2020年4月28日火曜日

自粛要請を強制にしていいのか


 新型コロナウィルスの感染防止のために「外出や営業自粛」を都道府県の首長が「要請」しているが、それに従わない業者がいるというので、「店名を公開」したりしています「店名公開」が逆にその店の宣伝になっているとある芸能人が発言して、首長と延長戦のやり取りがあったりします。どう考えたらいいのかと、思っています。
 「店名の公開」は「要請」に従わない、たぶん社会的な「おしおき」を期待しているつもりなんでしょう。強制権力をもたない首長のせめてもの「圧力」でしょうから、致し方ないことと思います。また従わない店にしたら、「背に腹は代えられない」と考えての「確信犯」なのでしょうから、別に社会的な「おしおき」を非難する理由もないでしょう。

2020年4月27日月曜日

機能不全?の地方行政府


 新型コロナの陽性者で自宅待機していた二人が死亡した埼玉県。知事の会見もちょっとだけ報道され、かえって、県は何をしているんだろうと普請が増した。報道はまず、首都圏としてひとくくりにするから、日頃、埼玉県の首長が都知事のように発信している姿を見かけない。
 ところが会見で、二人の自宅待機者の死亡が確認されたことから、ホテルなどを借りて陽性者の収容ができるように検討すると知事は説明する。なるほどと思っていたら、なんと、一人の死亡は、もう一人の死亡の十日も前ではないか。ならばなぜ、その十日間の間に、ホテル収用などの手配ができなかったのか。東京都や神奈川県はとっくに、ホテル借用の準備に取り掛かっていたのに。しかし、記者会見でそれを問う質問が出たのか出ないのかわからないうちに、TVの話題は次へ移ってしまう。

2020年4月26日日曜日

言葉にならない「おもい」は、何処へ行くのか


 去年の4/22から5/3にかけて、このブログで、「言語以前と言語以後の世界」とタイトルを振って、4回にわたって思いを綴っている。その十日ほどの間に、山にも行き、「令和」に変わったお祭り騒ぎを「天皇制の劇場化」とみてとったり、大澤真幸の雑誌に載ったエッセイを引いて、日本人の無意識の根っこにある「天皇制と民主主義」について考えたり、読んだ本の感想を書いたり、5本のエッセイを記している。
 それらを読み返して想うのだが、わずか一年の間に、私の言葉になるのかならないのかわからない領域の「おもい」が、増えたように思う。言葉にするほど「おもい」が固まらないのか、そうするのが面倒なのかも、わからない。なんとなく、ぼんやりと「何か」が胸中を漂い、口をついて出る言葉はなんとも「つまらない」。その「何か」がなんであるかをとことん探究しようという気力も薄れている。
「混沌の海から(何かを手掛かりに)引きずり出してみたところ」で「ことば」になる。その「何か」は、誰かの本を読んでいるときに出くわした(よくわけのわからないこと)(でも、何かしら大切なことを言っている感触は感じる)違和感というよりも、「わたしにはわからない(とわかる)こと」。ああ、若いときにもっとそのたぐいの本を読んでいれば触れたかもしれない「世界」が、渺渺と広がっていることだけは感じとれるような感触。

2020年4月25日土曜日

夏鳥がやってきた


 カミサンの鳥友から「ケリが来ていると情報が入った。「どこ?」と問い返す。すると「野孫」と返信が来る。「どこだ? 野孫って」と重ねて問うと「あなたんちから20分くらい」につづけて、「国道○号線の××から信号三つ目・釣上を左折、信号一つ目・ファミマがあったを右折。そこから600mほど先小川にフェンスの手前を右折資材置き場のあたりを歩く」と丁寧なコメント。
 パソコンで「野孫」を調べる。土地勘がないと、車で行っても小路に入って迷うことが多い。去年友人が遺産として受け継いだ墓所のある明神宮の近くだとわかる。「釣上」も調べる。地図には「釣上(かぎあげ)」と仮名を振っている。「鉤」か「鈎」の間違いじゃないかと思った。今朝、早速行ってみた。「かぎあげ」の信号に表示されていた漢字は「釣上」であった。
 川の向こう、まだ水を張っていない田圃のなかに5人ほどのカメラマンがいたので、一発で分かる。巣があるらしく、オスが鳴くのと離れたところにメスがいて、ときどき声を上げる。カメラマンを警戒しているのだ。とするともう抱卵がはじまっているのだろうか。
 と、背中の方からも鳴き声が聞こえる。川のこちら側の田圃の畔にも一羽いて、その視線の先にもう一羽がいる。鳴き声で縄張りを主張しているのかもしれない。まもなく5月だから、田圃に水を張るようになる。田植えが始まる。畔に巣をつくっていたりすると、子育てが大変だ。そう言えば、擬態をするというのはケリではなかったか。いかにも怪我をしているかのように振る舞って、「敵」の目を引きつけ、巣や雛から引きはがそうとする。ここにいるぺアたちは、この先しばらくは、落ち着かない日々を過ごしそうだ。

2020年4月24日金曜日

暮らしの6割をオンラインで


 昨日(4/23)の新聞に、コロナ対策の「専門家会議が提唱する10のポイント」が掲載された。10項目のうち6項目がネットを利用するもの。「通販で買い物」、「在宅勤務」、「遠隔診療」などのほか、「筋トレやヨガは動画を利用」とあり、そのほかに「オンライン帰省」とか「オンライン飲み会」といった、ほとんどジョークかと思うものまである。
 のこり4つは、「マスクをつけ」「飲食は持ち帰りか宅配」「スーパーは一人で」と「ジョギングは少人数で空いた時間に」だ。最後のジョギングは散歩と言い換えてもいいだろう。要は、人との間をとって暮らせということ。文字を想いうかべて言うと、「人間」の「間」をとって「人」として生きていけということのようだ。「間」をとると「ま」がもたない人が出来する。その人たちは県境を越境して、営業を自粛していない遊び場にたむろする。遊びたいからというより屯していないと不安だからそうていると考えると、そうそう簡単に「人間」をやめられないということか。

2020年4月23日木曜日

統治のぐらつきに社会の補正という民主主義


 「感染経路不明」が日々の感染者数の半数を超えて、もうずいぶんになる。不審死を調べたら「コロナウィルス感染」による死者だったことが、相次いでわかった。PCR検査を抑えて「発症数」を低減させているのではないか。
 もはやクラスター対策ではなく、社会全体に感染が広がっているとみて全数検査に踏み切るべきではないか。でも専門家会議も政府も、口先ばかりで具体的に「効果」が現れてこない。それでて、「外出自粛」「営業自粛」ばかり。
 結局自治体がそれぞれに判断し、限られた権限しかないから(自粛要請しかできない)と断ることによって、かえって住民の「自粛協力」を得ているという状況が、はっきりしてきた。これって、政府という統治者の、腰の定まらないぐらつきに、社会が「補正」を行っていると言えないか。
 地方自治体も、国家と社会という対比でいえば(仕組みとしては国家の側の期間なのだが)、結局のところ、社会の側に着きつつあると人びとの需要感覚が作用していると思われる。一概に言えないのは、地方自治体のスタンスによって、相変わらず「お上」として(何を根拠に、どう方向を定めて)「対策」をとっているのか(いないのか)わからないということも、だんだんはっきりしつつある。
 今朝のニュースで耳にしたのだが、ラクテンが「抗体検査」のキットを市販提供できるようになったという。また、ニューヨークでは「抗体検査」をすれば、外出して感染しても大丈夫かどうかがわかるということから、「抗体検査」を受けようと人が殺到しているとも報道があった。イギリスでは「ウィルス感染の抗体検査証」を発行して、外出していい人とそうでない人の「免許証」を発行しようという話があるというニュースもあった。これらの動きも、状況とすすむ方向とがわからないことに不安を感じている人々が、企業や医師会などの提供する「機会」を使って統治者の「いい加減さ/あいまいさ」を勝手に「補正」している姿である。

2020年4月22日水曜日

山も、しばらく、あきらめるか


 このところ雨と晴れとが交互にやってくる。
 今日も秋ヶ瀬公園を歩いたが、森の場所によっては水が溜まり、先へ進めない。一昨日の雨の量が多かったからだ。歩けるところはぬかるむところもある。昨年秋の台風19号で荒川の河川敷も水没した。その時大量の土砂と倒木が流れ寄せて来たために、秋ヶ瀬公園は長く立入禁止になり、いまでも車の駐車場には掻き集められた流木や土砂が寄せ集められて積み上げられている。それでも4月上旬はテニスコートの駐車場は空いていたのに、「緊急事態宣言」以来、公園の入り口が閉ざされ、車は完全にはいれなくなった。歩く人も少なく、静かな散策が楽しめる。
 冬鳥も旅立ってしまっているのか、森は静かだ。留鳥も、いまはペアリングを済ませ、巣作りの準備に忙しないから、鳴き声はあまりたてない。ウグイスの警戒音がひびく。おや、発ち遅れたのか、シメが2羽目に止まった。ツグミが旅立ちの前の「集合」を待っているのか、ずいぶんたくさん地面に降りている。
 それでも、オオルリをみたり、コマドリの声を聴いて、えっ、こんなに早く来てるの? と思ったりしたし、レンリソウとかチョウジソウという、いつもなら連休を過ぎる頃に見ごろになる花が、すでに開いているのをみつけた。かと思うと、サクラソウがまだ元気がよく、シロバナサクラソウが鮮やかに花開いて周りの緑の草草の中で異彩を放つ。良かったねえと、今日の散歩を喜んで帰ってきた。

2020年4月21日火曜日

季節の移ろいの社会的距離感


 「社会的距離(ソシアルディスタンス)」というのが何を意味しているか、よくわからない。「三蜜」を避ける(人との)適度な距離と思っていたから、「外出自粛」といっても、散歩は構わないと考えて、見沼田んぼを歩くようにしていた。だが報道をみると、海や野外で遊ぶ人たちを画面にとらえて、こんなに「外出している」と非難がましい。サーフィンをする人たちがいつもより集まってしまって密集になるというのなら、非難するのもよくわかる。だが、余所へ行って遊ぼうとする人たちを「三蜜」のように扱うのは、違うんじゃないか。それとも私の知らない「感染」の秘密があるのだろうか。

2020年4月20日月曜日

街に出て、自然に暮らそう(急)


 上記の「気鋭の研究者」が歩いた暮らしの「王道」こそ、高度消費社会がもたらした恩恵でした。だがそれと引き換えに私たち(の子どもたち)は、「暮らしの基本」を損なってしまっていたのです。それはたぶん、いまコロナウィルス禍によって就職が白紙になって途方に暮れている若い人たちも、同じように損なわれて育った世代と思います。
 「年寄りが分かったふうに言うのは気が引ける」のは、じつは私たち自身も、半世紀の暮らしの変化進展のなかで、「基本が損なわれている」ことを感じているからです。私は野良仕事ができません。畑を耕したり魚介を獲ったり、獣を解体するような作業は出来なくなっています。もちろんやり方さえわかれば丹念な手順を経て執り行える作業なのでしょうが、そういう作業に身体がついて行かなくなっているのです。
 とどうじにその「暮らしの基本」を含む身のこなしは、どこかで備わってきた覚えのあることです。戦中生まれ戦後育ちの私たち世代にとっては、幼少時の身に刻まれた記憶です。ただ、自ら取り仕切るほどの技術に高められていることではありませんから、いまとなってはノスタルジーにしかならないのですが、身の裡のどこかで「それが(おまえさんの)原点だよ」と囁く声も響いてきます。
 気が引けながら、だが、若い人たちに思い切って言いましょう。
 街を出て、自然に暮らそう、と。

街に出て、自然に暮らそう(破)


***生きていくということ、2019-04-19
 昨日(4/18)の朝日新聞社会面の記事は、切ないものであった。「気鋭の研究者 努力の果てに」と見出しを付けた7段抜き。将来を嘱望された日本思想史の研究者が、経済的な苦境から抜け出そうと結婚し、しかしそれが破たんして、命を絶ったというもの。2年前、43歳であったという。

街を出て、自然に暮らそう(序)


 新型コロナウィルスの収束が収まるのに数年かかるという。また、そのコロナウィルスの感染の波は、繰り返しやってくると見込まれている。今は緊急事態時だから「三蜜」を避けて静かに暮らすというのでいいかもしれないが、いずれ落ち着いたとき、これまでの暮らし方でやっていけるかどうかわからないというのが疫学専門家の見立てだ。
 しかも今年、就職が決まっていたのに採用が見送られた人が多数輩出した。来年以降の採用が行われるかどうか、企業の方も見通しを立てにくくて困っている。就職してこれからの人生を築いていこうとしていた若者たちにとっては、がっかりするだけでなく茫然自失の状態というのも、納得できる。

2020年4月18日土曜日

「信頼」の根拠


 一昨日の《コロナ対策の「民間チェック方法」》には「反応」がありました。むろん知り合いからですが。「早速朝起きて、外に出てやってみました。私はまだ大丈夫でした」と添えてあります。また別の友人からは、「元阪大総長の平野俊夫氏の纏められたもの」という《なぜCOVID-19はこれほど恐れられているか?》が添付されてきました。私の「民間チェック法」というのでは心もとないと思ったのかもしれません。ただみなさん、この先の行く末も含めて新型コロナウィルスの正体がつかめないことに不安を抱き、関心を持っていることがわかります。

2020年4月16日木曜日

コロナ対策の「民間チェック方法」


 私の友人から「コロナ対策」の方法というメールが送られてきた。この方は、現役時代には世界各地を飛び回って仕事をしてきた。現在78歳。

***まえせつ

一人では家の中でストレッチする気がしません。もう毎日が退屈です。
知人から感染症にかからない対処法メールが届きました。台湾の専門家の素性は不明ですが、方法には害はなさそうなので、興味があれば実行してみてください。  N

***コロナウィルス対策

 新型ウィルスは、感染して何日も症状がでない場合がある。自身が感染したかどうか、どう分かるか。咳と熱の症状が出て病院に行った時は大体50%は肺が繊維化していると考えられる。即ち、症状が出て受診すると遅れるケースが多い。
  台湾の専門家は、毎朝自身でチェックできる簡単な診療を提示している。深く息を吸って、10秒我慢する。咳が出たり、息切れる等すごく不便なことがなければ、肺が繊維状になっていない。即ち感染していない。
(注、新型コロナで悪化すると、肺胞の組織が線維化して固くなっていくようだ)。
  現在、既に大変な事態になっているので、毎朝良い空気を吸いながら自己診断する。常に口と喉を濡らして、絶対に乾燥した状態におかないこと。15分ごとに水を一口飲むのが良いそうだ。ウィルスが口に入ったとしても、水やその他の飲み物によって、食道から胃に入ってしまえば、胃酸によりウィルスは死んでしまう。水分をよくとらない場合、ウィルスが気管支から肺に侵入してしまうので、とても危ない。
***

 私はすぐに信用しましたね。どうしてだろう。
(1)まず、「台湾由来」ということ。
(2)「10秒チェック」というのが、害がなく「線維化する」という専門用語が何となく信憑性をもっている。
(3)口中を湿らせておくというのは、説得力がある。
 これだけですが、「民間チェック方法」として、いいんじゃないですか。しかも送信元の友人のコメント、「方法に害はなさそう」というのが、何よりいいですね。
 すぐに、「やってみます」と返信しました。

2020年4月15日水曜日

春うらら お昼を過ぎると 初夏の風


 今日は風もなく穏やか。陽ざしに誘われて見沼田んぼの北の方がどうなっているか見に行った。東縁の用水路沿い。「みどりのヘルシーロード」と名がつけられ、利根大橋から川口に至る54kmもの遊歩道が設えられてある。見沼自然公園までは先月歩いているから、その先を行けるところまで行ってみようというわけ。といってもぶらぶら歩いて見沼自然公園までの往復で4時間以上使ったから、さっさと歩いても、2時間はかかる。そこから片道2時間も進むと、片道4時間とあってはちょっと帰ってくるのがしんどくなる。そういうわけで、見沼自然公園までは車で行き、そこの駐車場から北へと歩き始めた。

2020年4月14日火曜日

自分の実感だけでは「世界」はみえない


 昨日のこの欄の「どこが不条理なのか?」について、身の裡からこんな声が聞こえてきた。「腑に落ちる/落ちない」というのは、自分のみている「せかい」をみている。自分の(感じる)合理性というのを自分が見ている「せかい」にだけ当てはめてみれば、「せかい」は不条理には見えない。昨日の記述でいえば、橋下徹がいう「強制力の発動」は「通底している共感性」をベースにしていると(私は)みているが、その共感性が通底していない人たちもいることが、「近代市民社会」の出立点。つまり、昨日の感懐は、仲間内だけの倫理性を土台にしてるから「不条理はどこに?」という結論に至る、と。
 橋下徹は近代市民社会を前提にしているから、感染爆発を防ごうとするなら強制力の発動をするしかないと考えている。彼が指摘するモンダイのベースは、むろん統治者目線であるが、政府として何をなすべきかを考えている。それに対しておまえさんは、政府に期待していないという。だから政府もまた、おまえさんと同じで「国民はそれぞれに自分の身を守っていきなさいよ。政府は補償はしませんから、自己責任で」といっているわけだ。つまり、いかにもおまえさんの政府らしいではないか。それでいいのか? それは不条理ではないのか?

2020年4月13日月曜日

どこが不条理なのか?


 「日本はまだコロナを侮っている、欧州では完全に戦争」とイギリスに住む元国連職員の谷本真由美が、イギリスやヨーロッパの状況を報告しながら警告している(2020/04/12、JBpress)。報道を見ていると、海外の「外出禁止」のやり方と日本の「自粛」の差は、歴然としている。橋下徹は「非常事態宣言を出して法的措置を取るというのなら、強制力の発動を行うようなことをなすべきで、自粛を呼び掛けるなどというようなことなら、特措法に拠らなくてもできることだ」と政府の処置を批判している。その通りだと思う。だが、それ以上に、新型コロナウィルスに感染しないための私などの受け止め方が緩いのか、どこが緩いのかわからなくて困っている。

2020年4月12日日曜日

ちゃらんぽらんに耐える「能力」


 今日(4/12)の朝日新聞の文化文芸欄に帚木蓬制生(精神科医・作家)の言葉が紹介されている。「結論急がず 悩みに耐える」と主見出しにあり、袖に《「ネガティヴ・ケイパビリティ」のススメ》と振っている。
(1)能力(ケイパビリティ)は役立つ才覚や才能を指すが、結論を急がず持ち応える力(ネガティブ・ケイパビリティ)も大切。
(2)人はわかりたいという癖をもつ。わからないことに耐え、悩むことが知性。
(3)周りは、直観で早急な結論を求めず、宙ぶらりんを非難せず、寛容に。
 として、「正解のない人生を生き抜く力がネガティブ・ケイパビリティ」と語っている。

2020年4月11日土曜日

ゆめまぼろしの「人生百年時代」


 7年続いたSeminarをまとめた「うちらぁの人生 わいらぁの時代」のデザイン編集が(たぶん)続いている。その「あとがき」の原稿は3月初旬に送っていたのだが、その後の「事態の変化」もあって、書き換えねばならなくなった。いや、書き換えるよりは、追加して書き加えた方が「状況」がよくわかるのではないかと考え、手直しをした。
 その結果、以下のようになった。

2020年4月10日金曜日

末弟の七回忌


 末弟のJがなくなって昨日(4/9)で6年、七回忌ということになります。今年は、やはり同じ年に亡くなった母と長兄の七回忌を一緒にやろうということになっていますから、特に何かをするわけではありませんが、ときの経つのは早いものだと、改めて感じています。
 Jも、まさか6年経って、世の中にこんなこと(新型コロナ禍)が起こっているとは思いもしなかったでしょうね。「外出禁止」ともなると、神田猿楽町の事務所に閉じこもって、家にも帰らず仕事一筋に邁進しているかもしれません。あるいは、彼お得意のアウトドアの時節が来たと、テントを担いで四万十川にでも出かけているでしょうか。学校が閉鎖されて行き場のなくなった子どもたちが感染を心配することなく過ごせる場を設けようと画策しているかもしれません。たいへんに困難な状況に陥っても、いつでも前向きであったJの気分が、甦って来るようです。

2020年4月9日木曜日

山が笑っていた、奥多摩・臼杵山


 一昨日(4/7)は山の会の月例登山のひとつ、「戸倉三山」の二山、市道山(いちみちやま)795mと臼杵山842mを歩いた。例のコロナの「感染経路不明」多発で、公共交通機関が使えないから、車でアプローチする。一緒に行くkwmさんkwrさんも車で来るから、下山口に一台置いて、登山口に向かう。
 奥多摩というが、その南辺。「高尾・陣馬」領域の北辺である。
 武蔵五日市駅から数馬の方へ5キロほど入ったところに下山口がある。登山口は檜原村になるが、さらにそこから5キロほど奥へ入る。戸倉という地名は、武蔵五日市駅に近いところにあり、三山のもう一つ仮寄山687mと三つの山が取り囲む渓が、戸倉に流れ下っていることから、そう呼ばれるようになったのであろう。まあいわば、里山である。

2020年4月8日水曜日

「緊急事態宣言」にどう適応するか


 政府が「緊急事態宣言」をしたが、これまでの「外出自粛要請」とどう違うのか、いまひとつわからない。関係各都府県の首長に「規制」に乗り出す法的根拠を与えたというのは、わかる。だがその「規制」の中身が「あいまい」なままだから、各地方自治体の首長が発出する「規制」あるいは「要請」をみなければ、なにがどう、私たちの振る舞いに関わって来るか、判断できない。

2020年4月6日月曜日

テレ・ミーティング


 いよいよ私の団地にも、新型コロナの脅威が押し寄せてきたようです。感染者が発生したわけではありません。ただ居住者には、現役の勤め人が多数います。
 彼らは毎日東京へも出かけて仕事をし帰宅する、往来を繰り返しています。その彼らが「ウィルス」を持ち帰らないと想定する理由はありません。
 毎月開かれる理事会や修繕専門委員会は、狭い部屋に十数人が集まって、まさに、密室、密集、密接の「三蜜」です。理事会は、メール、あるいは文書を通し、時間をかけて行うということになりました。それに伴い、私の所属する修繕専門委員会も、同様の処置をとることにしました。「テレ・ミーティング」というわけです。

2020年4月5日日曜日

高齢者の山の会、8年


 私の主宰する山の会が満8年を終え、9年目に突入した。新型コロナの外出禁止の呼びかけはあるが、公共交通機関を使わず登山口までのアプローチを行って、上って帰ってくるのなら構わないだろうと、3月も2回実施。4月も2回予定している。会員企画のお花見山行1回は公共交通機関を使わないわけにはいかなくて中止にしたが。元気に野外活動を行うのは、健康維持のための散歩と同じってわけだ。

2020年4月4日土曜日

分解が進む「わたし」か


  このところよく身体を動かしている。外出しないようにという呼びかけに反撥しているからではない。公共交通機関をつかえなくなったカミサンが、ご近所のサクラを観て歩くのに、つきあう。ついでに鳥を観て植物観察をするのに、話し相手がいると張り合いがあるからであろう、私がつきあう。つきあっていて一つ分かったこと。カミサンが植物の名前をしっかりとわかるのは、日々繰り返し目に入る「雑草」や「雑木」や「鳥」の名前を自分に言い聞かせながら再生しているからだ。その再生のヴォイスレシーバに、いま私がなっているということ。だが、ご近所をおおむね歩きつくした。

2020年4月2日木曜日

新型コロナ世界のもたらす「新しい中世」


 新型コロナが広がって世界は委縮している。この事態が長引けば、経済成長率とか事業収入なんてことなど論外。まずは暮らしに必要なものが手に入るかどうかと心配しなければならなくなった。
 そうなってみて考えてみると、私たちの今の暮らしがいかに浮足立っているかが、よくわかる。フリーのミュージシャンやアーティスト、エンターテイナーが困っていると聞くと、つい「アリとキリギリス」の話を思い出してしまう。藝術や文化というのは、暮らしの基本にとっては余剰。つまり現代先進国の都会生活をしている私たちは、それ自体が「キリギリス」なのだ。

2020年4月1日水曜日

為政者のありうべきかたち


 新型コロナへの対応は何につけ、はじめてのことだから、政府の首脳もいろいろと知恵を絞らなければならないので、たいへんであろうと思う。だが、「わからない」ことへの対応をしなければならないのなら、「わからない」ということをさらけ出すことが大切なのではないか。
 今の首相は、2/27の「全国小中校一斉休校」を提起したとき、「政治的決断を私がした」ということを示したいがためにか、その「決断」の根拠を明らかにしようとしなかった。そればかりか後に、「専門家の意見を聞かなかった」ことを当然のように言明した。バカだなあと、私は受け止めた。