2019年11月4日月曜日
わが十年の心の機縁
思いついて、昔のブログ記事を読みなおしていました。このブログも、はじめてから12年。途中、プロバイダの都合でブログ提供が中止され断絶したので、再構築したブログは、2014年の5月までしか遡れません。
目を通していて、《この「真理が人間をつかまえる」という「他力」こそ、私の「機縁」の中であるときパッとひらめいて腑に落ちる思いを、的確に言い表しています》と記していることに気づきました。ああ、これが、私が繰り返して想っていた「自然(じねん)」だと思ったのです。
書き落としていたからこそ、出会う表現に、わが十年の径庭と「心の機縁」を感じました。長いのですが、再掲します。
*** 親鸞のやったことは実存としての自己認識であった ***
義母が亡くなって浄土真宗にこりはじめた知り合いがいます。わが家も浄土真宗だというところから話がはじまって、「無量寿経」だと思っていたお経が「正信偈」だと教わりました。その友人が目下読んでいる本が丹羽文雄の『親鸞』で、ぜひ読んでみろとすすめられました。1冊500頁近い文庫本を4冊も読むのは、なかなか時間がかかりました。しかし読んで良かったと思っています。これまで親鸞という方は浄土真宗の開祖、護国と加持祈祷の仏教の大衆化を図ったという程度に考えていました。たしかに大衆化というくくりもできますが、それ以上に大きな転換をはかったのだと受けとめました。
彼は仏教を、死んだ後の世界に成仏するための宗教から、生きている今の自分を省察する「哲学」へと転換させたのだと理解しました。もちろんこれは、丹羽親鸞ですので、親鸞そのものと考えているわけではありませんが、そんなことは(私にとっては)どうでも良いのです。
丹羽『親鸞』(4)の42頁に次のようなくだりがあります。ちょっと長いのですが、引用します。
《「教行信証」の信の巻には、「この心作仏(しんさぶつ)」ということで親鸞が註をしている。
「またいはく曇鸞の論証の(巻上)『この心作仏』とは、いふこころは、心はよく作仏なり。『この心これ仏』といふは、心のほかに仏ましまさずとなり。たとへば火、木よりいでて、火、木よりはなるることをえざるなり。木をはなれざるをもてのゆへに、すなはちよく木をやく。木、火のためにやかれて、木すなはち火となるがごときなりとのたまへり、と。」
さらに、善導も「定義集」の中で、
「この心作仏す。この心これ仏なり。この心のほかに異仏ましまさず」
といったと、親鸞はつけ加えていた。
(…)
木は、自分によって燃え上がる火によって、自分全体が火になってしまう。悟りと煩悩の関係は、木と火のたとえのようである。煩悩とはなれられないからこそ、悟りは煩悩を燃やして智慧となるのである。煩悩は煩悩であることによって燃えて智慧となるのだ。煩悩は自分の中からえた智慧によってつくりかえられる。煩悩は導かれる。煩悩全体が変じて、智慧となるのだ。智慧の母体は、煩悩それ自身である。》
これは、私が学生さんたちを相手にやっていることと同じことを言っています。「言葉」はすべからくコピーである、いつしか身につけた言葉や概念をもう一度吟味して自らのものとすることが青年期の学生さんたちのつとめだ、と。
いや実は青年期どころか、この年になるまで、これの繰り返しでした。軽く信じたり思い込んだりほとんど意識することなく自分の言葉を喋っているように思っていることが、はずかしながら私でした。ですから「世界」をとらえるとは自分をとらえることと同義であり、つねに外からの刺激を受けては自己省察を通して、ひとまず「自分の考え」というものに到達する。しかしそれもすぐにひっくり返るという、無惨な「意識」が私だったという述懐ですが、それと同じことを親鸞が一生を通じてこの時代にやっていたのだという、発見でした。
私自身の「自己省察」は、生徒や同僚たちとの空間を共有する振る舞いと言葉の中からはじまりました。もちろん、40年近くになる私のグルーピングも、大きな要素を占めています。それらの人との関わりの機縁をえて、私の「自己省察」があったのもたしかです。その意味で「自力」ではありません。同じ『親鸞』4)の43頁に次のような記述があります。
《真理のはたらきを、大悲の如来であると親鸞は考えた。無明法性ことなれど、とうたったとき、法性とは真理のことであった。親鸞はそれを、意志をもった人間的なものとしてうけとった。人間が真理をつかまえるのでなく、真理が人間をつかまえ、人間を動かすものだと解した。仏よりたまわりたる信心であった。そしてそれを人格的なものと考えたが、それには形はないのである。形がないからこそ自然であると考えた。
「木像よりは画像、画像よりは名号」
と、親鸞は仏というものを形で考えさせないために苦労をした。》
この「真理が人間をつかまえる」という「他力」こそ、私の「機縁」の中であるときパッとひらめいて腑に落ちる思いを、的確に言い表しています。これは死後のことではなく、今まさに生きている実存としての自己認識だと痛切に感じているところです。(2009/12/9)
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