2019年11月2日土曜日
気になる細かいこと2点
去年の昨日(11/1)のブログ記事をみると、海外に住む私の友人へのメールが「不正アドレス」と表示が出て使えないとぼやいている。こちらからのメール送信が届かなかったのだ。ディスコミュニケーション状態にあったのが、このブログを目にしたことで、友人のPCが問題と分かって、そちらの方が対応してくれた。そうか、あれからもう一年になるか。とすると、かれはまたそろそろ日本に帰ってくることになる。速いなあ、ときの経つのは。
そう言えば昨年の今日この頃は、団地の理事長をやっていて、修繕積立金の値上げ案を作成することになって、住民説明会を開いていたっけ。今年はその積立金を遣う「給水管・給湯管更新工事」のコンサルタント業者を選定する段階に進んでいる。昨年の役員ということで私も、修繕専門委員会に顔を出して、その作業の進展を目にしている。その道の専門家たちのはからいに感嘆しつつ、業者選定に決定権が、まるで素人の私にも「同等に」与えられていることに、戸惑いを感じている。これも、選定作業がひと段落ついた段階で、じっくり考えておかないといけないと思う。
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「細かいこと」というのは、昨日とりあげた吉川徹が『日本の分断』で解析しながら深入りしないで通り過ぎていたこと2点について、気になったこと。
あっ、その前にひとつお詫びをしなければならない。読み返していて、「軽量社会学を専門とする吉川は……」と書いていることに気づいた。いやはや、「軽量」だなんて、なんと失礼なこと。これではまるで彼の専門を揶揄っているように見える。正しくは「計量社会学」だ。2カ所で、同じ間違いをしている。こういうそそっかしいのが、私の人生を邪魔してきたと、正直思う。このソコツがなければ、もう少し「この道」の奥深いところでものを考えたり行ったりする場面が開けていただろうに、身に沁みこんだ習いがついにほぐれず、現在に至っている。でも逆に、このソコツがあったからこそ、「庶民」の立ち位置を体感し体現して、ものごとを考える癖もついたと言える。どちらが良かったかは、わからない。
気になったことの第一点。
吉川は「ジェンダー意識」に関して、「イクメンは若年男性の夢」と記している。調査の項目は「夫が妻と同じくらい家事や育児をするのはあたりまえのことだ」という意見に対する「そう思う」から「そう思わない」までの4件法による回答を、肯定/否定に二分した結果を参照している(結果はグラフにしてp194に記載されているが、ここでは省略)。
「そう思う」女性より「そう思う」男性が、どのセグメントにおいても、16ポイント~10ポイントほど多い。これを吉川は「イクメンをめぐるキャンペーンは、知らずしらずのうちに若年高学歴男性をターゲットに見立て、夫婦の形態としては大卒同類婚を想定し、彼らの家事・育児を支援奨励するものとなっていることに気づきます」と、非大卒同類婚にあたる若年非大卒の男性と女性の「疎外状況」に焦点を当てようとしているが、その前に取り上げるべきことがあるだろうと思う。
吉川の指摘する若年非大卒の男性と女性の「そう思う」差は、13ポイント弱。壮年非大卒の男女の差は、9ポイント強。若年大卒男女の差は、16ポイント強、壮年大卒男女の差は、9ポイント強。まず、この(学歴に関係ない)男女差は何に由来するのだろう。家事・育児に関し、それは女性の役割という(伝統的・社会的≒ジェンダー的)意識が影響しているのは慥かですが、それを吉川は「イクメン否定派が多い…若年と壮年の非大卒女性たち」に関し、「専業主婦やパート主婦、あるいは家事手伝いが多いこれらのセグメントでは、家事・育児が彼女たちのアイデンティティの源泉となっており、この役割を堅持したいという気持ちが強くなっているのでしょう」と解析しているが、それでは表層を撫でているだけになると感じた。
イクメン否定派が多い少ないに踏み込む前に、大卒か非大卒かにかかわらず、若年層の男女の差異が大きく、壮年層に少ないのはなぜか。子どもが幼少期の家事・育児と学齢期に入ってからのそれとでは、また違いもある。吉川は、壮年組は「昭和を知っている」が若年組は高度消費社会(とその残響)しか知らないと見極めてはいるが、この時代相の違いに、社会や制度や人間に関する見立て方の差異が、ひいては人間が変わってきていることへの見立てが違ってくる。吉川はアメリカの社会学者イングルハートを引用して「幼少期から青年期の社会変動の実体験が、それぞれの青年世代に属する人々がもつ価値観を異なるものにしている」と指摘してるから、知らないわけではないのに、そのことに言及しないで、「気持ち」のモンダイに行ってしまった。
つまりこの男女差は、もっと身体の奥深くに宿してきた生物的進化(による「アイデンティティ」)が作用していると考えておかないと、「気持ち」のモンダイに行き着いて終わりになるように思ったのだ。吉川がとりあげているのは、二つの社会学的調査に基づく「分断」状況であるから、その根源をたどらなくても何の不都合もないのだが、イクメンを論題にするフェミニストが、男女平等ということを男女の生物的・生理的差異までないことにしてしまう論議ステージから抜け出せない。もしそれをジェンダー(社会規範からする男女の役割性差)として取り上げようとするなら、「気持ちのモンダイ」というよりは、「家族制度」とか「家庭関係」を縛る法的・社会的な制度のモンダイへ変換していく転換が図られなければならないのではないか。それくらい、大きな男女の差異が現れていると思った。そこへ目を向けないと、政策的な立案へは向かわないのではないか。
気になったことの第二点。
軽学歴のレッグスが、知的力量をもつ良質の労働力として社会のインフラ部分を支え、しかも彼らの心情には「努力主義は失われていない」と「長所」があると指摘して、吉川は、要約次のように述べている。
《実直な努力主義のエートス「大きな資産をもてるようになるかどうかは、本人の努力次第だ」の回答が、レッグスは53.13ポイント、ほかのセグメントを引き離している。女性は男性より運命主義的で資産形成は自分の努力次第だという意見に、最も否定的なのは壮年大卒女性。》
吉川は「ここに、まだ本当の分断社会に至っていない。切り離されようとしている社会集団に、あきらめや敵愾心が一切うかがえない」と希望を託している。吉川がこのように展開することに異論があるわけではないが、ここの部分で気にかかったことが二つある。
(1)若年非大卒男性が「大きな資産をもてるようになるかどうかは、本人の努力次第だ」というのは、「努力主義のエートス」というより、(いま自分がこのようであるのは、頑張らなかったからだよなあ、と)自分を責めている感懐なのではないか。むろんそれも「努力主義のエートス」と言えば言えなくもないが……。レッグスたちも中学や高校までは(いまは)優秀な道を歩いている奴らと同じ教室で机を並べ、彼らの立ち居振る舞いと言説を見聞きしてはいたのだ。だから、「やればできる」という神話を否定することができず、でも自分は「できなかった」と振り返ることしばしばであったに違いない。振り返ったとき(そう言えば自分は努力しなかった)と思い当たるから、反転して、「努力次第」と言っているにすぎないのではなかろうか。ひょっとすると、自分に才能がなかったと認めることはできないから、努力次第という神話にしがみついているともいえる。
「努力次第」に最も否定的という壮年大卒女性は、「努力」に(環境も才能も含む)運否天賦が加わって、人生ってわからないわよね、と思い知るだけの径庭を経てきている。この場合、運否天賦というのは社会構造や国際関係に左右されるいろいろな変動を含めて感知しているということでもある。
(2)「女性は男性より運命主義的」というのは、女性が他家(あるいは男性)に嫁ぐ感覚を残しているからではないか。結婚するというのを、玉の輿に乗ると受け取っているのは女性である。男性は玉の輿の乗ることを社会的関係において期待しない。それを「運命主義的」というのだろうか。これもまた、生物的進化の過程で体に刻んできた感覚を参照してみなければならないのではないか。若年非大卒女性が「幸福感」において若年大卒女性と変わらない高いポイントをあげ、「生活満足」においてもさほど見劣りしていないのは、「若さ」を武器に振る舞って受け容れられているからと考えると、十分理解できる。それが壮年非大卒女性になると(壮年大卒女性と比べ、あるいは若年非大卒女性に比して)極端に「幸福感」も「生活満足」も激減するのも、「若さ」がウリの時期を過ごしているからと考えれば、容易に得心できる。吉川がそのことに気を配らないのは、社会学調査に基づくがゆえであろうが、それを読み取る方は、ないがしろにできない。
ま、このようにモンダイ意識が広がっていくのは、(私にとっては)悪いことではない。気になったことを記し置いて、いずれ想い起すことがあれば、そちらへのニューロンも伸ばしていこうかな、と。
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