足掛け3年、精確には2年と10ヶ月ぶりに「ささらほうさら」の集まりがあった。半世紀以上、毎月親しく付き合ってきた、いまは年寄りの老人会。80歳団子を筆頭に70歳以上が集う。いうまでもなく、サザエさんやののちゃんと違って、昔から老人だったわけではない。集まりの名も渾名も、向き合う場面によって代わっていた。面々も世の平均年齢のご多分に漏れず彼岸に渡ったものも何人かいて、限界集落ならぬ限界集団の態を為している。
17年前までは月に2回、それ以降は月に1回のペースで集まっておしゃべりの会をもってきた。集まる人の数も二桁を維持し、時には三桁になることもあった。どうしてこんなに長続きしたのだろうか。
何か使命感があったわけではない。雲の中の水分が空気中の塵などを核にして雨粒になり雨となって降るように、核になる塵があった。それを半月間で出していた「機関紙」があったからと、初めのうちは考えてきたが、ではどうして機関紙の発行作業が続いたのかと問いを深めると応えは雲散霧消してしまう。
機関紙の主たる問題領域は「教育」であったが、実際の記事を眺めてみると教育領野に限らない。本に関するコメントあり、メディアの報道に対する批評があり、仕事現場の日常にみられる年齢や性や職能にまつわる問題も、事象に関するとらえ方、その感覚や思索など、言葉を軸にして遣り取りすることのできることが盛り込まれていた。しかしそれが記事になったからといって批評するわけでもなく、ああ、彼奴はこういう風に考えてんだ、此奴はこんなことを思ってるんだと、人それぞれの身に抱えている感覚や思索の感触を、これまた受けとる人それぞれに感じ取っていただけであった。何しろ初代の編集長が、「出すことに意義がある。内容は問わない」と言明してスタートしたから、その気風が染み通っていた。
だが、当初の3年間くらい無料で3千部ほど配っていたガリ刷り十数ページの隔週刊誌は、受けとった教育関係の現場では「メイワクだ」と言われるほど刺激的であった。簡略にいうと、啓蒙的・平等的・民主的風潮が覆っていた教育現場に、はたしてそうなのかと疑問符を突きつけていたのであった。教師と生徒の位置関係を巡って教師は管理的であることを放棄できるのか。むしろ権力的に振る舞っているし、そうしなければ学校lは維持できないのではないか。「教える-教わる」という関係には、権力関係を抜きにできない「大人-子ども」関係もあろうし、「指導-被指導」関係が予めセットされている。それを抜きにしては教師-生徒という関係は成り立たないと切り込んでいたからだ。「メイワク」だから無料にもかかわらずカンパが寄せられていた。だが、発足当初に、支援を受けた義理を果たした後は「有料」にして、無料の押しつけ配布を止めた。発行部数は3分の1になったが、そのころから書く側も主たる論題から目を離すことができなくなり、集まってのおしゃべりにもテーマが現れるようになった。ほんの中心軸の数名がそのような言葉を交わすだけで、集まった人たちはそれを小耳に挟む程度。遣り取りに加わったわけではないが、その気風が身体感に伝わっていったといおうか。誰が意図したわけではないが、主たる論題を直接議題にして遣り取りしたことは殆どない。そもそれを直に論題にしていたら、十年も持たない内に消えていたろう。
では、なにが長続きした主因か。
これは初代編集長の仕掛けであるが、機関紙の発行に「遊び」を取り入れた。異議有馬記念という競馬模様のファクトを、原稿執筆本数、ガリ切り担当頁数などに絞って統計的に取り込み、面々を騎手に見立てて競わせたのであった。実はこれを動機にして原稿執筆数が増えたという事実は、まったく何処にも見られなかったが、原稿本数とガリきりを前面に押し出すことによって、書かれている内容は二の次という身体感を培ったのだと、いまになって私は思っている。何が問題になっているかは、周辺にいれば分かる。「分かる」という次元がいろいろとあるように、言葉が分かるだけでは、躰がついていかない。躰が分かるには、自らの在り様を批判的に見る目が備わらなければならない。それには気風というか作風というか、その場にいることによって身に染み通るように伝わり受け継がれなければならない。その振る舞い方の中ですでに、誰もが同じように振る舞うべきだという平等主義的なセンスは取り払われていた。啓蒙的なセンスも誰が誰に向き合っているかによって千差万別であると、微細な関係の作法を通じて、否定的に広まっていった。それともに、しかし、啓蒙的な要素を欠くことは出来ず、そうするときの(人それぞれの互いの)立ち位置の違いを見極める必要があると、周辺の人たちの立ち居振る舞いが伝わっていった。これは、他人を鏡とするとともに、それを反照して自らを対象化してみることを必然化していった。
誰かが意識してそうするというものではなかった。印刷したものを折り畳む、帳合いする、封筒に入れる、のり付けする。その間にお茶を出す、夕餉の支度をする、片付けをするなどなどを、誰かが指示して分担を決めてするというよりは、気づいてものが手近なものに取り付いて手早く済ませるという身のこなしが、伝染していったと私は思っている。それを初代編集長は「作業変格活用」と名付けて意識の目に止まるように図った。むろん作業ばかりではなかった。歌を歌い、ゲームをし、野球をやり、麻雀をやるなどの「遊び」を通じて、いわば全人格的な関わりの場面が展開したことによって、頭出考えるよりもまず躰に聞けという気風が生まれていた。これがあったから、月2回の集まり、日帰りから泊まり、年2回から3回の合宿というハードな関わりが頭でっかちにならず、身のこなしを通じて全人格的な相互浸透が常態化していたのであった。
この「遊び」の仕掛け人・初代編集長が講師を務めた「ささらほうさら」の集まりが昨日あった。その講師の話を聞きながら私の身の裡に湧いてきた思いが、この「ささらほうさら」の源へと導かれていったのであった(つづく)
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