2019年11月13日水曜日

人口減少時代の「消滅可能性都市」の設計


 少子化が進み、人口減少の市町村の約半数が消滅する「消滅可能性都市」がモンダイになったのは、2014年であった。以前から私が疑問に思っているのは、明治維新のころ日本列島のの人口は、おおよそ3000万人であったことを考えると、人口減少でなんでうろたえているのか、わからない。経済が停滞するというが、人口が減れば、当然需要も減少し、経済活動の規模も小さくなる。だから規模が小さくなることがモンダイなのではないはずだ。人口減少に比例して規模が小さくなるのなら、現在の暮らしの水準は変わらないことになる。それで何か不都合はあるか。


 そもそも、人口が日本より小さい国はたくさんある。それでいて先進国としての物質的な豊かな社会を保っていることを思えば、日本もそれに倣って、人口減少時代の経済と社会のありようを設計して行けばいいではないか。もちろん、外国人の流入によって現在規模の活気を保持しようとすることも、ひとつの案として入れておいてもいい。だがもしそう考えるのなら、「技能実習生」というまやかしをして安い労働力の確保なんて卑劣なことをしないで、外国人が家族ごと日本に定住して暮らしていけるようにしていかないと、社会的な不安定が増幅されて、いずれヨーロッパのように、テロや騒乱に明け暮れるようになる。つまり、外国人の導入を考えるなら、彼らをも日本人として遇し、彼らもともに将来の日本社会をかたちづくっていくように、市民権から社会生活の形成から構成していかなければならない。これは日本にとっては、「文化大革命」ともいうべき、大変革を意味していると思う。

 現在日本の外国人居住者は1.8%と言われる。多すぎると騒いでいるヨーロッパ社会の10分の1だ。外国人に抵抗力を持っていない日本の庶民にとっては、たぶん、ヨーロッパの半分も行かないうちに、大騒ぎになるであろう。そうならないようにするには、たとえば今回のラグビー日本チームのように、国籍なども問わず、日本の産業労働現場のチームとして働いている人なら、一緒にやっていこうじゃないかというくらいの許容度の大きい社会的素地をつくらなくてはならない。そういうことを、為政者は考えてくれよと、ひとまず言っておきたい。

 とは言え、外国人を受け入れては社会的不安定が増してやっていけないというのであれば、人口減少時代の小さい社会を考えようではないか。私が小学生のころは「日本は狭い、人口が多い」というのが、大人たちの口癖であった。昭和の30年代には、人口調節をして増大を抑えるという趣旨で、性教育が行われていた。それが経済活動に大きな人口は有利に働くとなってから、まるで戦前のように「産めよ増やせよ」と言い募っても、それで踊るほど人々は身の程知らずではない。

 というわけで、ぜひとも学者や官僚や政治家たちには、「人口減少時代の日本の構想」を考案して、打ち出してもらいたいと思う。いま人びとが人口減少で騒いでいる前提には、現在の快適な生活空間が維持できることとしている。なるほど私も、トイレと風呂の快適さとごみ処理のありがたさだけは現在の到達地点を保ってほしいと願っている。あとは、食べるものでも交通手段でも、もっと不便になっても構わない。それこそ歩いて暮らす生活圏が復活するとしたら、そこにこそ地産地消ではないが、自分たちの暮らしは(できるだけ)自分たちで賄おうという自前のコミュニティが生まれてくる。

 高齢者は、しかし限界集落では暮らしに困るのではないか。そう指摘されると思う。わが身がそろそろそういう事態を迎えるから言えるのだが、もしそうなったらどうしようとカミサンと考えていると、結局、どこかの介護施設に入って、いろいろな不都合を凌ぐしかない。ということは、いま棲んでいる地を棄てて移り住むわけだから、そういう施設を然るべき中核都市に集中させて、医師や看護師や関連施設を設けて、ぜひとも快適な老後を送れるようにしてもらいたいと願っている。

 というのも、全国のポツンと一軒家にまで不都合なく暮らせるインフラを整備するのは、経費的にもとうてい無理だ。となると、限界集落であっても都会を離れて自然いっぱいの地域で過ごしたい人は(ちょうど今私が山へ遊びに行くように)、自給自足的に、そしてネットの交信だけは不都合なく行えるようにしておいて、気随気ままに過ごせるではないか。

 たとえば道路整備などのインフラは、最小限でいい。舗装もいらない。ひび割れたアスファルトを、その地区に住む人々が自前で補修するならば資材だけは公共的に提供する。そのまえに、「道路整備規準」なる法の規制を撤廃して、その地に住む人が自前で手入れが行えるような、法的基盤整備は必要になるかもしれない。それには、官僚というシンクタンクが長年の知恵と知識を蓄積している。それをぜひとも活用していただきたい。緊急時にはドクター・ヘリを用意しておくくらいのサービスは、可能なのではないか。当然、そのような事態に備えて通信設備も整えておく。そうして、大自然のなかで自立して暮らすにはどのようなノウハウが必要かなどは、子どものころからの学校教育で用意しておくといい。

 あるいは、最近のサービス産業の様子を見ると、そうしたアウトドアをふくめたワイルドライフを提供する分野が充実してくると、手入れされていない自然のなかで暮らすレジャーが盛んになることも考えられる。所有に関する規制を撤廃すれば、少なくなった人々が、いわゆる名所というのではなく、四季豊かな日本の大自然に身を浸して暮らす新しい時代のワークライフバランスを、もっと自在につくりだすのではなかろうか。そう思うと、もうちょっと長生きして、そういう時代を覗いて見たいとも思う。

 そういう夢のような話を、近ごろ聞かなくなった。

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