2023年4月28日金曜日

「ささらほうさら」の源流(5)ワタシの「自然(じねん)」

 こうして半世紀以上に亘るささらほうさらの源流を総覧していると、ワタシの学生の頃からの関心の傾け方が「浮世離れ」していたことに気づきました。目前に生じているコトゴトから一歩外して、そこに振る舞う人々を眺めているような面持ちです。どうしてそうなったか。上京してきて受けたカルチャーショックで、この人たちと競り合うよりも見てみようという心持ちになったことが大きく作用しているかな。そこへ60年安保の勢いに乗って政治的に活動する人たちの、言葉はむつかしく知的だが理屈に走って宙に浮いた姿が、なんか違うなあと感じられたこと。加えてステップアウトした立ち位置が事態がよく見えると宇野経済学を入口に学んだ方法論的哲学が影響していたかなあ。人の動きを鏡にしてワタシをみる視線は、そのようにしてゆっくりわが身の習いになって行ったように思います。

 二重焦点の空間の中で私は、ささらほうさらの源流グルーピングに於ける自分の立ち位置をマッピングして自ら振る舞うようになっていました。何もかも目の前で起きていることがすべてわが身の反照に思われて、退屈はしませんでした。後に、「突出した癖の強い思想家」の強烈な攻撃を受けたとき何故、このグループを辞めなかったのかと問われたこともありました。そうかそんなふうに彼を(そして私を)みているんだと、その人の受け止め方を鏡にしてワタシを感じている私の次元を意識したことを思い出します。他人事のように眺めていたのかもしれません。岡目八目というか、門前の小僧というか。

 先にも述べましたが、「突出した癖の強い思想家」は本当に率直に自分の印象や感想をすぐに言葉にして発してしまうワルイ癖がありました。自分に正直だったのは確かです。それがしばしば言葉を掛けられた人やその関係の人たちを痛く傷つけるのも目にしました。それで顔を出さなくなった人もいました。この思想家自身が自らの言葉で傷つけたことを何年も悔やんでいたこともありました。十数年以上経って、傷つけた人が重い病で入院したと聞いたとき見舞いに行くという「謝罪」の仕方をしたこともありました。彼は日頃からあれこれと細かく日誌をつけていたようで、それを読み返しては反省することを繰り返していたようです(それと同時に、相変わらず反省もしない自分の心底に似たような振る舞いをするヒトには強烈なパンチを繰り出していましたから、大変だったろうと思います)。つねに世界から押し寄せてくる鏡を前に、そこに映るわが身の無意識と向き合って呻吟していた彼の姿。それにワタシの知らない世界を感じて、私はワタシの卑小さを思っていたのでした。

 また彼に似て癖の強い文芸評論で後に大学教授になった私の親しくしていた人が、この「突出した癖の強い思想家」のことを、「あの人には用心した方がいいよ。底のところで信頼できない人だよ」と私に忠告してくれたこともありました。ああ、どこかで同じ匂いを嗅ぎつけているんだと、私はむしろ、ともどもに私の畏敬する人であったが故に、自分が対極ののほほんとした世界の匂いを持っているんだなあと気づかされたものでした。

 不惑、知命と十年単位でワタシの自己意識を先に記しましたが、仕事現場での関わり方について私が知命の頃に身につけようとしていたのは、本を読んでも映画やドラマを観ても、先ずできるだけそのまんまを受けとることでした。作家や制作者はソレを面白い、意味あることと思ってつくっているでしょうから、その面白い(と思っている)次元が何であるかを探り当て、ソレがワタシの考える次元とどう違うか、その違いは何に由来し、その違いは世の中にどういう効果の違いをもたらすかと思案するように努めました。作家や制作者ばかりでなく、ヒトのさまざまなる舞いをそのようにみていると、わが身の中にソレに似た衝動やその萌芽があることに気づきます。それを梃子にして共感し、何故そうするのだろうと考えていくと、アメリカのトランプにしても、それに強烈に反発する左翼インテリゲンチャにしても、ワタシのセカイに位置づけることができます。もちろんワタシのセカイに組み込めない要素が多々あることはワカリますから、いつもワタシの思案は「とりあえず、こうだ」という限定つきです。ワタシの(生きている)現場ではそうだと次元を限定しておけば、いつでも知らなかったコトを組み込んで再評価し再構成することができます。生きるというのは変わることですから。

 つまり、唯一絶対神的視線からすると、いつまでも揺れ動く、不確定の思案です。でもそれが生きていることだから、致し方がないとジブンをみています。これがワタシの「自然(じねん)」であり、空っぽの本体なんですね。この「自然(じねん)」がもっぱら気に入っています。神と仏の違いをいつか書いたことがありますが、この「自然(じねん)」がワタシの自然(しぜん)、つまり神です。小僧の神様ってことですね。ははは。と笑っているのは私がだんだん仏になっていっているのだと、ちょっと思っています。なんだただの好々爺じゃないかと、大黒さんのふくれたお腹を思い浮かべながら苦笑いしている毎日です。

0 件のコメント:

コメントを投稿