2019年11月24日日曜日
岩盤は舗装され尽くすのがいいのか
イラン映画『少女は夜明けに夢を見る』(メヘルダード・オスコウイ監督、2016年)は、哀切であった。ドキュメンタリー映画だ。場面はイランの少女更生施設。放浪、強盗、売春、薬物、殺人といろいろな罪名をもつ少女たちの女子少年院である。
イスラムの戒律厳しいイラン社会で、犯罪に走った彼女たちのバックグラウンドに、撮影者のカメラが迫り、一つ一つ丁寧に解きほぐしていく。義父や叔父にレイプされるが、家族は、イスラムの宗教指導者である叔父がそんなことをするはずがないと考えたり、家の恥をさらすなとして娘の訴えをウソと決めつける。娘は家を出て路上生活に追い込まれ、強盗をする。薬物を買うために娘に売春をさせる父親を殺す。
カメラを冷たく突き放していた彼女たちが、ともに収容されている少女たちのつぶやきに誘われるように罪状をさらけ出し、あっけらかんと家族や世の中への思いを自らの痛みとともに語りだす。更生施設が、彼女たちを拒む世間からの避難所のように描き出される。7年の歳月をかけた取材だという。
更生施設にもイスラムの指導者はやってくる。少女たちは、どうして女は男にしたがい、身をひそめるようにして生きていかなければならないのかと問い質す。イスラムの宗教指導者は絶句し、しばし沈黙し、搾り出すようにしてこう答える。
「でも、世の中が秩序だって静穏であることが大切だと思わないかね。」
そうなんだ。彼女たちは、地中に産み落とされたセミの幼虫だ。漸くにして地表へ這い出してみると、頭上の地面はすでに強固な岩盤に覆われ、それ以上抜け出ることができない。岩盤の上には「秩序だって静穏な」暮らしを営んでいる大勢の人たちがいる。イスラムの教義に覆われた社会においても、世界の人の暮らしの開放的な気配は、広く静かに伝わる。その空気は、幼虫時代を過ごすうちにも彼女たちの胸中に宿り、ヒトとしての叫びとして噴き上がる。
「秩序だって静穏であること」を大切だと思う中に、殻を抜け出したい幼虫の叫びは組み込まれているのか? イスラムの宗教指導者に、その幼虫たちの成長は見えているのか? 中国の一党支配の理念のなかに人間の歩む径庭は推し量られているのか? トランプのエゴセントリックな自己利益優先主義は人類史的な視界に配慮したことはあるのか?
「今日は香港の区議会議員選挙の投票日です」とメディアは伝えている。立てこもる香港の大学生たちもまた、身を覆ってきた殻が単なる保護膜ではなく強い抑圧だと感じて叫び声をあげている。そのやり方が、バリケードを築き、火炎瓶を投げ、石を飛ばして暴力的であっても、それはイランの少女たちの放浪、強盗、売春、薬物、殺人と似たようなことではないのか。強固な岩盤を突き破って世に生まれ出ようとする幼虫の衝動に、岩盤の上にたつ人たちが「秩序だって静穏であることが大切だと思わない?」と応じるってことは、「今の静穏と引き換えに将来の圧政を受け容れろというの?」と問われて、そうだと応えるに等しい。
かつて敗戦直後の日本は、混沌の地面に上に、素足で立っていた。私たち(戦前生まれの後期高齢者)は、その地面の下で命を得て二十年近い幼虫時代を過ごし孵化してきたことを、しみじみと思い出す。それは人類史的な原初の匂い/臭いを強く残していた時代であった。その匂いや手触りの記憶がまだ私たちの身の裡に刻まれている。それを振り返って私は、まことに幸運な時代を過ごしたと感慨無量である。だから香港の大学生たちを謗ることばを知らない。
だが、ふと気が付くと日本の私たちはいま、強固な岩盤の上に暮らしを立てていて、「秩序だって静穏であることを大切だ」と感じている。高度消費社会に生まれ落ちて、すっかり交換経済の掌の上で秩序だって踊り続けることをあたりまえと思うセンスは、その社会システムが独裁的でも専制的でも抑圧的でも構わないという道を選ぶのであろうか。
イランの少女たちの将来、香港の学生たちの明日が、どうなるか。他人事なのに、目が離せない。
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