WBCに日本チームが優勝して後のTV番組を見ていると、もう大谷翔平しかいないのかよと言うほどに、オオタニ・ショウヘイ、一本槍。あるいはその余波である、野球、または大リーグ。企画の貧困というか、誇らしさのよりどころがココしかないと謂わんばかり。これって、ナショナル・アイデンティティが消失間近な反照なのかと感じさせる。失われた*十年というのは、ひょっとすると国民的一体感を感じる「誇らしさ」の喪失じゃないかと思った。
暮らしにおける国民的な一体感はどういう盛衰をたどったのか。
大方が等し並みに貧しい時代には、経済的に豊かになること、衣食足る暮らしのできることが国民共通の希望であったと、先に述べた。高度経済成長のはじまった頃のことだ。それはナショナル・アイデンティティと呼んでもいい気分の共有であった。「芸術は爆発だ」という岡本太郎がもてはやされたのは、重厚長大と言われた産業的な生産活動の頂点の頃、1970年の大阪万博のころのことだ。安かろう悪かろうといわれた生産活動に品質管理が持ち込まれた。エネルギー資源の乏しかった日本の工業が、石油危機を経て環境汚染と省エネに取り組み、自動車産業においてアメリカを追い越し、一躍世界のトップに躍り出たのは1980年のことであった。繊維産業中心だった日米貿易摩擦の焦点は、鉄鋼や自動車に移ってきていた。
それは同時に後から考えると(国内的にも、先進国間に於いても)、重厚長大型産業から多品種少量生産へ移行していく時代になっていた。労働賃金が高くなり、人々の暮らしは食べていけるかどうかではなく、「おいしい生活」(1982年)に移っていっていた。好みも多様化し、サービス業が主軸になり、国内交通網が整備され流通業が増えていった。
そのころから加速した物質的な豊かさの進行に伴い、共有していた一体感がさまざまに別れ、「人生いろいろ」と島倉千代子が歌ったのは1987年。学校の教育における画一化が非難を浴び、多様化が推奨され、文科省が「ゆとり教育」を提唱したのは1980年であった。暮らしにゆとりが出てきた。生き方もワンパターンでなくなった。それと同時に、豊かな家庭に育てられた子どもたちにも、変化がみられるようになった。非行、暴力、不登校からはじまり、「ふつうの子どもたちが変だ」といわれ、学級崩壊が広く報道されるようになったのも、1980年代であった。
皮肉にも、1960年代初頭の国民的な共通の希望が実現することによって、同じようなものを着て、似たような暮らしをすることへの疑問が生じてきた。高度経済成長からバブル時代を通じて進行した暮らし(感覚)の変容は、人々の紐帯を地方行政へ明け渡し、個人が単体で社会に投げ出されるような個人主義の時代を生み出したのであった。
思い起こすのは三十数年前。1980年代の一億総中流と呼ばれた経済的バブルは、大方の国民が日本の勁さを豊かさに実感し、鼻高々だった。これはナショナル・アイデンティティの最後の照り輝きだったと言えよう。大蔵官僚が主導するエリート統治は、もっとも成功した「(革命なき)社会主義」として欧米知識人の常識となった。日本の終身雇用、会社勤めと人生とが一体化している昇給制度とか、株主よりも従業員との一体感を重視する)日本的経営の利点が、盛んに取り沙汰された。社会文化を含む社会関係の欧米との違いが肯定的に評価され、ナショナル・アイデンティティとして受け容れられた。WWⅡに勝ったのはどっちだと巷の評判であった。これが1991年頃まで続いたバブル経済にみるナショナル・アイデンティティの最後の輝きであった。
それが、1990年代半ばから変わってきた。世界の経済競争のトップランナーになったと言われたバブル経済が1991年~1996年にかけて崩壊して以降、なぜか日本経済は影を潜めた。単なる(日銀や政府の)金利・金融政策の誤りといえないさまざまな要因が絡んでいる。
それが1989年に始まる東西対立の終了、その後に続くソビエトの崩壊とどう関連しているのか。「歴史は終わった」とアメリカのフランシス・フクヤマに言わしめたアメリカの一極支配体制とどう関連して、どう世界政治が動いたのか、分からない。父ブッシュ米大統領が日本を訪問して600兆円の日本の国内需要喚起策を要請し実現したことはよく知られている。なぜそれが受け容れられたのか、私たちにはわからない。それで「なぜか」と言ったのだが、アメリカの強い要請があったことは当時の外交官が証言しているが、なぜ日本の為政者がそれに合意したのかは、分からない。陰謀説も繰り出されていた。
符節を合わせるのが、IT時代の到来であった。アメリカのゴア副大統領が全米にITネットワークを張り巡らしたのが1993年、たちまちそれは世界を席巻し、アメリカン・スタンダードが世界を覆うようになった。日本の政財界に対して陰に陽にさまざまな働きかけが為され、日本はそれに対応する経済的な改変を行わざるを得なかったと、大方のエコノミストは指摘する。産業社会の発展段階の前期である高度経済成長が終わって高度消費社会に突入したとき、経済のフィールドは大きな転換に入っていた。日本より一歩(約20年)先んじていたアメリカや経済統合することによって進展のばらつきを補正してきたヨーロッパと同じ道をたどることは出来ないにしても、高度消費社会における産業へ大きく転換する時を向かえていることを意識しなければならなかった。
表だって目に見えたのは、1990年代半ばから急速に進んだ経済のグローバル化と金融市場の流動性の活発化である。会社法が改定され、企業の会計基準を世界標準に合わせるなど、株主の利益を主体とした経営へと改められていった。企業買収(M&A)や企業の吸収・合併が盛んに行われるようになったのはそれに少し遅れてから。コンプライアンスという言葉が駆け巡った。総会屋が閉め出され、経営者と暴力団との関係が断ち切られた。企業は収益を上げることが最優先され、株価の推移が経営や経済政策の最優先関心指標となったのもこの頃からであった。
これは単にアメリカ式経営へ移行すればいいというものではなかった。アメリカン・スタンダードの適用に順応するためには、旧来の日本的システムと齟齬する部分を改革するほかなかった。だが、それには旧来の家族制度や社会の気風に手を付ける必要もあった。日本の「終身雇用」と呼ばれる仕組みは、人の生涯の変化に合わせて昇給もし昇進もしていくものであった。それに伴う昇進や昇給、雇用や転職やのシステムを抜本的に変えるしかない。しかし、そんな社会意識とシステムの改革が政府の政策で変えられようはずもなかった。保守政治家は古い社会通念に基盤を置いている。経営者はグローバルな競争に備えて身を護ろうと備えを固める。
リーマンショックの後だったか、ニューノーマルという言葉が経済誌を賑わした。新しい事態が定着して、新しい社会の常態になったことをそう呼んだ。だが、どれほどの企業経営者がそう意識していただろうか。
コンプライアンス(法令遵守)を(不正が)見つからなければ守られていると考える経営者たちは、旧来のセンスのままで新しい事態に向き合っていたと言える。会計も、製品検査も、誤魔化し、隠蔽し、内部告発によって初めて、公的な場で頭を下げる。しかし見つかったのを悪かったとは思っても、やったことが悪かったとは必ずしも思っていない。自分のために不正をしたのではないとわかると、それだけで「不正」を許容する空気が会社にも、社会にもある。ここでも視野が、ごく身近に、そして短期的に狭窄されている。万一に備えて、賃金を削ってでも社内留保金を蓄える。大企業は、下請け企業への生産価格圧力を強め、安価な海外への発注へ舵を切る。関係部所や人は切り捨てる。雇用制度がそのように変わってきた。正規社員は調整しやすい非正規社員に代えていく。中小企業も中核の技術者を引き連れて、労働力の安い海外へ出て行くほかない。当然のように、日本の国内でそれなりに創造的な仕事をしていた技術は流出する。
海外で安く生産して輸入すればいいじゃないかと考える産業家、エコノミストや為政者も多くなる。しかしそれが経済関係だけで(機能的に)考えればいい問題でないことに後になって気づく。国内の優秀な技術者も海外へと出て行ってしまう事態となった。輸出産業中心に政策が組まれ、大企業中心に施策が練られ、国内全体を見通した構造改革の戦略は、どこかに祀られてしまっている。30年経って気づけば、それでもまだ、ましだ。いまだにGDPの成長が滴り落ちることで国民皆が豊かになると信じているエコノミストが、その分野だけの狭い了見だと気づくのは、何を契機にしてだろうか。
すでに人々の心持ちの中では、国民として一体性を感じる要素は1980年代を通じて崩れてきていた。しかしそれも、バブルのシャショナル・アイデンティティが効果を持っている間は表面化しない。それが崩壊して、一気に噴き出したようにとりあげられる。1996年に文科省は学校の儀式における国旗掲揚・国歌斉唱を義務づけり指示を出し、1999年には「国旗・国歌法」を成立させて、現場では「口パク」を禁じて管理職がチェックするということまで知りようになった。これは、そうでもしなければ保持できないほど、国民としての一体性が薄れてしまっていたのである。
失われた三十年。失われたのはナショナル・アイデンティティだ。
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