2019年11月21日木曜日

知識社会の終わり? ヒトは野に還れ


 橘玲は知的世界のことばを庶民の言葉に翻訳する達人の一人である。この方が凄腕の編集者として鳴らしていた三十数年前に出会い、センスの良さに敬服してきた。その彼が「知識社会の終わり?」について指摘していることが、面白い。『上級国民/下級国民』(小学館新書、2019年)。


 平成時代を通して「中流」が姿を消し、「下級国民」が生まれたと解析する。それがただ単に所得の格差というだけでなく、性愛においても「非モテ」という疎外された人生を歩まざるを得ない「アンダークラス」を形成しているとつまびらかにしている。しかもそれは日本だけの傾向ではなく、知識社会とリベラル化とグローバル化が作り出した先進世界全体に及ぶ流れであって、取り返しのつかない不可逆的な潮流となっている「分断された社会」を、縷々事象をあげて展開する。トランプ現象は、その知識社会とリベラル化とグローバル化への反動であっても、それが流れを変えることにはならないと子細に論じている。

 そして到達した結論が、「知識社会の終わり?」という疑問符付きの将来予測であった。
 グーグルの研究機関‘X’のCEOエリック・テラーが書いたという「テクノロジー(知識)と人間の適応力」の相関図。テクノロジーが急速に変化することにもはや人間の適応力が追いつけない地点を超えてしまっている。そして、いわゆる「シンギュラリティ」がやってきて、人間の知恵をAIが超えてしまうと、もはや「誰も技術を理解できない時代」がやってくる。となると、「技術」は「魔術」と区別できない世界が堪能する。「知識社会は終わり?」ではないか、というのである。

 《テクノロジーの指数関数的な性能向上でAIが人間の知能をはるかにうわまわるようになったとしたらどうでしょう。……もはやどんな人間もテクノロジーを理解できなくなり、機械(AIロボット)は勝手に「進化」していきます。そうなると……知能は意味を失って知識社会は終わることになります。》

 いやじつは、私の実感では、もうすでに世界はそこへ踏み込んでいる。私ら庶民には、テクノロジーの展開する社会は、ごく一部のテクノクラートが操る「魔術」を体感しているに等しい。それが市場経済に乗っかって目の前に現れると、とっても抵抗できない。たとえば、今使っているプリンタに不具合があってもデジタルカメラが故障しても、「5年を超えると、修理部品がない」とか「買い換えた方がいいですよ」と店員に告げられると、ことごとくがブラックボックスの中。言われるとおりにするほかない。それがシンギュラリティを過ぎると、ヒトが自律的に取り仕切る範疇は自分の身の動きを保つための所作と、魔術的世界に適応するに必要な手順と手続き(アルゴリズム)を身に備えるだけとなる。この、現在、テクノクラートと庶民との間に立ちはだかるブラックボックスが、「分断社会」のひとつの要因だということも、よくわかる。では教育を通じて知識社会化をもっと進めることに将来見通しがあるか? 不可逆的、つまり無理なのである。

 橘玲はこう続ける。

 《子どもたちのあいだでは、勉強して有名大学を目指すよりユーチューバーの方がずっと人気があります。これは「教育の危機」といわれますが、私たちの社会がB(どんな人間もテクノロジーを理解できなくなる)地点に向けて「進化」しているのだとすれば、正しい選択をしていることになります。》

 こうして「令和の時代のあいだに、知識社会の終わりを目にすることになるのかもしれません」と締めくくる。私たちがいま、日ごろやりとりしている教育問題というのも、社会問題というのも、考え直さなければならないのかもしれない。そんなことはもうやめて、都市生活はAIに差し上げて、ヒトはさっさと野に還るか。そのための暮らし方の文化を伊勢神宮のように伝承していった方がいいのかもしれない。

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