2019年11月10日日曜日
「公正さ」とは何か
先日(11/8)のこの欄《「すべて政治に属する」か》でモンダイにしたことが、昨日(11/9)ジャーナリズムの「報道」を論題にして、真山仁によって論じられている(「真山仁のPerspective:視線」朝日新聞2019/11/8)。端的にいうと隔靴掻痒。モンダイの周縁に触っているだけで、踏みこめていない。《「人が伝える=偏向」メディアへの不信》《事実を見抜く視点 人にこそ》と見出しを振る。ジャーナリズムに興味を持つ高校生が「親はメディアはウソばかり伝えていると軽視している。本当でしょうか」という問いかけにはじまり、真山仁が9カ月ぶりに応じているエッセイ。
「…メディアは、伝えたいことをカスタマイズして読者を誘導して、自分たちの意見や考え方を刷り込んでいる気がする」
「政府の圧力によって情報操作されたりしているから、真実は報道されていないのでは」
「筆者の意見が入っているため、真実が見極めにくい」
などなど、「ジャーナリズムに興味のある高校生の意見」を紹介して、真山はどう応じているか。
《新聞から主観を完全に排除することはできない。メディアは複数の相手に取材して記事を書き、さらに俯瞰の目をもつデスクがバランスをとることで可能な限り公正であるための努力をしている》
がっかりしたね。作家である真山仁がジャーナリズムに関してどういう経歴をもっているか知らなかったが、ネットで調べてみると、2年間ほど読売新聞社に勤めその後は「フリーライター」とあった。「主観を完全に排除する」なんて信仰を、どこのジャーナリストがもっているのだろう(あっ、この記事を掲載しているってことは、朝日新聞の記者やデスクは、そう考えているのかもしれない)。「俯瞰の目をもつデスクがバランスをとる」こと自体に、デスクの「カスタマイズ」が働いたり、「情報操作」が入り込んでいる。となると、「公正」って何よということに踏み込まなければならないではないか。それを真山はどう始末しているか。
《ときに100対1ほども意見が偏っていても、1の意見も無視せずに報道する。少数意見が不必要に強調されるリスクがあるが、一方的な意見を伝えるよりも良いからだ》
「100対1の…1の意見も無視せず」っていうが、記者がどれほどの取材をしてもそこまで目配りをして意見を拾うことなんて、できっこない。そう思うから高校生の親ではなくとも「メディアはウソばかり伝える」と思うのではないか。そういう三百代言をしゃらっと書くから信用されないのだということに、まず、気づかなくてはならないよ、ジャーナリストは。
《なぜ人が介入した報道は、意見が偏ると思われるのか。/一つにはそういう固定観念があまりにも一般に広がりすぎたことにある。》
行きがかりの駄賃に言うと、アメリカの大統領・トランプが私たちにもたらした最大の功績は、世の中の情報はウソに満ちているってことを身をもって曝したこと。信用するもしないもわたし自身のモンダイなのだと。ついでに世の「権威」ってことも地に堕としてくれた。欲望と独善が露わになり、それに向けた権力闘争が熾烈に剥き出しになった。ということは、初期近代ってのは、人間中心主義の西欧理念のヴェールに覆われていたってことね。
なぜ真山は逆のことに、思いを及ぼさないのか。「固定観念」というべきは、複数の相手に取材してバランスをとるデスクの視線を通せば客観的になるという真山の観念の方ではないのか。声の大きな意見の中の少数意見というとき、そこに目を止めた自分自身の選好を考えてみたことはあるだろうか。デスクの「俯瞰する目…のバランス」の好みを問題にしたことはあるのだろうか。
とどのつまり、共有される社会的文化である「ことば」を使う人間の感性や感覚、好みや思念を通るわけであるから、その根源のところへ踏み込んで問い直さない限り、弥縫策的な便法しか見いだせない。その根源を飛び越して《どうやってそれを見極めるか》と問うから、自らの内側に向けた問いかけにつながらない。
《メディアに入社して徹底的に教え込まれるのは、発信者の情報を可能な限りそのまま伝えることだ。目でみたり、聞いたりした話も記者の感想は排除して、原稿にする。》
と真山は記者教育の「いろは」を記す。発信者の情報をそのままというのが、取材した発信者が用いた言葉を「そのまま」というのであろうが、用いた文脈や場面、誰に、どういうやりとりの過程でそう言ったかなどを考えると、「そのまま」を拾うなかにすでに記者の感性や感覚、価値観も入り込まないではいられない。あたかもそれを排除したように錯覚するところで「客観報道」はつくられているとすると、受け取る側の情報リテラシーとしては、「ウソばかり」と疑ってかかるのも、正解ではないか。
「メディアはウソばかり」というのは、外に向けた非難のことばだ。リテラシーというのが、情報を読解する力だとすると、なぜそれをウソと思うのかと自らに問いかけるところまで踏み込むのが、シンジツへの道程だと私は思う。つまり世界は混沌の中にあり、メディアが提供する情報も、わたしが受け取る情報も「ことばまみれ」になっている。「ことばまみれ」というのは、ありとあらゆる人の感性や感覚、観念や文化の濁りにまみれているということ。「ことば」ってそういうもので、わたしたち自身もいつ知らず、特定の文化にまみれた言葉を身に着けてきている。だから、わが身に沁みこんだ「ことば」自体も吟味しつづけなければ、じつは、シンジツってものは目に見えない、手に入らないのだと考えること。それがリテラシーってものだ。
《人間が取材して伝えるのが問題ならば、それを読んで判断する読者が人間であるというのもまた問題ではないか》
と真山があらぬ問いを問うことになるのも、根源へ踏み込む入口の扉のところで開き直っているからだ。扉を開けよ。ことばを生業にする作家が、その扉を開けないでどうするよ。
《事実を可能な限りあるがままに伝えることだけが、使命なのだ。そして、その事実が多角的で重層的に伝えられたとき、まれに真実が明かされる》
などと、ジャーナリズムに興味を持つ高校生に語って、何かを言ったつもりになっては、困るのだ。彼らはそういう「使命」を突き破って、新しい地平を拓く時代にジャーナリストになる可能性がある。だったら、古い記者の「いろは」は捨てて、シンジツって何だと問い続ける「ことば」への根源の熱意をこそ、語ってもらいたいと思うね。
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