2020年4月26日日曜日
言葉にならない「おもい」は、何処へ行くのか
去年の4/22から5/3にかけて、このブログで、「言語以前と言語以後の世界」とタイトルを振って、4回にわたって思いを綴っている。その十日ほどの間に、山にも行き、「令和」に変わったお祭り騒ぎを「天皇制の劇場化」とみてとったり、大澤真幸の雑誌に載ったエッセイを引いて、日本人の無意識の根っこにある「天皇制と民主主義」について考えたり、読んだ本の感想を書いたり、5本のエッセイを記している。
それらを読み返して想うのだが、わずか一年の間に、私の言葉になるのかならないのかわからない領域の「おもい」が、増えたように思う。言葉にするほど「おもい」が固まらないのか、そうするのが面倒なのかも、わからない。なんとなく、ぼんやりと「何か」が胸中を漂い、口をついて出る言葉はなんとも「つまらない」。その「何か」がなんであるかをとことん探究しようという気力も薄れている。
「混沌の海から(何かを手掛かりに)引きずり出してみたところ」で「ことば」になる。その「何か」は、誰かの本を読んでいるときに出くわした(よくわけのわからないこと)(でも、何かしら大切なことを言っている感触は感じる)違和感というよりも、「わたしにはわからない(とわかる)こと」。ああ、若いときにもっとそのたぐいの本を読んでいれば触れたかもしれない「世界」が、渺渺と広がっていることだけは感じとれるような感触。
今日(4/26)の朝日新聞「折々のことば」は
《ヒトは自分の見たいものしか見(え)ない 下条信輔》
を引用して、鷲田清一は「…人の判断には自分でも気づかない枠組みがあり、フィルターがかかっている…」と下条のことばを借用して、「まなざしに期待のバイアスがかかり、他人の動きにもつい惑わされる。厄介なのは、辻褄を合わせようとしてますます自信の判断に固執し、引き返せなくなること」とことばをつないでいる。この(下条のいう)「自分でも気づかない枠組み」というのを、鷲田は(無意識に傾いている)自分の「期待」に合わせてものごとを選び観ていると解釈している。
だが「自分でも気づかない枠組み」というのは「期待」という(好ましいこと)だけではなく、(気にしている傾き)と(善し悪しを抜きにして)読み取る方が的確なのではないかと、下条のことばに共感を感じつつ、わが身の感じている「わからない(とわかる)」感触を重ねて、思っている。その違いが気になった。
つまり下条のことばを私ふうに言い換えると、
《ヒトは自分に見えるものしか見(え)ていない》
といえそうだ。
そして歳を経てみると、「自分に見えるもの」の地平の端境が薄ぼんやりと見えてきて、その向こうに渺渺たる「無明」が広がっていることだけが感じとれる。すでにこの渺渺たる領野に踏み出している人が数多いることは、幾多の本を手に取っても、なぜこのようなことに首を突っ込んでこのように言葉を紡いでいるのか、その世界の常套句であろうジャーゴンをふくめて、皆目見当がつかないことがあるからだ。逆に若い人たちのアクティヴな活動に、似たような感触を感じることも、最近は多くなった。
もちろん「見たいものしか見えない」地点からそれを一口で、(わけのわからないバカだ)とか(そういう人もいるよ)と達観したふうな言葉を吐いて片づけることもできなくはなかろう。それが鷲田のいう「辻褄合わせの持論への固執」だ。
だがこちらはもう、持論を固執する歳でもないし、そもそも持論などというものがあろうはずもない。ただ、わが「せかい」が出会わなかった「世界」が、別に次元を異にするわけでもないのに、屹立していることをぼんやりと感じるだけの「言語以前の世界」が内心に揺蕩っている。
それをそのまま放置して、わが「せかい」を閉じることになるんだなあと「おもう」ばかりである。
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