2019年11月26日火曜日
これはほんのはじまり
香港の区議会選挙の結果が出た。香港の人々は、まだセミの幼虫の心を見失っていなかったと(一昨日のブログ記事を想い起しつつ)外野の私は、ちょっと安堵している。だが専門家たちは、とても慎重だ。
「民主派の圧勝というが、民主派に投票した人たちの多様性を見落としてはならない。街頭デモが勝利したわけではない。気持ちはわかるが、調子づかない方が良い」
と、今後の大陸政府の出方を見極めることを説く。何しろ香港政庁は、行政府的権限をもってはいるが、政治的権限を有していない、と。つまり中国の大陸政府は「地方自治」というセンスを持っていないのだ。むしろ、あの広大な大陸のこと、かつて「地方自治」は自生的に必然であった。中央政府が方針を立てて提示しても、地方がそれを解釈して執行する過程に「自治的な要素」は織り込まれ、文字通り「適当に」実行に移される。だから大陸政府は、中央集権政治はいまだ形成の進捗過程にあり、ぼちぼち仕上げの段階にあると考えているのもしれない。それが習近平時代に入ってからの「汚職摘発」であり、「法治主義」の意味するところであった。そう考えると、香港を一国二制度と名づけても、香港のローカルな自治的センスをどう大陸の中央集権制度に組み込むかという戦略戦術的思慮は働いても、香港のローカリティを尊重して中央政府の仕組みを変えるなどということは、微塵もないといわねばならない。
その変更は、強固な独裁的共産党支配の根幹にかかわる。共産党こそが人民の利益を見極める力を持つという理性的判断を下す正義性が根底にある(「前衛論」)。つまり人民はおろかであり、理性に目覚めた共産党の指導がなくては、人民の暮らしは混沌の中に投げ出されるという強固な確信がある。これって、共産党というだけでなく、フランスのエリート支配の階級制にも通じる。日本の官僚支配の有している人民観にも相似である。つまり統治をする立場に立った者たちは、そういう人民観を根柢において、エリートとしての自らのノーブレス・オブリージュ(気高き献身性)を奮い立たせる。逆に、政治家がいかに腐っていようと、国家の根幹を支える官僚スタッフがノーブレス・オブリージュをもち続けているからこそ、この国は誇り高くしていられるのだ、と。そう思えばこそ、世人からも「エリート」と称えられるに値する、とも。中国ばかりでなく、アメリカにおいても、そうした理知的な人民観=人間観が拭い去られるようにみえたのが、アメリカ大統領選でのトランプの登場ではなかったか。「反知性主義」と謗られた側がじつは「知性主義の頽落」批判であったことを、批判されている知性主義の側は気づかなかったともいえる。そこで批判されていた「知性主義」とは、カント以来の欧米合理主義であり、ことにアメリカで発達した機能的合理主義であった。
アジア的な特性を引きずっているように見える中国の共産党独裁の「前衛論」も、西欧近代合理主義のひとつの極みである。その実証的破綻は、1989年に明らかになったがゆえに、その後の中国共産党政権は論理の組み換えを行い単なる国際的覇権主義に衣替えして、経済的・軍事的・政治的に国際関係を取り仕切ることへ舵を切ったのであった。その一片が、目下の香港であり、いずれの台湾であり、さらに将来の一帯一路であると言える。
では「反知性主義」が、それに対抗できるか。とんでもない。トランプも安倍も、大陸政府に持ち掛ける言葉を知らない。香港を援護し大陸政府に自重を呼び掛けることを、憚っている。なぜなら、自らも統治者として似たような人民観/統治観を持ち来っているからだ。
つまり、いまここで、香港の人々を支援する言葉を発することは、西欧的人間観からの離脱を意味する。理性的合理主義が行き渡ることが人の世をよく統べるのではなく、人の社会は矛盾性を内包して混沌のなかに「自己同一」を保っている現実存在である。だから世の中は、ひとつに安定的に絶対者によって統治されることではなく、つねに揺れ続け、落ち着く先を探りつつ移ろうように「総べる」ものだとみてとることではないか。そして唯一国の統治者に託されていることは、人びとが飢えないように心をつかうことと、戦禍に遭わないように外交を取り仕切ることである。
香港の選挙結果を見てインタビュ―に応じた香港の民主派の活動家が、「これははじまりにすぎない」とクールに応えていた。そうだ、まさにこれは「人間観」や「社会観」、「国家観」や「世界観」の大きな変化の「はじまり」である。どうそれが、世界の人々、社会全体が共有する思念として紡がれていくか。「ほんのはじまり」に過ぎないと思う。
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