ワタシを通じてセカイが現れていると感じるのが「ブンガク」だと私は思っている。いうまでもなく読む側のブンガクであって、世上一般に謂われる文学とは違うかどうかはワカラナイ。4月のささらほうさらの会で講師を務めた作家・鈴木正興が、その作品『〈戯作〉郁之亮江戸遊学始末録』に添付した《自称「小説」謹呈の御挨拶》で本作品以上に興味深い台詞を吐き記している。
《……さて、その後期高齢者界に入域したての頃、小生、これは何をどう血迷ったのか、己が卑小な分際や能力も弁えず、生涯にたった一度でもいい「小説」というものを書いてみたいと、まあいずれとんでもないことを思い立ったのであります。若い頃からごくごく狭い交流範囲内でいづれ拙い雑文、駄文の類いを結構書いてきた経験はあるのですが、何を今更耄碌し掛かっているこの期に及んで「小説」だなんて一体どういう風の吹き回しなのでせう。「おい、オメエ、小説ってのはなあ、今までのどうでもいいような雑文と違って創作の分野に入る歴としたゲージュツなんだぞ」と自分で自分の血迷いを思いとどまらせようとしたのですが、「なにおー、ゲージュツでねえ小説があったっていいじゃねえか。なあに、年寄りの冷や水と揶揄されようが構やあしねえさ」といっかな忠告を聞き入れてくれず、結局その抗弁の勢いに気圧された常識派の方の自分が寄り切られ、「勝手にさらせ」と匙を投げてくれた御蔭で内訌は収まり、斯くして自称「小説」の筆を執り始めた次第です。……》
本作品以上に興味深いポイントを拾うと、こんなところが浮かび上がる。
(1)上記引用には(この作品に籠められた)この作家の全生涯が現れている。
(2)この後段の自問自答は、人がどのように物事の顚末をワタシの「自然(じねん)」にしようとしているか、その端緒が表現されている。
(3)このような径庭を経て読者の前に現れた「小説」は、すでに作家の生涯とは別物となり、それ自体として読者にも作者にも向き合っている。
この(3)を「後始末記」として話したのが、今回のささらほうさらの会であった。
まず(2)から解説する。
私たちヒトがどういう風に物事を腑に落として納得しているか。実は作家自身は「なぜ小説を書くのか」を腑に落とす必要はない。(1)のような内発性が腑の裡から湧き出てくるのだから、(2)はまったく読者へのサービスである。読者は小説をどう読むか。これは作家が口を出す領域ではない。どう読まれようが、作品はそれ自体が社会的な他者であり、読まれずに神棚に飾ってあったって枕代わりの積ん読になっていても作品は作品である。だからその作品の出来に驚いて、
《さて質より量のこの大冊は……態々計測してくれた所によると厚さ、1.1×10ミリメートル、重さは6.5×10²グラムもあり、中味は寝っ転がって読むに相応しいお気軽なものなのに余りに厚いは重すぎるはでとてもじゃない寝っ転がっては腕が三分と持たないとの由》(「始末録」p1)
と厚さ重さを量って驚きと歓びを表す人も現れる。この作家は、さらにそれを上回り、
《因みに偏執的なまでの統計数字の好きな私ゆえこの冊子に収容された蟻の如き文字の全長を計算したところ約2200メートルと出た。JR川口駅から南行車両に乗ると荒川、新河岸川両鉄橋を渡って東京都北区域に至る距離だ。またこれを水平方向でなく垂直方向で高さとして考えると雲取山の頂を下に見ることになる》
と「小説」にびっしりと埋め込まれた文字列の距離の壮大さを計って戯(おど)けてみせる。このジョークもまた、この作家の身を挺した一面を反映しているのだが、それはまた後に記すことにする。
ではなぜ読者は「どのように物事の顚末をワタシの「自然(じねん)」にしようと」するのだろうか。抑も「ワタシの自然(じねん)」というのは、何か?
人が何かを納得する内的な経路には、そりゃあそうだよなあという共感というか心に響くものがなくてはならない。必ずしも同感というのではない。そうだよ人ってそういう異質なものへの関心がどこかに潜在しているんだよねと響くものがないと、まるで他人事になってしまう。人の納得の経路は単線ではない。複数の、相反する動きも人の胸中には組み込まれている。それは経験であったり、どこかで触れた知識であったり、何時知らず身に備わって身の裡に潜在しているコトゴトであったりする。小説を読むとその一つひとつが表現を通じて取り出されてくる。その感触が、自分の発見であったりするのが、面白い。むろん「発見」というのは言葉で意識することとは限らない。ワクワクするのも、ハハハと笑うのも、ヘエと感じるのも自分の発見である。こういうことがなくては、読む甲斐がない。
いやこのワタシの「自然(じねん)」は、小説を読むことに限定した話ではない。人が世の中と接してそこに生起するモノゴトに関心を傾けるのは、ことごとくそのデキゴトにジブンが映し出されるといっても良いほど、ワタシと世界は深く関わり、緊密に相互の関係を紡いでいる。ワタシはセカイの現れなのだ。それが人の心裡と環境や情報との結びつきである。もしこれがなければ、その世界は単なる素知らぬ外部となりワタシにその存在すら感知されない。感知されると、見知らぬ世界となったりジブンにはワカラナイ世界となり、そのようなこととして身の裡に潜在するようになる。世にあふれる情報や専門知は、それを伝える「権威」に介在されて人の裡側に入り込み、さまざまなことが相乗していつしか人の無意識に定着する。それが「自然(しぜん)」である。それは、したがって、人の数だけ「しぜん」があることを意味する。私からすると、私のワタシ以外の他者のワタシが無数に(というか世界には80億人の数だけ)存在するわけだ。
ところが読書というのは、意識的に私が触れる他者のワタシである。本を読むとき、最初の50ページくらいが一番力が要る。この本が何をなぜどう扱っているのか、まるで見知らぬ人とであって、その人とワタシとの接点を探るのに、思いが総動員されるからだ。ようやくその接点が感じられる頃、読者はその作品の世界にすっかり惹き込まれ夢中になっているか、イヤこれは読んでもしょうがないと見切りをつけるかしているというわけだ。もちろん小説に限らない。映画でもドラマでも、最初の部分で(制作者側から謂うが)接点をつくらなければ視聴者に見放されてしまうから、関心を惹き寄せるためのいろいろな仕掛けを講じる。それと同じだ。ここにワタシの「自然(じねん)」が介在している。
作家・鈴木正興は「ごくごく狭い交流範囲内」の読者に向けて、手書きの《自称「小説」謹呈の御挨拶》を「まえがき」か「あとがき」かの代わりに添えたのは、作家としてのデビューを、ワタシの「自然(じねん)」と受けとってよという「近況報告」でもありました。そう受けとらないと、なんだよ「あとがき」を書くなんて、村上春樹と同じじゃんと(2年も村上に先んじているのに)思われてしまうことへの恥ずかしさ出合ったかと思うほどだ。作品は出来上がって読者の手に渡ったときには、作家とは別の人格を持つものだからですね。
それを知っているから、作家・鈴木正興は「後始末記」で、読者から寄せられた「感想」などを記したを紹介しながら、その最末尾に《感想文の番外篇としてもしこの作品が誰か別の人が書いたものだとして私がその読者だとしたらどんな感想を持っただろうと考えるのも悪くはないのでそうしてみる》と前置きして、こう記す。
《私の場合はこいつはいけてるとばかりその日から数日間読み耽って早々に完読しちゃってると思う。なぜならこの小説、自分の書き方の流儀にぴったりだし、殊にはドレミファソラゴトの音感が私の身体的波長に符合しているからだ。早々の完読後こんなふううなものだったら儂にも書けるかもしんねえ、死ぬまでの執行猶予期間中に何とか書いてみてえもんだと寝不足気味の目をしょぼつかせながら独言(ひとりごつ)したものである》
まだ子離れできない親のような風情が漂う。ひょっとするとこれは、わが子はわが人生畢生の作品と言いたい、この作家の無意識の心持ちが籠もっているのかもしれない。「生涯に一篇の小説を書いてみたい」という思いを成し遂げた全力投入の精華というに相応しい、慈しみ方である。いいなあこういう親父、と私は羨ましくも思う。いま私はこうして文章を書いているが、産みの苦しみを感じつつ絞り出すように作品を創り出したことがないからだ。しかもこの作家・鈴木正興は、この作品を「近代小説」のように読み取ろうとする私のワタシのクセを拒絶して《自称「小説」謹呈の御挨拶》で次のように謂う。
《「小説」と言うと、例えばこの世の不条理、社会の裏面、人間固有の宿痾、生と死の相剋、愛憎の悲喜劇、人生とは世界とは翻って己自身とは等々の抜き差しならぬ問題意識を内在させた仮構空間に違いなく、今そこにある現実の事象と人間の在り様を交叉させながら「ストーリー」として紡ぎ上げるものなのでせうけど、それはあくまで「近代小説」です。ゲージュツとしての「小説」です。考えてもみて下さい。そんな畏れ多いもの小生に書けるはずありません。能力的にも、また嗜好の面から。小生謂う所の「小説」はそうした近代的なものとは無縁の、まあいづれ自分の思い付きに任せて気儘に書き綴った単純読物と称すべく、世に問うもの、人に訴えるものはこれっぽっちもありません。自分は却ってその無近代的な所が取り柄とさえ思っています。》
そうなのです。この作家は、作品の実在そのものが総体として「近代批判」だと位置づけています。イヤそう言うと、批判対象が狭くなる。「近代」とか「前近代」という「近代」を前提にした遣り取りではなく、それを超越した(その論議枠を取っ払った)「無近代」に位置づけて、「生涯畢生」の、つまり彼の全生涯を掛けたアクションとして突き出している。それを「近代批判」と読み取るのは、「近代」にどっぷり浸かっている自己意識の読者・ワタシの所業なのですね。
そう考えてみると、作家・鈴木正興はその存在そのものが私にとっては、全身ワタシ批判と読み取れる。付き合い始めてもう16年になる。若い頃の、何処へ向かうかワカラナイ時期のことを思い起こしながら、長くも面白くも刺激的であったなあと振り返る。それが『〈戯作〉郁之亮江戸遊学始末録』を読んでいると、ふつふつと湧き起こってくる。江戸と場を映しているが、まさしくこれは「正興生涯遊學実録」というに相応しい場面に満ち満ちている。人は生涯に一冊は小説が書けると、どなたであったか言っていたが、なることならワタシも書いてみたいと、思ったりするのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿