2020年4月20日月曜日
街を出て、自然に暮らそう(序)
新型コロナウィルスの収束が収まるのに数年かかるという。また、そのコロナウィルスの感染の波は、繰り返しやってくると見込まれている。今は緊急事態時だから「三蜜」を避けて静かに暮らすというのでいいかもしれないが、いずれ落ち着いたとき、これまでの暮らし方でやっていけるかどうかわからないというのが疫学専門家の見立てだ。
しかも今年、就職が決まっていたのに採用が見送られた人が多数輩出した。来年以降の採用が行われるかどうか、企業の方も見通しを立てにくくて困っている。就職してこれからの人生を築いていこうとしていた若者たちにとっては、がっかりするだけでなく茫然自失の状態というのも、納得できる。
いきなり話を将来像にもっていかないで、現在地点から順々に道筋を辿ろうか。
新型コロナウィルスに関する「緊急事態宣言」とは、どういうことか。簡略にいうと、「医療崩壊」しないように社会全体が注意しましょう、ということだ。このウィルスに社会の6割が感染すれば、「集団免疫」ができると専門家は口にする。だが、集団免疫ができても、ウィルスへの感染は起こりうるし、感染すれば「持病持ち」は重症になる可能性は、たぶん先も変わらない。ただ「集団免疫」ができれば、「三蜜」の濃厚接触があっても、症状が出ないか軽症で済むケースが多くなり、ま、今のインフルエンザのように「気を付けましょう」で向き合っていけるだろうということだ。だが6割が感染するまでに何年かかるか。昨日(4/19)、全国で1万人の感染者といって騒いでいるが、2月中頃からと計算すると、2カ月で1万人。これが算術級数的にすすむとは思わないが、1年で20万人と想定し幾何級数的に増えるとしても、8000万人ほどが感染するにはおよそ9年ほどかかる。
その間にワクチンができるであろうから、緊急事態の解除はもっと早く進展するであろう。まずその何年かを我慢すれば、社会関係を元に戻せるかというと、そうはいかない。
ひとつは、インフルエンザのように季節性の流行病ではないこと。天然痘やポリオ、あるいはHIVのように、常時感染に気遣わなければならないウィルスの一つになるのかもしれない。伝染性がそれほど強くないことからすると、ノロウィルスとかに対するのと似たようなレベルの注意で済むかもしれない。一般的には、そう言える。
しかし、その「緊急事態期間」を過ぎても、通常のインフルエンザの10倍以上の致死率をもつ新型コロナウィルスの「脅威」は、消え去らない。ワクチンによって致死率は弱められるだろうが、心臓病や腎臓病、糖尿病という持病を持つこと自体が、これまでと違って一挙に死に近づく病となる。個体としては、常時健康に気遣って暮らしをつくって行かねばならない。高度消費社会と浮かれてばかりもいられない、暮らし向きの大転換が必要になる。
今回の世界的な「封鎖」や「往来の自粛」、つまり8割方の往来密度の低減と考えてみると、世界的な分業と協業の関係を見直さなくてはならない。社会的なインフラストラクチャーともいえる「産業製品」は自給できる態勢が必要だ。マスクばかりではない。医療機器も、施設も、食料や日用品も、安ければいいというので労賃の安い途上国に頼っているわけにはいかないことが、よくわかる。日本の製造業界は、ガラパゴス化していたと反省的に語られることが多かった。ガラパゴス化というのは、国内需要だけを視野に入れ国内企業だけを競争相手として製造企業が百貨店的に展開することだ。グローバル化が叫ばれ始めて以来、日本の製造業はこの「弱点」を克服しようと、中小企業を含めてどんどん海外へ製造拠点を移してきた。だが、ひょっとすると、この視野の狭いと言われる「弱点」が「国内自給」をする「強み」になるかもしれない。つまり、インフラ的必需品を国内生産によって自給する割合をあげていくことなども、社会設計として必要になることが、今回のことでよくわかる。それは、資本家社会の論理の成り行き任せにしておいては、果たせぬ夢になる。どうそれを設計し、展開するか。そういうところを政治や経済の専門家たちに思案してもらいたいと思う。
では、個体としてはどう「生き方」を考えるといいか。そんなことを考えていたら、ちょうど一年前にこのブログに記した「生きていくということ」(2019-04-19)が目に入った。それにまず、目を通していただきたい。人が生きるということの「基本」がどこにあるか。高度消費社会で育つということが、その「基本」の何を損なっているか。それを育てる側から考えてみようとしたエッセイである。
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