2019年11月16日土曜日

にんげんを組み込む考え方


 台風による水害の始末が長引いている。昔1970年の頃、田中正造のことを調べていたとき、かつて渡良瀬流域に位置していた谷中村が「洪水とともに暮らしていた」という記述を読んで、自然観に思いを致したことを、いま思い出す。「洪水とともに」というのは、渡良瀬川のもたらす洪水は厄介な災厄であったから、家を建てるのを高台にし家の壁には舟をつるしおくような暮らしであったこと。反面、洪水は上流から肥沃な土壌を運び、耕作して痩せた大地を潤すことを言祝いでいたということであった。自然とともに、そこに溶け込んで暮らしを立てるというのは、そのようなことだった。それが、足尾の鉱毒によってすっかり暮らしが成り立ちゆかぬようになり、ついに谷中村は廃村になったのであった。今は広大な渡良瀬遊水地になっている。


 水の流れを人工的につくり変えて制御したつもりが、逆に人の住まいを囲い込み、ひとたび堤防が壊れたときには逆に水が引かない生活区域になってしまうという、近代社会の暮らし方がもたらした逆説。それを現在の水害が象徴している。「治水事業が重ねられ、気象庁も特別警報を出し……にも拘わらず犠牲者が出た。どうすればいいのか」と、11/12付けの朝日新聞が「水害大国に生きる」と3人の見識を披歴している。長野市の住民自治協議会の会長は「共助を支えるコミュニティを維持したい」といい、日本水フォーラム代表理事は「百年先を見据えた治水」に取り組めと見識をを語っているが、いずれも行政施策の立案者目線で、つまらない。

 ただ残る一人、探検家・作家の角幡唯介の「命守る判断委ねず自分で」という指摘が、時代批判としてきらりと光った。

 NHKの報道が「命を守る行動をとってください」と繰り返していたことが無意味とは言わないが、そこには自らの命をどう、いつ守るかという判断まで、マスメディア(あるいは行政機関)に預けている人の姿が浮き彫りになっている、と指摘する。迅速できめ細やかな気象観測とその広報、行政が準備万端整えて災害に備え避難勧告、避難指示と団塊を設けて警報を発し、高齢者等の避難民への対処にも応ずる。人々はそれに身を預けてすっかり安心して暮らしていくことができるという社会システム。あるいは、カーナビに象徴される技術改良に依存することで、人々は方向感覚も、記憶も、自らがどこにどんな状態で位置しているかも気に掛けずに暮らしている、それらを全面肯定する暮らしの現実。つまり人命第一とする「生政治」と呼ばれる時代に入っていることが、「にんげん」を変えていっている「懸念」をつつましやかに表明している。これは見事な文明批判であるとともに、今の暮らしを満喫している私たちへの人間批判である。

 「つつましやか」といったのは、角幡が最後にこう書いているからだ。

《細かい表現にこだわるのは、こうした言葉遣いへの慣れが、人間の意識や感覚を自分以外に委ねる流れを加速させかねないと思うからです》

 政治家は言うまでもなく、マスメディアも世の評論家や学者までも、その多くは統治者目線でものをいう。それが(それに適応して暮らすのを恒とする)人々の「にんげん」を変えていっていることに頓着していない。高度消費社会に適応しても、まだ戦中生まれ戦後育ちの高齢者は、どこか居心地の悪さを感じ、ふとわが身の丈を振り返るような感触を味わっているが、生まれ落ちて以来ずうっと高度消費社会に馴染んできた人たちは、すでにすっかり「にんげん」が違っているのではないか。そのことへ及ぶ視線は、じつは「にんげん」の原点をつねに保ち続けるところから生まれる。神道かどうかは抜きにしても、伊勢神宮のありようが私たちにもたらす衝迫力は、その原点を思い起こさせること、逆にみると、現存在のわたしたちに対する具体的な批判であることにあるのではないか。

 探検家である角幡にして、そのような視線を提示できたのであろうと思う。つまり私たちは「にんげん」を組み込んでものごとを考える視線を、日々の喧騒の中で忘れている。そこを忘れるなよ、といろいろな局面で言い続けることこそ、人としての文化の伝承ではないかと思った。

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