2020年4月13日月曜日
どこが不条理なのか?
「日本はまだコロナを侮っている、欧州では完全に戦争」とイギリスに住む元国連職員の谷本真由美が、イギリスやヨーロッパの状況を報告しながら警告している(2020/04/12、JBpress)。報道を見ていると、海外の「外出禁止」のやり方と日本の「自粛」の差は、歴然としている。橋下徹は「非常事態宣言を出して法的措置を取るというのなら、強制力の発動を行うようなことをなすべきで、自粛を呼び掛けるなどというようなことなら、特措法に拠らなくてもできることだ」と政府の処置を批判している。その通りだと思う。だが、それ以上に、新型コロナウィルスに感染しないための私などの受け止め方が緩いのか、どこが緩いのかわからなくて困っている。
(1)自分が感染しているとみて、他人に染さないためにどう振る舞ったらいいか考えて行動する。
(2)買い物に行ったときには「社会的距離」を取り、店の出入りに際して手洗い・消毒をする。
(3)山へ行くのは車を使う。山仲間と一緒のときは、登山口で落ち合って下山口で解散する。
(4)上記以外の人との接触は(基本的に)行っていない。
「感染経路不明」というのを「公共交通機関を利用しない」というだけでなく、居住しているご近所の人たちも「感染している」と想定して向き合えということなのだろうと思う。でもそれは、密閉、密集、密接の「三蜜」を守るだけではだめなのだろうか「手洗い」を励行するだけではダメなのか。これを「第三次大戦という戦争状態」とヨーロッパの人たちのように受け止めるのは、無理がある。
大都会の街中で暮らす人たちからすれば、山へ出かける私のようなセンスはもてないだろうから、閉じこもる以外に術がないともいえる。その違いなのだろうか。それとも、日本ではコロナ感染検査を抑制しているから、多数の検査をして感染の広がりが目に見えるヨーロッパ人たちと「実感」に違いが出ているのだろうか。
北海道に住む私の友人からアルベール・カミュの『ペスト』を読んだという感想が送られてきた。「不条理に向き合う実存主義」と懐かしいフレーズが記されていた。でも今私は、新型コロナウィルスの伝播が「不条理」とは思っていない。感染性のウィルスがいることは不条理というより、ありうべきこと。その上、市場におけるヒト・モノ・カネの行き来が地球規模で行われていることを思えば、伝播を媒介しているのが人の暮らしという日常活動だから、今回の広がりは蓋然性がある。どこに「不条理」があろうかと思う。たとえ今後「感染爆発」が身近に発生しても、あるいは何がしかの経路をたどって私が感染することになっても、私はそれを不条理とは受け止めない。私の感覚が狂っているのだろうか。それともカミュの時代よりもはるかに科学的な探究がすすんでいるということなのだろうか。
橋下徹がいうような「法的措置」を私は欲していない。もともと政府に期待していないから、わが身は自分で守るほかにないと思っている。商売をやっている人はたいへんであろう。「休業要請」を受けるかどうか、社会的には必要なコトを身を切って行わねばならないというのは、自律的に振る舞うということだ。その倫理的振舞いのベースに、ともに暮らしているものとしての「共感性」が通底している。日本人としてとか、人類としてという大きな構えではないが、その共感性の広がる範囲が、「わたしのせかい」とも言える。だから「わたしのせかい」は、時と場合によって伸び縮みしているわけだ。
もしこれで水道や電気という暮らし向きのインフラがストップするようなことにでもなれば「不条理」と感じるだろうか。インフラがストップするメカニズムのどこで、どのような支障が発生したとわかれば、「医療崩壊」同様、「インフラ崩壊」として理解してしまうに違いない。つまり、合理的に判断し振る舞っている範囲の生じていることととらえている。政治家の振る舞いや戦争へ突入していく熱情とか狂気の方がはるかに「理不尽」と思う。トランプのそれとても、ミー・ファーストの経済的利得がベースと考えると、腑に落ちてしまうが。
なぜかわからないが、ヨーロッパの人たちの受け止め方と私のそれとの違いが、気になって仕方がない。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿