2019年11月5日火曜日

よみ人知らず


 今日(11/5)の朝日新聞「折々のことば」で《よみ人知らず》が紹介されている。紹介者の鷲田清一は、こう続ける。

 《誰が作者かわからないというより、人から人へ伝わるうちに少しずつ変化し、誰が作者か特定できなったということだと、ブルガリア出身の日本文学者、ツベタナ》

 なるほど、そういわれてみると、その通りだ。

 いつであったか、「防人の歌って、どう書き止められて選者の目に止まり残ったのだろう」と誰かが言い、そうだなあ、文字も広まっていない時代にと言葉を交わしたことがあった。そもそも古事記にしてからが口承だったものを文字として書き留められたのが、今から1200年程前であったことを思うと、防人の歌が残ったのは、口承によるものだろう。それは、私たちが今考えるように、歌を収録することを心掛けた専門家がいたというよりも、一人の防人が歌ったものが、人々の心をうって人から人へと謳われ続けて歌い継がれ、歌い継ぐ人の思いがその都度介在して、その姿を変え、歌集を編纂する人のところへ届くまでに「よみ人知らず」というほどの遍歴を経てきたと思われる。とすると、よみ人が明白な歌よりも、ずうっと世人の膾炙を経て口承されてきた歌であったと思われる。

 その後の文字伝承にしても、和歌だけでなく、日本文学のほとんどのものが、手渡しで書き綴られ、受け継がれてきた。書道が広く行われるのも、そうしたことの名残り。いや、明治に入るころに、日本の庶民の(5割が読み書きができたという)識字率が世界でも有数であったのは、上意下達の公文書さえも、村々に伝えられるときには、各地域の名主などを通じて書き写されて通達された行政手法のもたらしたものということができる。読み書きの仕方が世に広まったのは、学校教育のお蔭というばかりではなかった。読み書きの仕方を受け容れる素地が、「よみ人知らず」の伝承姿勢から受け継がれてきていたということができる。

 そういうわけで、書写する人の書体に変わり、書写する人の読み取り意識が介在して(ひょっとすると)文面も文体も変わって来たところがあると、古文書を読み解く筋の方は話しているから、日本文学よりも、政治すじの通達の方が、よみ人知らずとなったのは早くかつ下々に広まったのかもしれない。もっとも政治的通達は、そもそもがよみ人知らずを旨とする「公」文書ではあった。

 ツベタナが指摘するように読み取ると、そもそも私たちの遣う言葉というものが、そもそも「よみ人知らず」であった。よみ人が特定されることば(作品)というのはもっぱら「名を成す人々」であり、近代になってからは、学者専門家の領分であった。私たち庶民が用いるコトバは、須らくよみ人知らずであり、そのことばが伝える情報の性格すら、百聞の内のわが意を得たりを、わが心のままに味わいを加えて、取捨選択し、取りそろえたものに過ぎない。いわば流言の類である。出処の不分明なものを流言と呼ぶとしても、いまや、世界の最高権力を揮う存在者ですら、気に食わない話をフェイクニューズだと呼んでいることを考えると、最高権力とか政治家というものも、ずいぶんとよみ人知らず的に私たちの身近になったものだ。大衆社会化とは、そういう意味であったか。

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