2019年11月12日火曜日

「公正さ」とは何か(2)「不公正」にどこまで「痛み」を感じているか


 メディアに要請される「公正さ」って何だろう。アメリカのマス・メディアは、どの新聞はどの候補を支持しているとか、共和党支持だがトランプには反対だとか、わりと党派色が旗幟鮮明だと聞く。日本のメディアの場合、最近はだいぶ違ってきたが、それでも党派色を出すことは嫌われる。産経新聞も、朝日新聞も、読売新聞も、自分たちの報道が「公正」あるいは「正義」だと考えている(ようにみえる)。つまり「公正」とか「正義」というのは党派性(立場の違い)を超えて(皆さんに)受け容れられるコトと考えている。だから旗幟鮮明にするのはご法度なのだ。だから同時に、「党派」というのが「party(一部を代表している)部分」という考え方も、ない。自民党のように、あるいは政権時代の民主党のように、ひとつの党派の中に、派閥をなして争うことはあっても、党全体としては「みんな」を代表しているというセンスが共通しているといえようか。

 ……では(政権についていない)他の党派は何なんだ、という疑問は残る。いうならば不平不満分子やただただ反対分子、有象無象とでも言おうか。率直にいうと、取るに足らない連中だ。だから「あんな(そんな)人たちは……」と政権党の党首が演説をし、メディアが「選挙民(国民)を排除するような分断」と息巻くのも、どちらも、国民はみんな一緒であるべきだという共通のセンスに乗っかっている。
 ……などと考えをすすめていて、隘路に入る。どうして? 「公正さ」の事例を政治次元において考えようとしているからだと気づく。政治というのはマキャベリが指摘して以来、「奴は敵だ、敵を殺せ」とドライに展開しているのが、神髄。partyはつねに「正義は我にあり」を掲げ、何時でも公正に執り行っていると表明するのが、ふつうのありようである。そう考えると、政治集団をとらえて「公正さ」を検証しようとするのが、お門違い。ということは、そうした政治の本質を承知して批判するジャーナリズムの「公正さ」というのは、政治に翻弄される庶民の日常にあるとみてとらなければならない。

 とすると昔、「赤信号みんなで渡れば怖くない」とお笑いでやって喝采を浴びたことから、考えはじめてもよさそうだ。ここには、「公正さ」の唯一の基準は、「みんな同じ」ということにあることが現れている。メディアは、視聴者・読者「みんなに」好まれることを目指している。日本では、アメリカのように(と一般化していいかどうか、わからないが)キリスト教的な絶対性を外部に持っているわけではない。だから日本の私たちが求める「公正さ」というのは、(日本的な)ローカルな文化的傾きを持っていると思う。

 その淵源は、たぶん自然観にある。万物に魂が宿るという感覚は、天地自然の元においては、生きとし生けるものばかりでなく、ありとあるものがみな、平等に位置づいているという感性を醸し出す。その中に自らを位置づけるヒトのありようは、ヒトの社会関係においても「皆同じ」であることを求める。しかし人は生まれながらにして「同じ」ではありえない。出自も、才能も、生まれ落ちた時も環境も、そして降りかかる偶然さえも、ことごとくが異なりをもつ。にもかかわらず「皆同じ」であるという願望は(自由な社会において)、同等に扱われること、結果はどうあれ、向き合う事態の次元そのものにおいて同等に位置していることを認めること、認めてくれる/もらえることを意味している。だから実は、「身の丈に合わせて(生きていけ)」ということも、それが現実であることを承知はしているが、そうせよと、為政者に言われることは、我慢できない。そういう平等感覚を、民主主義社会は培ってきた。

 「天地自然の元で……」という前提は、自然の摂理にしたがうことを指す。その摂理に、才能も環境も半ば規定されてしまうという生まれ落ちた不遇、機会をうまくとらえられなかった(幸運にみちびかれない)不運、取り巻く環境と時代によって思うに任せない不条理がつきまとう。それらにも従うほかないと現実を受け容れはする。だが、民主主義の世は人の知恵によって、そうした天地自然の摂理から「皆同じ」世界へ人々を救済しようとするのを本命として「人は皆生まれながらにして平等である」と標榜していたのではなかったか。

 「公正さ」とは、不遇、不運、不条理を乗り越えていこうとするモメントが(事態を動かしている力の行使に)見えるかどうかを指している。「忖度」が悪いのではない。忖度によって依怙贔屓が隠蔽されて行われるのが悪質だと非難を受けているのだ。御贔屓すじに便宜を図り、わが利権を追求しようとする姿勢が、公正であるべき行政の名のもとに公然とまかり通っていることが、追及され、剔抉され、論難されねばならない。そう庶民は「公正さ」ということを考えていると、私は思う。ジャーナリズムは、そこに「公正さ」の原点を置いて報道に徹することが期待されている。

 そんなことを考えていたつい先日、「ゆがんだ波紋」というTVのドラマで、新聞の「誤報」がとりあげられた。その誤報した記者が、たまたま小学生相手に「ジャーナリストの仕事」を紹介する場面で、子どもから「(でも)誤報をしたときはどうするんですか」と終われる。しばし絶句したのちに、「背負うんです。一生背負って生きていくんです」と応える場面があった。その「しばしの絶句」が絶妙であった。「公正さ」というのとは少し目の置きどころがずれるが、「一生背負って生きる」ほどの「痛み」をジャーナリストは「公正さを誤る」ということにどれほど感じているか。そこがモンダイだと思った。

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