2019年11月29日金曜日
晴れたので、ワアーっと人出の山
このところ天気が思わしくなかったが、今日は久々の晴。じつは水曜日の山行を金曜日に変更しておいた。ところが参加者の一人が今日、入院手術ということになった。
「私は大丈夫ですから、行けます」
と奥方からは返事が来たが、でもそうはいくまい。
「延期します。期日は後日に」
と送信すると、
「やはり、そうですね」
と重ねて返信。一緒に行くことにしていた方に知らせると、即座に同意の返事。
2019年11月28日木曜日
茫茫たる藝藝(4)あそびをせんとやうまれけむ
荻原浩の短編「リリーベル殺人事件」のなかに、夫を殺害する方法を思案する主婦が描かれています。それを夫が察知して「スズランによる毒殺ですね、今度は」と妻に告げる場面。妻の創作、夫は編集を志して入社した出版社の営業部員18年目という設定。因みに、荻原浩という作家は、世の中の埒もないことを面白可笑しく綴って、ときに『明日の記憶』のような哀切な作品をものしている「風のような」語り部。
2019年11月27日水曜日
茫茫の藝藝(3)経験と見聞の埒外に出られるか
「ささらほうさら」のmsokさんの「‘小説.’中間報告」に触発された話をつづけます。msokさんが「一生に一度書きたい」という時代小説が自叙伝であるというのには、ワケがあります。msokさん自身が、その創作について、次のように述べています。
《…今さっき小説は虚構の世界と言いましたが、私の場合、じっさいに書いてみてどうしても自分の経験したり見聞したりしたことを越えての仮構世界を構築し得ないことをつくづく思い知らされています。経験と見聞の埒外に出ることができないのです。どうしても自分がこれまで履んできた人生軌跡にいかさま囚われている己の筆致を見て思わず苦笑し、やがては憫笑するほどにそうなのです。創作能力が殆どないのではないかとさえ思います》
2019年11月26日火曜日
これはほんのはじまり
香港の区議会選挙の結果が出た。香港の人々は、まだセミの幼虫の心を見失っていなかったと(一昨日のブログ記事を想い起しつつ)外野の私は、ちょっと安堵している。だが専門家たちは、とても慎重だ。
「民主派の圧勝というが、民主派に投票した人たちの多様性を見落としてはならない。街頭デモが勝利したわけではない。気持ちはわかるが、調子づかない方が良い」
2019年11月24日日曜日
岩盤は舗装され尽くすのがいいのか
イラン映画『少女は夜明けに夢を見る』(メヘルダード・オスコウイ監督、2016年)は、哀切であった。ドキュメンタリー映画だ。場面はイランの少女更生施設。放浪、強盗、売春、薬物、殺人といろいろな罪名をもつ少女たちの女子少年院である。
イスラムの戒律厳しいイラン社会で、犯罪に走った彼女たちのバックグラウンドに、撮影者のカメラが迫り、一つ一つ丁寧に解きほぐしていく。義父や叔父にレイプされるが、家族は、イスラムの宗教指導者である叔父がそんなことをするはずがないと考えたり、家の恥をさらすなとして娘の訴えをウソと決めつける。娘は家を出て路上生活に追い込まれ、強盗をする。薬物を買うために娘に売春をさせる父親を殺す。
カメラを冷たく突き放していた彼女たちが、ともに収容されている少女たちのつぶやきに誘われるように罪状をさらけ出し、あっけらかんと家族や世の中への思いを自らの痛みとともに語りだす。更生施設が、彼女たちを拒む世間からの避難所のように描き出される。7年の歳月をかけた取材だという。
更生施設にもイスラムの指導者はやってくる。少女たちは、どうして女は男にしたがい、身をひそめるようにして生きていかなければならないのかと問い質す。イスラムの宗教指導者は絶句し、しばし沈黙し、搾り出すようにしてこう答える。
「でも、世の中が秩序だって静穏であることが大切だと思わないかね。」
そうなんだ。彼女たちは、地中に産み落とされたセミの幼虫だ。漸くにして地表へ這い出してみると、頭上の地面はすでに強固な岩盤に覆われ、それ以上抜け出ることができない。岩盤の上には「秩序だって静穏な」暮らしを営んでいる大勢の人たちがいる。イスラムの教義に覆われた社会においても、世界の人の暮らしの開放的な気配は、広く静かに伝わる。その空気は、幼虫時代を過ごすうちにも彼女たちの胸中に宿り、ヒトとしての叫びとして噴き上がる。
「秩序だって静穏であること」を大切だと思う中に、殻を抜け出したい幼虫の叫びは組み込まれているのか? イスラムの宗教指導者に、その幼虫たちの成長は見えているのか? 中国の一党支配の理念のなかに人間の歩む径庭は推し量られているのか? トランプのエゴセントリックな自己利益優先主義は人類史的な視界に配慮したことはあるのか?
「今日は香港の区議会議員選挙の投票日です」とメディアは伝えている。立てこもる香港の大学生たちもまた、身を覆ってきた殻が単なる保護膜ではなく強い抑圧だと感じて叫び声をあげている。そのやり方が、バリケードを築き、火炎瓶を投げ、石を飛ばして暴力的であっても、それはイランの少女たちの放浪、強盗、売春、薬物、殺人と似たようなことではないのか。強固な岩盤を突き破って世に生まれ出ようとする幼虫の衝動に、岩盤の上にたつ人たちが「秩序だって静穏であることが大切だと思わない?」と応じるってことは、「今の静穏と引き換えに将来の圧政を受け容れろというの?」と問われて、そうだと応えるに等しい。
かつて敗戦直後の日本は、混沌の地面に上に、素足で立っていた。私たち(戦前生まれの後期高齢者)は、その地面の下で命を得て二十年近い幼虫時代を過ごし孵化してきたことを、しみじみと思い出す。それは人類史的な原初の匂い/臭いを強く残していた時代であった。その匂いや手触りの記憶がまだ私たちの身の裡に刻まれている。それを振り返って私は、まことに幸運な時代を過ごしたと感慨無量である。だから香港の大学生たちを謗ることばを知らない。
だが、ふと気が付くと日本の私たちはいま、強固な岩盤の上に暮らしを立てていて、「秩序だって静穏であることを大切だ」と感じている。高度消費社会に生まれ落ちて、すっかり交換経済の掌の上で秩序だって踊り続けることをあたりまえと思うセンスは、その社会システムが独裁的でも専制的でも抑圧的でも構わないという道を選ぶのであろうか。
イランの少女たちの将来、香港の学生たちの明日が、どうなるか。他人事なのに、目が離せない。
2019年11月23日土曜日
茫茫たる藝藝(2)風のような読み物、稗史小説という構え
「一生にたった一本書きたい」小説の構えをmsokさんは「稗史小説」と名づけて、こう記す。
《……ただし小説という条、たとえば生と死の相剋、男女の愛情の縺れ、社会構造深部への切り込み、世界とは神とは人間とはなにか等々を内在させた所謂近代小説なんぞ書ける能力もないし、書こうとの気持ちも抑々からしてなかりせば、いま流行の言葉を使わせて貰えば自分の身の丈に合ったもっと気軽で深刻さとは無縁の所謂稗史小説もしくは歴史講談的なものになること……》
2019年11月22日金曜日
茫茫たる藝藝(1)世のシタッパ
「無暗に芸芸と伸さばっていた枝葉も容姿よく調えられ見違えるような風情と相成る。」と、庭木の手入れを活写するのは、「ささらほうさら」の講師・msokさん。《「小説」執筆中間報告》の、作品中の描写。
「芸芸って何?」
「そうなんだよね、芸ってのはもともと藝って書くんだけど、茫茫と草木が生える様を表している」
「……」
「その藝が、どうして藝術の意に転じたのかは、わかりません」
「藝術って、日常の規範から茫茫と逸脱して、わけがわからないことから生まれてくるってこと?」
「……」
2019年11月21日木曜日
知識社会の終わり? ヒトは野に還れ
橘玲は知的世界のことばを庶民の言葉に翻訳する達人の一人である。この方が凄腕の編集者として鳴らしていた三十数年前に出会い、センスの良さに敬服してきた。その彼が「知識社会の終わり?」について指摘していることが、面白い。『上級国民/下級国民』(小学館新書、2019年)。
2019年11月19日火曜日
ますますボーっと生きる
今日の天気予報が割りとよくなった昨日の夜。水曜日に予定していた山行を火曜日に切り替えようかと、ふと思った。木曜日には「ささらほうさらの」の月例会がある。水曜日よりも火曜日の方が、一日間が空くだけいいかもしれないと考えたからだ。だが寝床に入る前に、考えなおした。木曜日に発行する「ささらほうさら・無冠」が、手を付けたままで仕上がっていなかった。ま、それは水曜日にしても悪くないことであったが、こちらも間を置くと、何を気にしていたか忘れてしまう、と思った。そういうわけで、今日はカミサンが出かけるのを見送って編集仕事に取りかかった。
2019年11月17日日曜日
「わたし」にとって「他者」とは何だろう
書名が目に止まり手に取った。トニ・モリソン『「他者」の起源』(荒このみ訳、集英社、2019年)。「解説・森本あんり」とあったので読む気になった。森本あんりの名を知ったのは2015年、トランプ候補が登場して「反知性主義」がマスメディアで取りざたされていたころ。当時(2015/7/19)、この欄で「梅雨が明けたが、さて」と題して、《アメリカの「反知性主義」は大衆社会時代の「知性の頽落への批判である」と位置づける森本の論展開は、確実に私の心に訴えてくる。》と、好感を懐いていた。
2019年11月16日土曜日
にんげんを組み込む考え方
台風による水害の始末が長引いている。昔1970年の頃、田中正造のことを調べていたとき、かつて渡良瀬流域に位置していた谷中村が「洪水とともに暮らしていた」という記述を読んで、自然観に思いを致したことを、いま思い出す。「洪水とともに」というのは、渡良瀬川のもたらす洪水は厄介な災厄であったから、家を建てるのを高台にし家の壁には舟をつるしおくような暮らしであったこと。反面、洪水は上流から肥沃な土壌を運び、耕作して痩せた大地を潤すことを言祝いでいたということであった。自然とともに、そこに溶け込んで暮らしを立てるというのは、そのようなことだった。それが、足尾の鉱毒によってすっかり暮らしが成り立ちゆかぬようになり、ついに谷中村は廃村になったのであった。今は広大な渡良瀬遊水地になっている。
2019年11月15日金曜日
「2042年問題」は、私たち親世代のモンダイである
この欄で「団地コミュニティの社会学的考察」などと称して、人口減少時代の将来展望に触れてきた。私の知人がこんな本があるよと教えてくれたので目を通した。『人口急減社会で何が起きるのか―メディア報道の在り方を考える』(新聞通信調査会編、2018年)。130ページほどのブックレット。去年半ばのシンポジウムの記録である。
2019年11月14日木曜日
空っ風の源流―赤城山・荒山と鍋割山
「明日は関東地方に木枯らし1号が吹きます」という予報を聞きながら、その源流部の赤城山へ行ってきた。昨日(11/13)のこと。天気予報は晴れであったのに、朝から曇り空。雲は二千メートル上空を覆い、雲と大地のあいだはかなり遠方まで見渡せる。前橋駅で同行者を拾い、もう一台の車と落ち合う「国立赤城青少年交流の家」へ向かう。前橋市内は、ちょうど通勤ラッシュのせいで渋滞。20分ほど早く着いて待ち合わせるつもりが、時間ぴったりに駅で同行者を乗せ、赤城山の中腹にある交流の家へ向かったのだが、目的地のほんの50メートルのところで脇の林道に入ってしまった。そのため、4キロほど上部にまで行き着いて間違えたことに気づき、引き返すというハプニングがあった。
2019年11月13日水曜日
人口減少時代の「消滅可能性都市」の設計
少子化が進み、人口減少の市町村の約半数が消滅する「消滅可能性都市」がモンダイになったのは、2014年であった。以前から私が疑問に思っているのは、明治維新のころ日本列島のの人口は、おおよそ3000万人であったことを考えると、人口減少でなんでうろたえているのか、わからない。経済が停滞するというが、人口が減れば、当然需要も減少し、経済活動の規模も小さくなる。だから規模が小さくなることがモンダイなのではないはずだ。人口減少に比例して規模が小さくなるのなら、現在の暮らしの水準は変わらないことになる。それで何か不都合はあるか。
2019年11月12日火曜日
「公正さ」とは何か(2)「不公正」にどこまで「痛み」を感じているか
メディアに要請される「公正さ」って何だろう。アメリカのマス・メディアは、どの新聞はどの候補を支持しているとか、共和党支持だがトランプには反対だとか、わりと党派色が旗幟鮮明だと聞く。日本のメディアの場合、最近はだいぶ違ってきたが、それでも党派色を出すことは嫌われる。産経新聞も、朝日新聞も、読売新聞も、自分たちの報道が「公正」あるいは「正義」だと考えている(ようにみえる)。つまり「公正」とか「正義」というのは党派性(立場の違い)を超えて(皆さんに)受け容れられるコトと考えている。だから旗幟鮮明にするのはご法度なのだ。だから同時に、「党派」というのが「party(一部を代表している)部分」という考え方も、ない。自民党のように、あるいは政権時代の民主党のように、ひとつの党派の中に、派閥をなして争うことはあっても、党全体としては「みんな」を代表しているというセンスが共通しているといえようか。
2019年11月10日日曜日
「公正さ」とは何か
先日(11/8)のこの欄《「すべて政治に属する」か》でモンダイにしたことが、昨日(11/9)ジャーナリズムの「報道」を論題にして、真山仁によって論じられている(「真山仁のPerspective:視線」朝日新聞2019/11/8)。端的にいうと隔靴掻痒。モンダイの周縁に触っているだけで、踏みこめていない。《「人が伝える=偏向」メディアへの不信》《事実を見抜く視点 人にこそ》と見出しを振る。ジャーナリズムに興味を持つ高校生が「親はメディアはウソばかり伝えていると軽視している。本当でしょうか」という問いかけにはじまり、真山仁が9カ月ぶりに応じているエッセイ。
2019年11月8日金曜日
「すべて政治に属する」か
池澤夏樹が今年のノーベル文学賞の受賞者ペーター・ハントケのことを書いている(朝日新聞11/6、「終わりと始まり」)。いくつもの刺激的な事実があり、思い出されることがあって面白かった。
2019年11月7日木曜日
不思議な里山
かつての大滝村の、和名倉山や甲武信岳などの奥秩父連峰に源を発する荒川の流れが秩父市の中心部貫いて流れ、南北から東西に大きく屈曲する地点に皆野の町がある。東の小鹿野町に源流をもつ赤平川が荒川に合流するのもこの地点。二つの下線を抱える秩父盆地と呼ばれる山間の広い平地を縁取るように佇んでいる山並みに「皆野アルプス」という名が冠せられている。破風山627m。「はっぷさん」と呼ぶと、皆野町役場観光課発行のマップにある。その山に昨日(11/6)、山の会のmrさんをチーフ・リーダーにして歩いてきた。天気は晴朗。雲ひとつない。
2019年11月5日火曜日
よみ人知らず
今日(11/5)の朝日新聞「折々のことば」で《よみ人知らず》が紹介されている。紹介者の鷲田清一は、こう続ける。
《誰が作者かわからないというより、人から人へ伝わるうちに少しずつ変化し、誰が作者か特定できなったということだと、ブルガリア出身の日本文学者、ツベタナ》
なるほど、そういわれてみると、その通りだ。
2019年11月4日月曜日
わが十年の心の機縁
思いついて、昔のブログ記事を読みなおしていました。このブログも、はじめてから12年。途中、プロバイダの都合でブログ提供が中止され断絶したので、再構築したブログは、2014年の5月までしか遡れません。
目を通していて、《この「真理が人間をつかまえる」という「他力」こそ、私の「機縁」の中であるときパッとひらめいて腑に落ちる思いを、的確に言い表しています》と記していることに気づきました。ああ、これが、私が繰り返して想っていた「自然(じねん)」だと思ったのです。
書き落としていたからこそ、出会う表現に、わが十年の径庭と「心の機縁」を感じました。長いのですが、再掲します。
2019年11月3日日曜日
明るい陽ざしの文化の日
天気が崩れると言われていたのに陽ざしも入って明るい。夕方以降に崩れるのかもしれない。昨日、図書館への往復を歩いていたとき、ふと、先日観たアニメ映画「エセルとアーネスト」のプロットのことを思い出した。わずか1時間40分ほどの長さに、両親のたどった足跡を上手に表現している。それは、プロットを巧みに掬い上げて、両親の関係が育んでいた情景を描き出したからではないか。つまり、他人に何かを伝えるためには、あれもこれもととりあげる必要はないのだ。象徴的な出来事を、うまく一つのプロットに掬い取ってまとめれば、要のことはきちんと伝わる、と。そう考えると、いつも、このブログのようにだらだらと、あれもこれも拾い上げて記述する必要はなくなる。私に欠けているのは、削り取る才能なのではないか。
2019年11月2日土曜日
気になる細かいこと2点
去年の昨日(11/1)のブログ記事をみると、海外に住む私の友人へのメールが「不正アドレス」と表示が出て使えないとぼやいている。こちらからのメール送信が届かなかったのだ。ディスコミュニケーション状態にあったのが、このブログを目にしたことで、友人のPCが問題と分かって、そちらの方が対応してくれた。そうか、あれからもう一年になるか。とすると、かれはまたそろそろ日本に帰ってくることになる。速いなあ、ときの経つのは。
2019年11月1日金曜日
社会の土台が分断疎外されつつある
先日(10/29)に「際だったデータ分析の手法」と題して、吉川徹『日本の分断――切り離される非大卒若者たち』(光文社、2018年)の分析手法を取り上げました。今日は、その中身に踏み込んでみます。
軽量社会学を専門とする吉川は、2015年に行われた二つの社会学調査を解析して、20歳から60歳未満の現役世代を「若年/壮年」「男/女」「非大卒/ 大卒」の三つの指標で8つの枠組み(セグメント)に区分けして、まず、それぞれの人口、年収、就労時間、職種、世帯、結婚状況などのデータ(ハードウェア面)を解析して、それぞれのセグメントを一人の人に見立てて「8人のプロフィール」を描き出しています。
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