去年のa銃撃のyの模倣犯だろうか、選挙中の首相が襲撃された。それに関して、a銃撃を持ち上げたり、yに対する世論が甘いからだと(橋下徹などから)非難する声が上がっているという。簡略な速報ニュースでは、誰に対するどのような論脈の非難なのかワカラナイから、そう非難されるに値する気分を持っていた一知半解の門前の小僧として、それってそうか? と自問自答している。
yの犯罪に関して私は、統一教会に対するyの怨念が教会の宣伝活動に一役買っているとみなされたaに向けられたとみていた。統一教会の活動がyの家族に及ぼした結果に関しては(その責任が誰にあるかは別とすれば)yが怨念を抱き、それを晴らしたいと思うのは(短絡かどうかは別として)よく理解できる。もちろんその私の感じた感懐が、yの起こした銃撃に対して「甘い反応」になるということもよくわかる。でもそれは、非難されるようなことなのだろうか。それが模倣犯罪の土壌になるという指摘は、yの犯罪がなぜ起こったのかを究めていくのとは違った、表面的なデキゴトの連なりに文句を言っているだけではないのか。
yの犯行動機が判ってきた後に、統一教会の活動とaとの繋がり、さらにaが率いる党派や派閥の政治家たちがひとかたならぬ関係を持ち、教会の宣伝活動に深く関わっていたことも明らかにされてきた。ところが、その党派の総裁であるkは、政治家一人一人が対処することとしてほとんど放置するに等しい向き合い方しかしていない。当の政治家たちも「関係を断ち切る」と口では言っているが、それが本当に為されているのかどうか、また、これまで関わっていたことがどうモンダイであったかを、ほとんどの政治家は言葉にしていない。岡目八目の私が見ても、当の政治家が誠実に対処しているとはまったく思えない。
なるほど井戸端メディアも含めてメディアは、よく調査取材して追求していたように感じる。私たちにはそれしか知る手立てがないから特にそう感じる。それに比して政治家たちの動きは「嵐が過ぎる」のをただただ待つように鈍い。見方によっては、関係する政治家たちはスクラムを組んで、このモンダイを一過性のデキゴトとあしらおうとしているのではないか。そう見える。今の日本社会の問題として位置づけ、政治家ばかりかyの母親のような心の行方がなぜ生まれたかにも関心をとどめていない。つまり現在の日本社会のモンダイとして捉えようとしていない。まるで他人事。お役所の仕事に転化しただけで、ほぼ傍観して、今度の統一地方選挙にも臨んだとみている。
もし今度のk襲撃がyに触発された模倣犯だとしたら、yに対して「甘い反応」をしたのは、統一教会と関わってきた政治家たちであり、目下名目的であれそれを率いているkたちではないのか。それを、yの犯行動機に同情的な人たちに向けて非難しているのだとしたら、やはりそれも他人事扱い。見当違いといわねばならない。
ひょっとすると模倣犯と言うよりも、yの衝撃的なモンダイ提起にもかかわらず、鈍い反応しか示さない世情に、再びカツを入れる意図があったかもしれないとさえ思う。とするとこれは引き続きのモンダイ提起。模倣犯罪と呼ぶのかどうか。yが提起したモンダイは、統一教会と政権党の当時のトップとが結託し、それを引きずった孫の代になって噴き出したように、その間の半世紀以上に及ぶ日本社会の歩んだ道と深く関わっているんじゃないか。
日本の1950年代後半から現在に至るまでの経済的成長と爛熟と失速。冷戦の終結や一極支配への突入とグローバル化の世界。それがもたらした大いなる不均衡とほぼ捨て置かれ、資源的に搾取されるばかりのように扱われた未開発や発展途上国の人々。それらの動態的絡まりが生み出した日本社会の中の貧困と搾取と苛烈な競争、それが生み出す不安と鬱屈。その捌け口もない。高齢者はバブルの余剰を食い潰して、まだ余裕があるかもしれないが、その分「失われた*十年」のツケが若い人たちに被さってくる。この時代を生きた誰もが当事者である。
yの犯行も、この世代の不安や鬱屈が臨界点に達したからだと見ると、彼の去年の犯行の始末が、社会的には少しも為されていない。まだ臨界点は引き続いている。yのモンダイ提起を繰り返し突き出してくる若い人が今後も陸続することは十分考えられる。
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