2020年4月4日土曜日
分解が進む「わたし」か
このところよく身体を動かしている。外出しないようにという呼びかけに反撥しているからではない。公共交通機関をつかえなくなったカミサンが、ご近所のサクラを観て歩くのに、つきあう。ついでに鳥を観て植物観察をするのに、話し相手がいると張り合いがあるからであろう、私がつきあう。つきあっていて一つ分かったこと。カミサンが植物の名前をしっかりとわかるのは、日々繰り返し目に入る「雑草」や「雑木」や「鳥」の名前を自分に言い聞かせながら再生しているからだ。その再生のヴォイスレシーバに、いま私がなっているということ。だが、ご近所をおおむね歩きつくした。
そこで私の車で移動して、遠方の自然公園などに行ってみようという。それが三毳山であったり北本の自然観察公園であったりする。日頃、週1で山に足を運んでいる以外は家に籠っている私が、それに加えてカミサンの散策に付き合うから、週に5日間は外を歩いている。そのせいかどうか、わが身に微細な変化が起こっているのが、感じられるようになった。身体を動かして心地よくなるというのではない。逆で、わが身の裡がもぞもぞと変わりつつある感触を、感知するセンサーが働いているような気がする。
まず、お酒の分解が以前ほどスムーズに進んでいないような気がする。焼酎を飲むとそれほどでもないが、夕食時にワインを飲むと夜中の日付が変わるころにはすっかり分解されていくようであった。ところが、気分よくワイングラスに二杯も飲むと、午前2時ころまで時間がかかっているように感じられる。むろん二日酔いというような気分ではない。肝臓が、一杯のときよりも手古摺っているなあと、そのご苦労が伝わってくる。そうなると逆に、それが体調のバロメータのように思えて、夕食の一杯をやめたりする。カミサンは「えっ、飲まないの?」と私の体調が悪いのかと気遣う。悪いのかどうかは、わからない。わからないまま、生活習慣のように飲むのがばかばかしくなってきているのかもしれない。そうか、もうじき半世紀ほど前になるが、タバコをやめたときの成り行きが、こうだったかもしれないと思う。止める苦労は、あまりなかった。
手足の末端に、ときどき小さい痛みが訪れる。ああ、これは尿酸の結晶がこの末端にいま届いて、関節に引っかかっているのだろうなと、感じる。筋肉痛は起きなくなっているが、靴の中の足底の右や左、爪先や踵に、軽い痛みではないが、負担が偏ってかかっている感触も起こる。あるいはまた、背中の左側が重く感じられたり、それが右側に移ったりするようにも思うことがある。ああ今、その部分が、ほぐしてもらいたがっているなあと思うが、ゆっくりと体全体を揺さぶる以外に、手の施しようを知らない。あるいはまた、朝軽く体操をしているとき、腕の上がり方が中途半端だと思ったり、身をねじるときの廻り方がいい加減になっているなあと思うことがある。なんだろう。ただ単に年を取ったと言えば言えなくはないが、これは体の内部が分解されていく響きなのではないか。分解はされたものの、そのあとの補填がすすまなくなって、身の動きの機能がしばらく休止状態となっているのではないか。
そう思うと、死んでから私たちの体が分解されて土に還るというのは、じつは、身の本体と外部との関係であって、身の裡でもつねに入れ替わりの分解と補充が繰り返されている。それが年を取ると、補充がうまくいかず分解だけがすすんで、いつしか身の動きがつかなくなる。そのように私たちの体は日々分解され、身の裡だけで補充が利かなくなると、緩やかに外へ分解の始末を回すようになる。つまり、身の裡と土に還るのとが「分解」を通じて地続きになっているのが、感じられるようになったのかもしれない。そろそろ、お迎えが来るということだろうか。まさか。
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