に彷彿とすると、ますます文字列を追えなくなる。

 時々垂れている首を後ろに反らせて首と肩の凝りをほぐす。そうして、ふと思う。ひょっとすると本にするって、この校正の味わいを身に染みこませるためにしているんじゃないか、と。

 校正の味わいって?

 かつて書き落としたものを、読むでもなく読むという行為を通じて、他人事のようにわが身から離れてゆくことの手続きなんじゃないか。誰が書いたか分からないものの、文字列を追い、意味することの喚起するイメージを脇に措いて、でもこの表現で(世に流通するセンテンスとして)いいのかなと、クールに見る。山の名など、案外我流のものが多い。尾瀬の「燧岳」が「燧ヶ岳」だと、山と溪谷社の「日本の山」にはある。「赤鞍が岳」と表記した山名が「赤鞍ヶ岳」なのか「赤鞍ガ岳」なのかわからない。山と溪谷社の「東京周辺の山」にも載っていない。地図から拾って「赤鞍ヶ岳」であると確認する。私的記録だと、「赤鞍が岳」で一向に構わないのだが、本にするとなるとそう言って済ませるわけにはいかない。わが身から突き放して、他人事にする。つまり私的なエクリチュールも、公的なものとするには、それだけの手続きが必要になる。

 人と言葉を交わすってのにも、こういう校正の味わいのような手続きが必要なのではないか。一旦湧いてきた言葉を口にする前に胸中で吟味する。なぜそう感じるのか。そう思うのか。それらの根拠を確認する。言葉を交わすというからには、いちいち立ち止まって考えているワケにはいかない。これを癖にする。そうすることによって、慥かな意思表明ができる。そんな感じがする。メンドクサイね、人間て。

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