2023年4月6日木曜日

資本主義市場経済の限界

 seminarのときにkeiさんが「GDPが増えたら私たちの暮らしにどういう影響が出るの?」という質問に、「分からない」と応えたワケを説明しておかねばならない。

 お遍路中の感懐の中でも記したが、資本家社会的市場経済の枠組みに含まれない経済活動を目にすることが多くあった。お遍路への「お接待」もそうだ。むしろお遍路が自ら購入しなければならないものを無償で提供するわけだから、商品市場経済の阻害行為ですらある。あるいは柑橘類の市場に送る箱に収まらない規格外のものは商品にならないと生産者はいう。自家消費や路端での勝手売買はまだしも、大量に廃棄されている。この生産活動も、市場経済と消費とのミスマッチと言って良い。

 細かく言うとこの、箱に収まるかどうかという規格は市場が大きくなるにつれて広まった。地産地消は当然という「生もの」扱いをしていたときは、当然のように果実の大小はさほど問題ではなかった。ところが全国に、あるいは海外に輸送される商品となり、それに応じた大量輸送もともなって、規格ができあがった。

 さらに、そうなったのには消費環境の変化があった。まだ食糧生産が追いつかないといわれるほどの産業段階の成長初期(1960年代頃まで)には、捨てるなんてもったいないというセンスが、消費者にも生産者にも共有されていた。ところが、高度消費社会になって、見てくれの悪いものは市場では売れなくなった。むろん味を良くするために柑橘類の生産農家は、受粉を人の手仕事でやる。それが実を作ると、摘果して数を調整する。ひとつひとつの実に袋かけをして丁寧に熟すのを助ける。掛ける手間暇も多くなる。

 暖冷房・冷凍技術の変化に伴って、商品市場も大きく変化が起こる。季節外れの生鮮産品が出回るのは周知のことだ。果物も嗜好品というよりは高級贅沢品というほどになっているものもある。多品種少量生産になった。それに伴って消費行動も変わる。社会的には、ますます贅沢な消費になり、店頭に陳列されるものも多くなり、廃棄されるものも多くなった。これらの時代的な変化は「豊かな暮らし」に直結しているだろうか。

 むろんそういった社会の変容をくぐり抜ける生産者や流通関係者の工夫も行われている。情報社会化に伴って、マスメディアだけでなく情報ネットが広まるにつれて、生産と消費とそれを仲介するサービス業の連携がみられるようになった。漁港で水揚げされたものの廃棄されていた珍奇な種類の魚があることが知られ、その調理法が紹介され、ならばすべて買い取って顧客に提供しようという流通ネットがつくられていく。食品ロスも取り上げられ、「ワケあり」と明記された商品も出回るようになった。

 だがそれらの工夫は「ニッチ」と言われる。簡略に言うなら、大企業中心の市場経済の動向の隙間を縫って小規模零細企業や生産者、小売企業が工夫を凝らしている姿である。なぜか。GDPの成長もそうだが、国の経済政策は国単位の大きな視野で展開されている。経済が「経世済民」と言われていたのは、それ故であった。中央集権国家では、いっそうその政策を考える単位が大きくなる。地方単位は、立場が薄くなる。それが明治維新後の日本社会では、さらに加速された。地産地消は影が薄い。

 そこへグローバル化の時代だ。当然のように彼ら為政者やそれに関わる専門家たちの目に入るのは、日本の国際的な位置であり、それと競争関係に入っている大企業の業態であり、有力者の言動である。中小零細企業はその大企業の振る舞いの仕方を受けて様子を変えるとみなされている。大規模企業は、したがって、政治家とも緊密に連携を凝らし、利害関係のスクラムをがっちりと組む。GDPと株価の動向に目が凝らされる。為政者の目も、そうした中央集権的な統治的視線に絞られてくる。憲法もそうだが、統治的視線で国民を一つにしようというメンタルな作用をしてきた。それを学校教育は「国民化」と呼んだ。それも時代的な変化によって、多様化の時代へと移り変わる。しかし、資本家社会的な市場経済のシステムはグローバル化に伴ってますます、高度消費社会の上澄みである贅沢品へと向かう。情報ネットもまた、高度成長期以来のスタンスで人々の嗜好を操り、高度消費社会の上澄みである贅沢品へと向かう刺激を日々散布する。こうして経済政策は、人々の暮らしから離陸してきた。

 それに一撃を加えたのが、コロナ禍であったと私は、2020年5月に刊行した『うちらぁの人生 わいらぁの時代』で記した。「天啓」である、と。今回の「ふらっと遍路の旅」は、それをわが目で見て取るような旅でもあった。

 keiさんに「GDPの成長は私たちの暮らしにどんな影響があるの?」と問われたとき、「わからない」と私が応じたのは、「経済」と「暮らし」が断裂しているからだ。いや、「経済」と「政治」も、またそれらと「文化」も、「科学技術」も、人々の好みも、善悪の価値判断も、誰がどこに立ってどのような状況に於いて言葉を発しているかで、意味するところが異なってきてしまっている。

 経済に絞っていえば、こう言えようか。資本家社会的市場経済は、敗戦後の1960年代にはまだ、暮らしと一体になった(国民が共有する)イメージをもっていた。池田勇人が「所得倍増」と掛け声を掛け、当時の歳代野党・社会党が「毎日牛乳1合を飲める社会」と看板を掲げたのは、その程度の貧しさが「共有」されていたからだ。それが(たまたま現憲法の戦争放棄条項によって)経済に先進するしか方途がなかったことが幸いして、高度経済成長へと歩を進め、環境汚染や諸種の労働問題を生み出しながらも、欧米に追いつき追い越せと邁進することができた。つまり、資本家社会の市場経済一本槍で突き進むことがナショナル・インタレストであると言える程度に、国民的共感を得ていたのであった。

 だがそれは、バブルまでであったと言えようか。

 1990年代に入って後、経済成長が成し遂げた社会の変化がもたらした人々の欲求・欲望の変化、国際関係の変貌、それに伴う一強大国からの強いグローバル化の要請、それがもたらす国内社会関係の変化などに、為政者も産業界も適応することができないまま、バブルの夢よ再びと旧来の成長路線を継続することに躍起となった。

 もうその時すでに、国際関係は東西冷戦の片方の正義は崩壊し、ということは、残るもう片方の正義も理念的な基盤を見失っていた。つまり、WWⅡの人類史的反省の結晶としての「日本国憲法」が書き記している「国民国家」の理念的方針は、戦争を放棄し、暮らしを前面に押し出して人権を保障し、文化的生活をすべての国民に保障する男女平等の社会をつくるという、謂わば人類史的夢に突入する時代を迎えたという理想型であった。

 それを、共産主義という強権主義ではなく、資本家社会的市場経済でもって実現しようという道を日本は歩んでいたのであった。政策的にいえば、東側・社会主義国が存在することによって西側・資本家社会的市場経済もまた、労働者という人々の暮らしを常に視野に入れ、それへの暮らしの保障を策定せざるを得なかった。それが1989年の冷戦の終結で、すっかり崩れ、戦後的理念はどんどん空洞化していった。いうまでもなく、労働側も、もはや社会主義的政策を良しとする理念の共有点を見失い、大規模企業の労働者の専有物として「権力」を持ちはしたが、庶民大衆の大勢を占める人々の暮らしは、どこも代表することはなくなった。かろうじて、政党の一部が選挙のときの支持を得、代理して声を上げる程度であった。それでも庶民は、一億総中流というバブルで潤った資産を食いつないで(それなりに)豊かになっていたから、その後の30年間を凌いできたと言えようか。

 つまりすでにして、三十数年前に「経済」「政治」「文化」「科学技術」と私たちの生活は分裂してしまっていた。それを総合的に観る視点は、気象変動や温暖化という「環境破壊」の負の形で示されているものだけになっている。資本家社会的市場経済システムがそれと対立する地点を通過しつつある。人々の暮らしをどこでどう紡げばいいのか、トータルにはわからない。断片に於いて懸命に紡いでいる姿があちらこちらに見える。

 その資本家社会的市場経済の驀進がようやくにして、終わろうとしている。それを知らしめたのが、コロナ禍であり、ロシアによるウクライナ侵攻とそれに対する経済制裁とエネルギーの不足であった。これを天啓として受け止めないで、どうこれからの世の中を見ていったらいいのか、私にはわからない。

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