2019年11月28日木曜日

茫茫たる藝藝(4)あそびをせんとやうまれけむ


 荻原浩の短編「リリーベル殺人事件」のなかに、夫を殺害する方法を思案する主婦が描かれています。それを夫が察知して「スズランによる毒殺ですね、今度は」と妻に告げる場面。妻の創作、夫は編集を志して入社した出版社の営業部員18年目という設定。因みに、荻原浩という作家は、世の中の埒もないことを面白可笑しく綴って、ときに『明日の記憶』のような哀切な作品をものしている「風のような」語り部。


《…「ここだね殺害のポイントは」とのん気に呟く。「ダイニングテーブルにすずらんの花が活けてある。夫がいつも使っている大ぶりの錫のタンブラーが花器のかわり――」「ちょっとぉ、声に出して読まないでよ」……「音読って大切なんだよ。声に出してみて、つっかえるってことは、文章のリズムが悪い証拠。読者にも読みづらいってことなんだから……」》

 この声に出して読む「稗史小説」が、じつはmsokさんの心がけの一つ。この方、偏執狂的ともいえるモーツアルト・ファン。毎月3500円の大枚はたいてスカパーのクラシカジャパンを契約し、日々何がしかのクラシック曲を視聴し耽溺している。この「茫茫たる藝藝の(1)」で紹介したように、彼の「稗史小説」が現在626枚で止まっているという、この数字にもモーツアルト・ファンなら「ああ、なるほど」とすぐにうなずくことが隠されていたりするのです。こうした「エクリチュールの剰余」が作品中に、あるいは彼の人の実人生中に、ふんだんにばらまかれているのも、msokさんの人柄を彷彿とさせる自叙伝的要素です。平安歌謡にいふ「あそびをせんとやうまれけむ」を地で行く人生とも謂えそうです。

 さてmsokさんの作文術のもうひとつが、自称「枡埋め」です。

《貧乏性ゆえか、いや実際幼少のころから貧乏でしたが、その所為もあって原稿用紙に余白があると何かひどく勿体なく思え、できることなら折角の四百もの桝目の凡てを埋めてやりたいと思うほどにその性向が勝っているのであります。》

 と語っています。「貧乏性」とか「勿体ない」という言葉に、意図せず彼の人の原点がうかがわれます。さらに推察するところ、msokさんが東洋史を選んだのも、中国語を身に着けたのも、彼の国の文字言語が句読点すら設けずに全面的に桝目いっぱいの象形文字で埋め尽くされていたのが、動機ではないか。そういう「美意識」をわけもなく選びとる知行合一的な「あそび」をもっぱらにする傾きは、先に紹介した通りです。msokさんは、こう居直っています。

《それも相俟って、内容はさて置いてもとにかく桝目を埋めていくことを第一の目途とする自分流の作風が揺るぎなく出来上がってしまい、誰が何と言おうとその風を矯め直すことはありませんし、これからもないでせう。》

 上記「居直り」の肝心なポイントは「とにかく桝目を埋めることを第一の目途とする」という「あそび」です。当然エクリチュールは文章ですから、ことばの持っている範疇から抜け出ることは適いません。ときに、ジェイムス・ジョイスやいいだもものように「言葉遊び」をして、わけのわからない作品を得意げに書き連ねる方もいますが、msokさんの「あそび」はもっと大衆的です。たとえば、句読点なしの(日本語の)文章を2000文字ほどつづけるという離れ業をしてみせたこともあります。当時、売れっ子作家は、原稿用紙の空白部分も四百字のうち、原稿料が支払われると知って、
「どう?」
「……」
 と改行して書いてそれぞれ20字分ということを多用していましたね。近頃は、会話ばかりでなく、文章もぶつ切りにして改行ばかりの小説が多くなりました。段落なんてのもあるのかないのか、わからなくなりました。いま目にしているデジタル仕様の文章もまた、(蓮見重彦東大総長が入学式や卒業式の総長式辞をデジタルで公表した作法に倣って)一行空けが作法のようになっています。

《斯様な書き方が身に付いてしまっているゆえ、余白ができやすい行変えや段落の設定、意味ありげな二、三行空け等々は可及的に採り入れず、常識的にはそうしなければならない所も委細構わずビッシリ埋めるようにして書き、また会話部分なんぞそれこそ行変えの必要があり、じっさいにいろいろの小説を読んでみてもその通りになっていますが、それさえ勿体ないと忌避しているのですから、そうですね全体の見た感じでいえば文章にも紙面にも余裕に欠け、ために覿面の読みづらさを将来せしめています。》

 東洋史専門中国語達者の「反デジタル」路線は、しかし、目下の中国政府の社会統治の戦略からすると、まったくの「反逆罪」に相当します。目下の中国は、e-mailという通信から通販の買い物、何処へ何時に誰がどうやって行ったか行かないかまで、GPSや防犯カメラ、デジタル通信のAIを駆使して、全国民全量掌握という離れ業をやってのけているのですから、msokさんの立つ瀬は、その世界にはもはや欠片もないと言えますね。これはしかし、逆に、msokさんの「読み手に訴える何ものもない……風のような読み物」志向が、統治のための全量把握へのはっきりとした反旗であると受け取ることができます。むろん言うまでもなく、それは中国政府に対するだけでなく、デジタル化によってヒトの全量把握に突き進む「世界」への反逆です。では、旗幟鮮明にして何ができるというわけでもありませんから、そのような心持をはたはたとはためかせて翩翻としている様子だけが、記し置かれるのが「稗史小説」というわけです。「あそび」こそが「反旗」という皮肉なヒトの姿とも言えますね。

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