2023年4月23日日曜日

「ささらほうさら」の源流(3)個々が起ち上がる

 源流に集った人たちは、教育関係者ばかりではなかった。小中高の教師をはじめ、実習助手、事務職もいた。さらには、建築現場の監督、後には不動産屋も塾の教師も建設作業員や中学校の用務員も加わることになった。そんな多種多様な人たちが、思想的な結集軸も持たず、どうして「機関紙発行」という作業で、半世紀以上に及ぶ長い年月グルーピングをつづけることができたのか。グルーピングを「遊び」とする作法が貫徹したからであったと私は考えている。

 突出した癖の強い思想家が一人いた。彼を思想家と私が呼ぶのは、彼の人に対する方法的な問いかけにあった。なぜそうするのか、なぜそう言うのかと、次元を変えて問い詰めていく。何かの党派的な荒波にもまれて鍛えられたかのように感じさせる喧嘩殺法。もしそれがドグマを提示して問うのであったら、たぶん鋭さが半減したであろう。だが、何が正解であるかを彼自身も知らない。問い詰められた人自身が自ら応えを引き出すしかない場の設定。1968年の世界的な思想軸の混沌時代を経て、私たちの存在理由を改めて問い直す時機でもあった。問うこと自体がつねに根源へ向かう刃を持っていた。もちろん回答もまた、次元を一つひとつ明らかにして誰が誰にどんな状況の中で、その言葉を発しているかを自問自答するように要求する厳しさを含んだ。もちろんそういう鋭い問いと受けとった者もいるし、何処か次元の違う言説としてするりと身を躱してきた者もいたと私はみている。半世紀の間にグルーピングを離れていったものも何人もいる。

 この思想家の癖の強さというのは、レトリックを駆使し、向き合う相手の言説の弱さを察知してキリキリと切り込む。考える隙を与えない深さを湛えていた。外面的には負けず嫌いで面目に拘る。喧嘩に強い。もし彼の言説が前面に押し出されていたら、このグルーピングは空中分解したであろう。救いであったのは、彼自身が問うている正解を知らない(と感じている)という問い方の感触にあった。

 その感触は、問いかけの裏側に彼自身の生育歴中に突き当たったさまざまなデキゴトと人に対する不信と、意に反して(相手をぶちのめすように)振る舞ってしまうこだわりにあると私は思っていた。彼固有の身に備えてきた執心が彼をそのように人に対して向かわせている。それは私にはワカラナイこだわりであり、私の田舎と異なる都会地に育ったが故に、身の裡に胚胎した(世間に対する)反逆心のように思えたのであった。

 前回も述べたように門前の小僧・近代人の私にとっては、プチブル・インテリゲンチャという「身につけてきた殻を脱がねばならな」かった。それが奇しくも集まった人たちの、社会的職業階層や職能、学歴、地方と東京という、経てきた経験や文化状況の違いと、それらが背負っている身体感覚の差異に現れ、その確執がワタシの内面に引き起こした心底に届くような壮大な渦巻であった。

 じつはそこに、「遊び」が作用した。「遊び」はかかわる人の職能や学歴、来歴を無化する。癖の強い思想家は相応の権威的ヒエラルヒーを身の習いとしても智慧としても身に備えていたから、誰が何処から何を発言するかにとても敏感であった。やはりセンスの良い実習助手が文化状況について述べたことを私は面白いと思い、その思想家も良く読みとっていると評価はしていたが、その実習助手という立ち位置をして、岡目八目というあしらいを崩さなかった。私にとっては意外であった。ああ、この人の権威はこういうことにも作用しているのだと、私はワタシとの違いに感嘆したのであった。

 初代編集長が原稿本数とガリ切り枚数をゲーム化したことは、そうした思想的な評価をも無化する目を育んだ。そしてこれは、身に刻まれた習いこそがヒトの核心であり、そこに足場をつけてはじめて言葉が通い始めると感じさせる、別件逮捕のような作用力を持っていた。

 同時に、身を以て言葉にかかわるという厳しさを目の当たりにして、面々はそれぞれに自分の内心との自問自答を続けた。と同時に、作業変格活用に於いては、自分の立ち位置を身計らって振る舞うことをもっぱらにした。1980年頃だったか、埼玉教育塾を起ち上げたとき、その公開講座に参加した人の中には、もっぱら裏方として働くメンバーを気遣って、何かとんでもない(時代錯誤的な)ヒエラルヒーがこのグルーピングにあるんじゃないかと問うた大学教師もいたくらいだ。

 こうも言えようか。人はさまざまであり多様ですと言っていたら、たぶん自身を位置づけることはできなかったであろう。ささらほうさらの源流という限定されたグルーピングの中で自らの立ち位置を自らマッピングする。それができたのは、「遊び」という仕掛けによって、全人格的な感触がそのままさらけ出されて表出し、受け容れられたからではなかったか。それによって、却って、職能や学歴や経てきた文化的径庭の違いを違いとして承知して、まさしく「遊び」の領域に於いて同等に位置するという立場を得た、と。個々が起ち上がったのである。

 私は初代編集長のことを「遊びをせんとや生まれけむ」人と評したことがある。まさにその存在自体が「無近代」を自称する如く、近代的生活にどっぷりと浸っている小市民(プチ・ブル)であるワタシに批評的であり、私の日常に突き刺さる振る舞いに満ちている。いま少し、その刺激的な部分に分け入ってみよう。(つづく)

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