2023年4月18日火曜日

体感の構造

 いい季節になった。過ごしやすい気温が心地よい。部屋の寒暖計を見るとほぼ20℃。起きてパジャマを着替えるとき、おや今日はちょっと肌寒いかなと思った。半袖の下着ではなく長袖にした。その上に着るものもTシャツではなく長袖。昨日の昼間より冷えているのかな。

 ちょっと不思議に思うのは、冬場の室温と同じなのに肌寒く感じるのはなぜなのだろう。冬場、室温が17℃あたりになると空調の暖房を入れる。温める室温は20℃に設定している。だから今朝の室温は暖かいと感じてもいいはずなのに、なぜか冬場とは違って身体が受け止めている。

 この体感て、何だろう。寒いところから帰ってきて暖かいが部屋に入ると、ああ、暖かいと感じるのは、相対的温度としてよくわかる。逆の場合もそうだ。だが、外気に触れる前に室温に感じる体感は、外気に触れた記憶が相対的実感の反照になっているのだろうか。とすると体感というのも、随分観念的な要素を含み込んでいるように思える。

 季節的な変化への身体の順応も関係しているであろう。外を歩いて汗ばむか心地よいか。あさ3、4℃の冷気の中を歩き始めるときに身に感じる軽い緊張は、さあ、これから今日も歩くぞと身を引き締めることにもなって、私はうれしく思ったのは先月のお遍路のときであった。身体は寒暖計のように客観数値で感知していない。どちらかというと音を聞くように、リズムやメロディやその調性のテンポやズレの醸し出す響きが皮膚表面や骨や鼓膜に届いて何某かのイメージを湧き立たせる。それが心のふくらみとして身体の隅々に行き渡り、世界と交歓する感触として意識される。交歓というと、いいことばかりのように思うかもしれないが、そうではない。気色の悪い感覚、恐ろしい響きというような違和感、気温でいうと寒気がしたり、寒いわけではないが身の裡が怖気を振るったりすることもある。それは、外部の気温という空気の気配が、わが身の裡に堆積している何某かの経験値と相乗して醸し出されてくる感触である。だから外からの刺激に(良くも悪くも)応えて裡側が呼応しているのだ。

 その呼応に、身の習いというか習慣的に身体に刻んだイメージのようなものが絡んで、心持ちをポジティブにさせたりグリーフにさせたりするように、身の感官が働いているのかな。と同時にいまの私には年々その感度が鈍くなっていっている。だから以前にはそれほど感じなかった、冬場と春めいた3月と初夏に移行する現在の寒暖差の体感が、おやそう言えば違っているなあと頭で気が付くのかもしれない。

 つまり元気な若い頃には、外気温の多少の変動に気づくこともなくわが身の裡の熱処理装置の調整で片付いていたものが、肌着や上着や靴下や襟巻きなどで一つひとつを外部的に調整しなくちゃならないほど身体の自動調整能力が鈍くなってきた。そうしている自分に気づいたのが、今朝の「発見」であったということか。

 とすると体感ということも、外部環境との交通というか往来を通じて動態的に変容し、やはり無意識にその径庭を身に刻み、ふと気づいたときに何か新しいコトを発見したように意識世界に送り出していると言える。感官機能とそれを受け止めて「体感」として意識に送り届ける間をつないでいる「こころ」とはどういう構造というか、機能的な関係を持っているのだろうか。これもまた、面白そうに思える。

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