2019年11月27日水曜日
茫茫の藝藝(3)経験と見聞の埒外に出られるか
「ささらほうさら」のmsokさんの「‘小説.’中間報告」に触発された話をつづけます。msokさんが「一生に一度書きたい」という時代小説が自叙伝であるというのには、ワケがあります。msokさん自身が、その創作について、次のように述べています。
《…今さっき小説は虚構の世界と言いましたが、私の場合、じっさいに書いてみてどうしても自分の経験したり見聞したりしたことを越えての仮構世界を構築し得ないことをつくづく思い知らされています。経験と見聞の埒外に出ることができないのです。どうしても自分がこれまで履んできた人生軌跡にいかさま囚われている己の筆致を見て思わず苦笑し、やがては憫笑するほどにそうなのです。創作能力が殆どないのではないかとさえ思います》
人の創作には、それぞれに得意技というものがあるようには思います。しかし、荒唐無稽な創作と言えども、作家本人の経験と見聞に原基をもたないことはないのではないかと私は考えています。例えば作家のほとんど妄想と思われる思念やその中で動き回る登場人物でさえ、ご本人が気づかないうちに身に備えたモノゴトが起点になっています。もしそれがなかったら、作家は読者を想定して登場人物を(神のような目でみながら)操作しているつもりでしょうが、読者の目にはウソっぽく感じられてしまうに違いありません。
なによりもmsokさんは「稗史小説」を標榜するだけあって、世の中の俗な語り、市井のぼやき、噂と嘆き、ときには聊斎志異にみるような風説書を志しているのです。彼は、2003年にドキュメンタリー・タッチの作品で埼玉文藝賞の準賞を受賞しています。2017/7/18のこの欄で私はこう記しています。
《さて、文筆の人、エクリチュールの噺家・msokさんは2003年に、埼玉文芸賞の準賞を受賞している。いまはリリアホールなどが立ち並んで、すっかりどこにでもある近代的な駅前になってしまった川口駅西口の昔日の光景に身を置いて、子どものころの混沌を生きる世界をメルヘン的に描き出した『キューポランド・チルドレン』が、「エッセイ部門」の賞を得たのであった。この作品、メルヘン的というのは、読み終わって十四年経って想い起した私の「印象」。》
msokさんの幼少期の原風景を活写した作品が、読む者の(敗戦後の)原点を思い起こさせ、そのなかで生育った子ども時代のわが身の闊達であった息吹がどこに行ったのかと振り返させる力を湛えていたのでした。「メルヘン的」という2年半前の思い返しをちょっと引っ込めたくなりますね。msokさんは、こう続けます。
《自分が一番の得意にしているのは小中学生以来遠足の作文でした。他の生徒は皆嫌がっていましたが、私は逆。喜んで書いていましたっけが、爾後その遠足の作文風、適当な脚色を加えながら事実も羅列的に書いていく筆風が時を経て習い性になり、学生時代は勿論卒業後も人も驚くほどに長続きしたクラス文集や社会に出てから融資で発刊しつづけた異議あり!紙等々にもその癖風で記述していたことはご存知の通りでせう。さればこの小説も件の遠足の作文の延長戦にあると言っても過言ではありません》
と「自白」していますから、時代小説の体を採った自伝的稗史小説、つまり自叙伝と言っていいようです。「読み手に訴える何ものもない……風のような読み物」というのは、世のシタッパとして生きてきたmsokさんの人生の自己認識ではありますが、これを自虐的と読み取ってはならない。人が生きるということは、基本的に価値的に評価する/しないという次元を軽々と越えて、吹きすぎてゆくようなもの。「行雲流水」だとみてとっている視線があります。それは人生を、遠近法的消失点から見返して、世界に位置づけるときに生まれてくる視線です。
さらに私などが読み取ると、反転して、今の時代批判や文明批評を読み取りたいと思ってしまいます。ヒトが生きるということには、根底的に外すことができない立ち居振る舞いがある。それは、生計を得るために働き、空腹を満たすために自ら食材を調理し、居ずまいを調えていく。その文化を受け継いでいくこと以上にヒトがなすべきことはないのに、今の時代はその立ち居振る舞いを交換によって手に入れることに終始して、わが身の始末を忘れている、と。今風の文化の流れに、単に馴染めないというだけでなく、それをも交換によって取引する暮らしの在り様に、ヒトとしての欠落をみてとっているように思います。
「読み手に訴える何ものもない……風のような読み物」の文体についても、msokさんは言及していますが、それはまた次回ということにしましょう。(つづく)
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